医学者の手帖

By , 2012年5月24日 6:36 AM

「医学者の手帖 (緒方富雄、森於菟著、学生社版)」を読み終えました。科学随筆文庫の一冊です。

緒方富雄氏は、緒方洪庵の曾孫にあたります。クラシック音楽が好きだったようです。「ないようで」という随筆には、次のように演奏の話が出てきます。

書いてあることだけが、われわれのいとなみを規定するのではない。書いてないものも大いにわれわれを規定する。

ある楽譜を、書かれたまま演奏すればいいのなら、仕事は簡単である。実は、譜に書かれていないものを演奏し出すところに、むずかしさがある。つきつめていえば、それを「書かれてないもの」と見るかどうかに問題の中心がある。

どこをあるいてもよさそうな道にも、ひとがつくったもうひとつの「みち」があるように、どうふるまってもよさそうにみえるところにも、おのずから「なにか」があるところに、人のいとなみの「みち」がある。

これは一例ですが、「ある日」という随筆で、カーネギーホールでの切符の買い方を教えてくれた人物に触れていますから、アメリカ時代は良くコンサートを聴きに行っていたのではないかと思います。

森於菟 (もりおと) 氏は森鴎外の長男です。台湾大学医学部長を務めました。さらにその長男は皮膚科医で、社会保険埼玉中央病院で皮膚科部長になられたそうです。

さて、森於菟氏の随筆には、森鴎外のことが多く登場します。「観潮楼始末日記」は、森鴎外が住んでいた家の処分に奔走した話で、鴎外との想い出が、多くの文人との逸話と共に彩られています。下記に記すワンシーンは、明治時代の文学史がそのままそこにあります。

つぎは明治四十三年の春某日の夕、観潮楼階上で月例の歌会(父は短詩会と呼んでいた)が催されていた。父のほかには竹柏園主人佐佐木信綱、いつも紋附羽織袴お公卿様のような端麗な風采で悠然と柱に背を寄せておられる。わざと縁側に座蒲団を持って来て、あぐらをかき腕を組む肥大漢は根岸派の伊藤左千夫。新詩社のおん大与謝野寛はすべてに滑らかなとりなしで起居も丁寧である。皆その日の出題によった短歌の想を練っているのであった。若い人たちはもとの「明星」派が圧倒的に多い。伯爵の若殿吉井勇は大柄な立派な体躯でゆったりと控える。おでこの石川啄木は故郷の山河に別れて間のないころであったろう、頭に浮かんだ歌を特有のキンキン声で口ずさむと父が大声で笑う。北原白秋は既にキリシタンの詩で知られており、平井修は幸徳秋水を弁護することで父に相談にきた弁護士である。木下杢太郎は東大医科の学生太田正雄で私より数年の先輩。大久保栄さんが生きていたらこの中にいるだろうにと私は思う。平野万里は工学士で私の幼なじみ、私が里子に言った大学前森川町の煙草店の長男で当時私の「兄ちゃん」とよんだ人。このほかに「アララギ」派では伊藤左千夫のほか時々斎藤茂吉、小泉千樫など。

森於菟が書いた「鴎外の健康と死」という随筆で初めて知ったのが、森鴎外の死因となった病気について。一般的には萎縮腎(腎不全)とされているらしいのですが、これは誤りらしいです。その経緯について、非常に面白いことが書かれていましたので、長いですが引用します。

父の事績を忠実に記録したのは父の末弟なる森潤三郎であるが彼も真実を知らなかったのでその後の伝記の誤りはすべてこれに端を発しているといってよい。私にこれを語ったのは父の死床における主治医額田晉博士である。私が終戦による台湾からの帰国後勤務した東邦大学の医学部長(現在は学長)であった同君は、父の終世の親友で遺書を托した故賀古鶴所翁の愛姪を婦人とする人である。賀古さんは重態に陥りながら誰にも見せない父を説き落とした結果、それなら額田にだけ見せようとその診察を受けることを父が承知したただ一人の医師が額田君で、私と独協中学からの同窓、東大を出て十年に満たない少壮の内科医、賀古氏と同じく父の親友青山胤通博士門下の俊秀であった。父の最終の日記「委蛇録」中、大正十一年壬戊日記六月の条に「二十九日。木。(在家)第十五日。額田晉診予。」とあるのがそれで、その翌日からは吉田増蔵代筆で七月五日まで記録がつづき、九日終焉となったのである。

私が東邦大学の教授となった年、夏休暇前と思うが「いつか君にいって置こうと思っていたのだが」と前置きして額田君は話し出した。「鴎外さんはすべての医師に自分の身体も体液も見せなかった。ぼくにだけ許したので、その尿には相当に進んだ萎縮腎の徴候が歴然とあったが、それよりも驚いたのは喀痰で、顕微鏡で調べると結核菌が一ぱい、まるで純培養を見るようであった。鴎外さんはそのとき、これで君に皆わかったと思うがこのことだけは人に言ってくれるな、子供もまだ小さいからと頼まれた。それで二つある病気の中で腎臓の方を主として診断書を書いたので、真実を知ったのは僕と賀古翁、それに鴎外さんの妹婿小金井良精博士だけと思う。もっとも奥さんに平常のことをきいたとき、よほど前から痰を吐いた紙を集めて、鴎外さんが自分の庭の隅っこへ行って焼いていたと言われたから、奥さんは察していられたかも知れない。」

Wikipediaには、鴎外の死因に腎不全と結核を挙げています。極めてシンプルな記載です。

1922年(大正11年)7月9日午前7時すぎ、親族と親友の賀古鶴所らが付きそう中、腎萎縮、肺結核のために死去。満60歳没。

さて、鴎外の健康を論じる以上、家族歴は極めて重要です。森家の家族歴についても詳しく書いてあります。全部は紹介しきれないのですが、本文中に簡単な要約があります。

女性は概して長命であり、男性は晩年に動脈硬化が著しく、ことに腎臓を侵して萎縮腎になりやすい。

家族性の腎不全だと、多発性嚢胞腎などが挙げられるかと思いますが、動脈硬化が著しいという記載をみると高血圧+腎硬化症も鑑別になるのでしょうか。

森鴎外の最初の妻であり、森於菟の母であった森登志子は離婚後結核で亡くなっているそうです。森鴎外が結核であったことを考えると、夫婦はどちらかが移したものである可能性が高いでしょうね。

最後に、余談ですが、森家と順天堂の接点が書かれていました。

さてここで父の最初の妻すなわち私の実母の病歴をみよう。登志子の父赤松則良は幕臣で西周、津田真道と共に西欧に派遣された赤松大三郎である。その妻貞子は林洞海の女、佐藤尚中や松本順の姪に当り順天堂はその一族で、また、その姉は子爵榎本武揚の室である。

この本、こうした裏話が満載で、かなりお勧めです。

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