分子生物学に魅せられた人々

By , 2013年8月18日 4:25 AM

分子生物学に魅せられた人々 (日本分子生物学会編, 東京化学同人)」を読み終えました。分子生物学の創成期に活躍した先生が数多く対談されていました。遺伝暗号も同定されていなかった時代に活躍されていた先生も多くおり、時代を感じました。本書にはこうした研究者たちの波瀾万丈な研究生活が数多く収録されています。

私は基礎研究者ではないので、基礎研究者のことはあまり知らなくて、この中で話を聴いたことがあるのは田中啓二先生くらいですが、対談を読んでいて実際に話をきいてみたい先生がたくさんいました。とはいえ、元基礎研究者の知り合いに聞くと、「(本書に名前が出てくる) ○○先生は性格悪くて有名なんだけどね」なんていうのもありましたが・・・ (^^;

特に面白かった部分を引用します。学者向けの本ではないのでマニアックな記載は少ないですが、テクニカルタームを知らないと多少わからない部分があるかもしれません。分子生物学の勉強を始めたくらいの人に勧めたい本です。

2. 岡田吉美

岡田 もちろんいろいろあったけど、特に僕の場合は留学直前に中心性網膜症になり、大変だった。阪大の眼科では「仕事をしないで安静にしていなさい。留学なんてもってのほか。太陽光線にはなるべくあたらないように」と言われた。それで大学の仕事を休んで、黒い色眼鏡を掛けて、家の一番日当たりのない部屋でじっと座っていた。僕の人生で一番沈んだ何日かだったよ。

一ヶ月くらいしてね、山村先生の主催する班会議が大阪であって、僕は事務局をしていたので、「一日くらいいいだろう、出てこい」と呼ばれて、その班会議に出ていった。そこに九州大学の眼科教授の生井先生が班員でおられたわけ。班会議が終わって懇親会のときに、「僕は今すごく落ち込んでいるんです。実は云々・・・」という話をしたんだ。そのとき生井先生がいわれた言葉を今でもはっきりと覚えている。「君、中心性網膜炎は今の医学では何をしても治らないよ。だから、安静にしていても仕事をしていても結果は同じだ。くよくよしないで早く留学しなさい。中心性網膜炎は片方の目だけで、両目に広がることはない。目は一つあれば十分だ」と言われたんだ。それで僕は生き返って、次の日から元気をだしてまた留学の準備をして、最初の予定から二ヶ月ほど遅れて出発した。

3. 村松正實

濱田 僕が記憶しているのは、α-32Pの CTPをつくるのに、ポリヌクレオチドキナーゼが必要で、それを京大の高浪満先生のところにいただきに行って、それを使って無機リン酸からつくった覚えがあります。五〇ミリキュリーぐらいの無機リン酸を使って、胸に鉛のエプロンをして。

村松 ほんと。「ベータ線だからあまり深く入っていかないよ」なんて言いながら、実は二次放射能のガンマ線を浴びていた。

(略)

村松 僕にどこか誇れるところがあるとすると、若い人が伸び伸びと育ってくれたということだと思うんですよ。この前、僕のラボにいて教授になった人数を誰かが調べたら、三六とか三八ぐらいになるんだよ。

濱田 もう一つ気付いたことは、先生は研究室の人に対して怒ったことは一度もないですね。

村松 そうかな。ある時から、人に対して怒ったら負けだという考えをもったんです。これは僕のモットーです。「怒ったら負け」。つまり、怒るということは、ある人に対して適切に扱えなくなったということですよね。評価もしなくなったし、扱えないし、関係も保てないし、となるのが感情的に怒るということでしょう。だから、自分で気にくわない人にあったら、その点を論理的につかまえて率直に言うようにして、怒るというかたちではあまり表現しなかった。「これは駄目だよ、こうこうこうだから」ということは言いました。だけど怒らない。確かに若いころは怒ったり喧嘩もいっぱいしたけど、結局、長い目で見るとあまり得しないんだよね。結局、自分があとで苦い思いをすることになる。そうじゃなくて相手をうまく説き伏せることのほうが重要だろうと思った。

