George Enescu

By , 2008年4月13日 9:45 PM

ヴァイオリン音楽好きなら、「ジョルジュ・エネスコ」というヴァイオリニストの名前を聞いたことがあるかも知れません。ヴァイオリンの巨匠の1人として知られています。

最近、「ジョルジェ・エネスク-写真でたどるその生涯と作品-(ヴィオレル・コズマ著、竹内祥子編訳、ペトレ・ストイヤン監修、ショパン出版)」という本を読みました。ルーマニア人ですので、発音が難しく、本書では「ジョルジェ・エネスク」と記載されています。

エネスクは 1881年 8月 7日 (19日説もあり) にルーマニアのドロホイ県、(現ボトシャニ県) リヴェニ・ヴルナヴに生まれました。父のコスタケ・エネスクはテノールの歌手であり、ヴァイオリンも演奏しましたが、農業をおもな生業としていました。母のマリア・コズモヴィチ・エネスクは、ギターやピアノを演奏していましたが、プロの演奏家ではありませんでした。医学の未熟な時代であり、マリア・コズモヴィチ・エネスクの子供のうち、4人が死産で、7人が 12歳以下で死亡し、末子のジョルジェのみが生き延びることができました。

コスタケ宅は音楽サロンでもあり、子供の教育のために音楽家を雇ったりしました。ヤシからやってきたエドゥアルド・カウデッラは 1886年と 1887年の 2回ジョルジェに会い、ウィーンで学習することを勧めました。それを受け、1888年に 7歳のジョルジェ・エネスクはウィーン学友協会の音楽院を訪れます。しかし、当時、規則で 10歳未満の子供の器楽コースへの入学は認められていませんでした。それにも関わらず、ジョルジェ・エネスクは特例として入学が認められました。そのすぐ前にも特例として認められた人物がおり、それが有名なフリッツ・クライスラーです。

小児期には、小さいサイズのヴァイオリンで練習するものですが、エネスクはやがてフルサイズのヴァイオリンを演奏するようになり、「サン・セラフィーノ、ウィネーゼの製作者、1663年」と署名の入ったヴァイオリンを持つようになりました。エネスクの教師は、ルードヴィヒ・エルンスト (ピアノ)、ロベルト・フックス (和声、対位法、作曲)、アドルフ・プロスニッツ (音楽史)、ヨーゼフ・ヘルメスベルガー二世 (室内楽)、フェステンベルガー (合唱)などでした。

エネスクは 11歳でメンデルスゾーンのヴァイオリン協奏曲ホ短調をソリストとしてウィーンで演奏し、成功を収めました。そこへ、シュヴェリン劇場専属オーケストラが 11歳のエネスクにコンサートマスターとして雇いたいと接触してきたのです。実現はしませんでしたが、彼の音楽家としての資質を証明する逸話です。1893年のウィーン音楽院での卒業演奏会では、彼はパブロ・デ・サラサーテの「カルメン幻想曲」を演奏しました。

1895年になると、ジョルジェはパリを訪れました。パリ音楽院作曲家教授のマスネ宛の紹介状を持参です。パリの当時の音楽水準は低かったらしいのですが、マスネ、フォーレとの接触は大きな刺激になったようです。同音楽院での彼の師は、ヨゼフ・マルシク (ヴァイオリン)、ホセ・ヴィーテ (ヴァイオリン)、ルイ・ディエメ (ピアノ)、アンブロワーズ・トマ (和声)、テオドール・デュボア (和声)、アンドレ・ジェダルジェ (対位法)、マスネ (作曲)、フォーレ (作曲)でした。また、学友にはジャック・ティボー、アルフレッド・コルトー、モーリス・ラヴェル、ロジェ・デュカス、アルトゥール・オネゲルらがいました。また、彼が出入りしたマノラアケ・エプレアヌ公のサロンには、音楽家のグノー、サン=サーンス、マスネ、フォーレ、アントン・ルービンシュタイン、アンリ・ヴュータン、イグナーツ・パンデレフスキ、画家のピエール・ボナール、ジャン・エドゥアール・ヴィヤール、作家のアナトール・フランス、マルセル・プルースト、彫刻家のアリスティード・ブールデルなどの名士が訪れました。パリにいる間に、彼はストラディヴァリを手に入れました。パリでの充実した時代を送った後、彼はルーマニアに帰国しました。

