田原淳の生涯

By , 2006年10月28日 5:28 PM

宣(よ)きかな
己が父祖を好みてしのぶ者は
彼らのかずかずの業績と偉大さとを、喜びもて
聞く者に語り伝え、しかして喜びの心を抱きつつ
この、うるわしき系譜の末に
わが連なるをさとる者は (ゲーテ)

このような文章から本書「田原淳の生涯(須磨幸蔵、島田宗洋、島田達生編著、ミクロスコピア出版会/考古堂書店)」は始まります。

田原博士が心臓の研究を始めた頃、心臓を伝わる刺激は神経によるものか、筋肉によるものか不明でした。また、どのような経路を伝わるかも明らかではありませんでした。心臓にあるヒス束、プルキンエ線維などの構造物も役割が不明だったのです。田原博士の業績を列挙します。

(1)房室間連結筋束の全走行と組織像を解明し、刺激興奮の伝達を司る系とみなし、刺激伝導系と命名
(2)刺激伝導系の起始部に網目状の結節(田原の結節=房室結節)を発見
(3)左右両脚の走行の正確な記載
(4)プルキンエ線維が刺激伝導系の一部であること、また仮腱索が刺激伝導系であることを発見
(5)筋原説の正当性を決定的にする
(6)線維の太さと刺激伝導速度などに関する推論
(7)リウマチ性心筋炎患者におけるアショッフ結節の発見

田原博士は東大に主席で入学し、卒業後は東大皮膚科に入局しました。実家の九州に帰る前にドイツの Ludwig Aschoff教授のもとに留学。弁膜症で肥大した心筋はなぜ麻痺を起こしやすいかをテーマに研究を始めました。しかし、病理学的に証明できず、ヒス束に目を向けました。しかし、ヒス束についてはほとんどわかっておらず、研究を続けるうちに未知であった刺激伝導路の全貌を明らかにすることができたそうです。ちなみに Ludwig Aschoffの孫は現在ウルム大学神経内科の教授であるそうです。

田原博士は、1903年に私費でドイツに留学し、1906年には帰国していますから、わずか 3-4年でこのような偉大な業績を積み上げたことになります。

本書には、田原氏が Aschoffにあてた手紙のコピーや、田原家の家系図の他、田原氏の病理標本のスケッチなど図表も満載です。驚くべきは、田原氏のスケッチと、今日の電子顕微鏡写真がほぼ一致していることです(本書では並べて比較できるようにしてあります)。

当時は日露戦争があり、日本は世界の中で微妙な立場にありました。そうでなかったとしたら、ノーベル賞は間違いなかったのではないかと著者は述べています。

心筋間をどのように興奮が伝達するかは、最近かなりわかってきました。本書でも、最新の知見が紹介されています。心筋間の伝導の中心となるのは、ギャップ構造という特殊な連絡通路です。心筋梗塞などで心筋が障害されると、この通路は閉じて障害が広がるのを食い止めるそうです。ギャップ構造を形成するのは、コネキシン (Cx) というタンパク質で、コネキシンには 20種類ほど知られています。心筋には Cx43, Cx40, Cx45が存在し、伝導度が違うのだそうです。コネキシンの分布は心臓内で違い、房室結節で伝導速度が遅れるのは、そこに多く分布する Cx45の伝導度が低いためで、通常の心筋では Cx43が主体です。プルキンエ上流は伝導度の高い Cx40が中心だそうです。心電図がまだほとんど知られておらず、ギャップ構造も知られていなかった時代に、解剖学的特徴だけで、伝導の遅い部分と早い部分があることを推察した田原博士の先見の明には恐れ入ります。ちなみに、Cx43欠損マウスは、出生後まもなく不整脈で死亡するそうです。

余談ですが、1930年頃 WPW (Wolff-Parkinson-White) 症候群が発表されていますが、1910年にWilsonが報告しているので、WWPW (Wilson-Wolff-Parkinson-White) 症候群というのが正確ではないかなどという話も載っていました。

野口英世などと並ぶほどの業績を残した日本人がいたことを風化させないためにも、本書は貴重だと思います。

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