4. 志村令郎

志村 (※アメリカ留学時の話) 最初の試験は、まず外国語の試験でした。最初に課された外国語はドイツ語とフランス語なんです。ドイツ語は、決められた時間で長いドイツ語の文章を英語に直すこと。フランス語は試験官の先生が会話をやった。フランス語は習ってはいたので読むことは多少できましたが、話すのはできなかったので、だいぶ抵抗したんだけど、結局、駄目というわけでね。フレンチカナディアンの人が先生で、入っていくと「ボンジュール・ムッシュ」から始まってフランス語しかしゃべらないので、それでやっと五〇点くらいとったら「駄目だ、こんなものではパスしたとは言えない」と言うから、どうしたらいいのか聞いたら、「もう一つ外国語を取ることを命ずる」と。「次の外国語は何だ」と言ったら、「二つの選択肢がある。一つはスペイン語、もう一つは日本語である。どちらがとりたい?」と言うから、「できれば日本語をとりたい」と言ったら、わかってくれて日本語をとらせてくれた。

(略)

志村 ニーレンバーグが最初に発表したわけですが、当時、ニューヨーク大学のオチョア (S.Ochoa) 教授はそれを聴いて、学会が終わる前にニューヨークに帰ってきて、自分の研究室を昼間働くグループと夜働くグループと二つに分けて、休みなしにいろいろな配列の人工ポリヌクレオチドをつくって、コーディングの問題に取組んだわけです。

このことは、研究者の間では非常に顰蹙を買いました。ポリUとか、いろいろなポリヌクレオチドを人工合成するときに使った酵素は、マナゴが、オチョアのところに留学したときに見つけたポリヌクレオチドホスホリラーゼだったんですね。オチョアは、RNA合成の酵素だと決めてノーベル賞を貰ったんだけど、実は間違いで、後年の研究から、これはむしろ RNAを分解する酵素であることがわかったのです。ちなみに、ノーベル賞選考委員会は、DNAの複製酵素とRNAの合成酵素の発見ということで、それぞれ、コーンバーグ (A.Kornberg) とオチョアにノーベル賞を同時に授賞したのだけれど、両方とも間違っていたわけですね。

5. 吉川寛

吉川 その一方で、六〇年の末のことですが、バークレーでも学生運動の洗礼を受けました。大学教員の一員として学生から厳しい追求を受けました。しかし最も衝撃的だったのは学生に同情的に傾いた大学を弾圧するため、州兵が戦車を市街に繰り出し、ヘリでキャンパスに催涙弾をまき、最後は民家の屋根に追い詰めた活動家を射殺するといった暴挙を目撃したことです。リベラリストであった学長はレーガン州知事によって罷免され、運動は完敗で終わりました。アメリカはベトナム戦の泥沼に入っていったのです。私は改めて研究者と市民の両輪に等しく責任をもつことの重みを自覚して六九年に帰国しました。

(略)

吉川 一九九〇年に枯草菌国際会議がパリのパスツール研で開かれたとき、その会議の最後に突然欧州連合とアメリカでゲノムプロジェクトを計画していることが発表されました。寝耳に水の私は思わず立ち上がって「日本のグループを排除して国際プロジェクトと言えるのか」と激しく講義しました。なにしろ当時最もゲノム的研究をしていたのは開始点付近の一万塩基対の構造と遺伝子のアノテーションを発表した私たちだったのですから。

菅澤 外国人の人たちは相当驚いたそうですね。

吉川 普段物静かでおとなしい日本人と思っていたらしいので。いや、ほんとにびっくりしたらしいですね。でも私は言いたいことを言う方ですから(笑)。急遽われわれを含めて検討を行い、数時間後に改めて欧、米、日によるプロジェクトの発足を決めたのです。

6. 松原謙一

松原 ものすごかったね。真っ先に飛びついたのはお医者さんで、それぞれ自分の研究している病気の遺伝子がとりたいと。だから当時の研究室には外からどんどん右も左もわからないレイピープル(素人)がおしかけてきて、ガチャン、キャー(笑)。中にいた藤山君らは大変だったと思うよ。

藤山 おかげさまで(笑)。

松原 そのころ、予防衛生研究所の所長だった大谷明先生が「組み換え実験で B型肝炎ウイルスのワクチンがつくれないか」と来られたわけ。あれは当時は、何一〇リットルという患者の血液を使って、何十匹ものチンパンジーでテストしてつくるから、大変だった。僕は組み換え実験で何でもできると思っていたし、HBVはλdvのレプリコンと同じくらいのサイズだから、二つ返事で引き受けた。それで、熊本の化学及血清療法研究所から血清が送られてきた。

藤山 幸い、プローブがすっとつくれましたね。それと、公費で日本最初の P3施設ができていたので。

松原 P3は、僕が組換ガイドラインの委員だったから、作ってくれたんですよ。ところが・・・。

藤山 結局、大腸菌ではできなかったんですよね。

松原 そう。何でもできるはずの大腸菌で、どうしてもできない。考えられる理由は、DNAが悪いか、大腸菌ではできないか。B型肝炎の血液は、当時は日赤の規制があって入手できなくて、規制よりも前に集められた茶色くグジュグジュになったものがあった。あれは DNAが悪い可能性が十分にあった。