ルーマニアに帰国した後も、ヴァイオリニスト、ピアニスト、指揮者として各地を飛び回り演奏活動を行っていたエネスクですが、作曲家としても、歌劇≪オイディプス王≫など数々の名曲を残します。また、教育者としても、1928年にハーバード大学で教鞭を執ったりしました。

エネスクは 1946年に、全体主義政府から逃れるため、アメリカに亡命しました。また、マルカという女性に恋をし、1937年に 56歳で結婚しました。エネスクはかなり入れ込んでいたようで、彼女のことを常に「愛する王女」と呼んでいたそうです。精神疾患に罹患したマルカの看病のために、演奏活動を数年間中止したといいます。1947年にエネスク夫妻はパリに戻りました。彼は1952年 7月 1日に最後の遺言書を書き、そこには「私は自分の財産を後見人である私の妻にすべて委ねます。そして以前私が書いた遺言は無効とします。私は妻を私の後継者としてフランス・アカデミーの委員に任命します。」とあります。

1954年 6月 13日にエネスクは心臓発作を起こし、パリのアタラ・ホテル移されました。ホテルのオーナーのフロレスクは無料で受け入れ、エリザベート王妃は看護婦を雇い、エネスクが亡くなるまで看病させたといいます。作曲家のマルチェル・ミハロヴィッチもエネスクの死ぬ間際、看病に当たった一人です。ミハロヴィッチは「エネスクの意識はずっとはっきりしていたが、寝たきりで左腕は完全に麻痺していた」と言っていたそうです。1955年 5月 4日に、彼は亡くなりました。本書には、病床でのエネスクの写真が掲載されていますが、左腕は写されていません。ルーマニア国立オペラ歌劇場正面の公園にある彼の銅像の写真を見ると、左手はWernicke-Mannの肢位をとっているように見えます。彼は、希望したルーマニアのバカウ州テスカニではなく、パリのペール・ラシェーズ墓地に埋葬されました。

ヴァイオリニストとしてのエネスクの腕前は、今更説明の必要はありません。巨匠としての名声は、完全に確立されています。彼がヴァイオリニストとして如何に素晴らしかったかを示す逸話を「ストリング 2002年 9月号」から紹介します。

奏法を極めて至る音楽観というもの<一>-ヴァイオリニスト・朝枝信彦-

音程というのは、体全体でとる、という話を以前しました。音というものはそういうものだ、という話をしました。

で今回、もっと押し進んで、調性というのは、象徴からくるものである、ということですね。G-dur、D-dur、A-durという風に幸福度が増してくるシャープ系と、憂鬱度が増してくるフラット系、そういうものがありますよね。悲しい、だけど絶望していない、絶望しているけれども力強さのある c-mollとか。音程というのはそこから来るんですね。

だから『音程というのは作るものじゃなくて、来るもの』なんです。だから、象徴、イマジネーション、そういうものがあって、これは万人共通のものですね。そういうところから調性、音程が来る。

僕が初めてミルシュタイン先生にレッスンを受けた時に『君、音全部違っている』と言われたのは、そういう調性感からくる音程を考えていなかったからなんです。

僕は音程を正しく弾いたつもりでも、全然合っていないわけです。例えば、ブラームスの d-mollで、ソット・ヴォーチェで、というところから来る音程で弾いていなかったんですね。だから、君、全部音違っている、と言われてもそれは当然のことでしょう。

ミルシュタイン先生が亡くなる一週間前に、エネスコの CDが届いたことがありました。ヘンデルのニ長調の四番のソナタ。

先生は『きれいだな。お前分かるか』と言うわけ。『エネスコは音を探って弾いている、それが美しい』と言う。『ヴァイオリンをどうやって弾いたらいいか、今よく分かる』って言われるんですよ、八十九歳の先生が。僕みたいな若造にそういうこと言うわけ。泪流すんですよ。『でも、もう歳だからヴァイオリンは弾けない、だけど弾きたい』と言うんですね。『エネスコは偉大だったと。エネスコは美しい』と言うんです。感動しましたね。

ミルシュタイン先生が亡くなってだいぶ経つけれども、非常に懐かしいと同時に、そういうことを言う先生自体が、非常に崇高で美しいと思う。自分の中にもそういうものを求めているということを最近すごく感じるようになりましたね。

歳をとるというのは素晴らしいことですよ。

不幸というか、現代では、レッスンでそういうことを言ってくれる先生というのがほとんどいないですよね。目先の技術が優先されてね。

コンクールで良い賞をとる生徒を育てるのがいい先生とされているから。だけど、本当のものというのは、目に見えないものでしょう。目に見えるもの、計れるものというのは、確かに大事かもしれないけれど、それは一つの手段なんですよね。

手段を学習することによって、到達する真の目的というのは、本当は目に見えないものを悟るということなんですね。だから、それ自体は何の価値もないんですよ。

でも、そういうもの、つまり手段を学習することによって、ある時、ふっと、その奥にある、つまり目に見えないものを悟るわけですね。

指揮者としてのエネスクは、1898年に 17歳の時、自作のルーマニア詩曲 Op.1でタクトを振り、1905年以降は海外のオーケストラでも指揮をするようになりました。バロック、古典派、ロマン派、現代曲まで幅広いレパートリーを誇りました。アメリカの音楽学者の中には、指揮者としてのエネスクをレオポルト・ストコフスキー、ディミトリ・ミトロポロス、アルトゥール・トスカニーニと同格に扱う人もいるそうです。ルーマニア以外で彼が指揮したのは、コロンヌ、ラムルー (フランス)、ニューヨーク・フィル、フィラデルフィア交響楽団などです。

ピアニストとしてのエネスクは、1897年に 16歳でヴァイオリニストのエヴァ・ロランの伴奏としてデビューしました。彼はピアニストとして百回以上舞台に立ったと言われています。カーネギーホールを初めとする数々のホールで演奏し、ジャック・ティボーやパブロ・カザルス、ダヴィッド・オイストラフ、カール・フレッシュらの伴奏をつとめました。暗譜を得意とし、オーケストラ曲をピアノで数時間、暗譜で演奏することもあったそうです。バッハ、モーツァルト、ベートーヴェン、ブラームス、フランクのソナタとピアノ協奏曲全曲がレパートリーであり、しかも全て暗譜していたそうです。かのハイフェッツがヴァイオリンのレパートリー 930曲ほとんどをピアノ譜まで暗譜し、ときにピアニストより上手にピアノを演奏した逸話があるのと似ていますね。

教育者としては、弟子を列挙すれば、その凄さがわかるでしょう。弟子には、イェフディ・メニューインアルトゥール・グリュミオーイーダ・ヘンデルクリスチャン・フェラスウート・ウギ、ロベルト・ゾータン、イヴリー・ギトリスローラ・ボベスクらがいます。

本書は、写真が豊富ですので、是非実際に手にとって読んでみて欲しいと思います。

さて、それでは彼のCDを聴きながら、ワインでも飲むこととしましょう。今日聴く CDは、「George Enescu, J.S. Bach / Sonata and partitas for solo violin (PHILIPS 422 298-2)」。1948年の録音です。晩年の録音ですので、技術的には少し衰えが見られますが、それを補って余りある迫力が伝わってきます。ジョルジェ・ネエスクという「人」を感じる演奏です。

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