藤山 まず HBVクローニングにとりついた人は泣きながらで、最後のサンプルを使ってようやくコロニーハイブリダイゼーションでポツポツとシグナルが見えた。

松原 それでやっとクローニングして、シークエンシングして、大腸菌でワクチンにしようとしけど、てんとしてできなくて。だけど動物細胞に入れたら蛍光抗体で光ったの。じゃあ、大腸菌が悪い。だけど動物細胞はコンタミが怖いから、核のある酵母にしようと。幸い、阪大の東江昭夫先生が、酵母の発現用プラスミドもプロモーターもポイッとくださった。

藤山 それで案外早くできましたね。しかも電子顕微鏡でデーン粒子(患者血清中に見られるウイルス由来の構造)のような構造体が見えて。

松原 今でも僕は記念にその写真を持っているよ。あれは素晴らしい写真だものね。これはまったくのラッキーでしたよ。

藤山 とりあえずこれが、当時松原先生がおっしゃった、分子生物学が社会の役に立った最初の例ですね。

8. 堀田凱樹

広海 よく「科学は士農工商と進化する」と言っておられますが、その辺から。

堀田 昔は貴族、「士」の芸術だった。たとえばショウジョウバエや線虫には今でもその名残があって、論文は美しく完璧でないと駄目だよね。少々無駄をしても完璧を期するのが科学だった。やがて「農民」が出て来た。農民ってマウス、ね?高等で複雑で難しい。だからデータは完璧でなくても許される。「工」はテクノロジー。次世代シーケンサーとかがいろいろ進歩して。今は最後の段階で、「商」の時代に来ている。「役に立つ」から商売になる。そこでわれわれはどうすべきかという話だよね。

(略)

堀田 中井準之助先生が授業で、「読んだものをいちいち覚える必要はない。忘れようと思っても忘れられないものがみつかる」と言われた。また江橋節郎先生が「テーマを探すのなら終戦後のジャーナルを読みあさるのがいいよ」と。まさにそうだと思う。(略) 戦争中に研究ができなくて鬱積していた成果がどっと出たのが五〇年代で、そのころに面白い論文がいっぱいある。

13. 田中啓二

田中 僕の予想では二~三万の 20Sプロテアソームのバンドパターン以外に分子量一〇万程度の ATPアーゼのバンドが一本検出されるはずでした。ところが四万~一〇万の位置に十数本のバンドが見えたんですね。これには正直驚きました。しかし確信を深めて ATP存在下での酵素の精製に取組みました。そこで大量の ATPが必要になったので、ATPを市販しているオリエンタル酵母工業に一キログラム注文したんですね。そうしたらすぐに販売元から電話が掛かってきて、「先生、一〇ミリグラムの間違いじゃないでしょうか」って(笑)。当時堀尾武一さんという阪大蛋白研出身の人がオリエンタル酵母工業の研究所長をしていて、「そんなにおもしろいことがあるのなら・・・」といって、最初の一キログラムを無償で提供してくれたんです。世の中、気骨のある人物はいるものですね。僕は彼とは直接面識がなかったのですが、彼が編集した「蛋白質・酵母の基礎実験法」は、非常に優れた本で、繰り返し読み、多くを学びました。

水島 本当に一キロを使ったんですか。

田中 トータルで三~四キロぐらいは使いましたね。ATP存在下で精製すると、20Sプロテアソームと多数の調節サブユニット群から構成されたいわゆる 26Sプロテアソームが非常にきれいに精製できました。それが一九九〇年ごろですね。

(略)

田中 結局、このような不思議な酵素の存在は、不審感というか、疑惑の眼差しで見られていたのですね。その理由は、構造的な情報がまったくなかったからです。昔、タンパク質構造討論会というのがあって、現在の日本蛋白質科学会の前身ですが、そこでプロテアソームの話をすると、岩永貞昭先生が出席されておられて「田中さん、その酵素の構造を決めなければ駄目だよ。一次構造がわからなければ、プロテアーゼの本質なんか全然わからないじゃないか」と指摘されました。そこで、九大理学部に岩永先生を訪ね、分離精製したサブユニットの構造解析をお願いしに行きました。たくさんのサブユニットのデータを見せると、「田中さん、これらの構造をエドマン分解で決めていたら一〇〇年以上かかるね」と言われ考え込まれました。そのころ、京大の中西重忠先生が遺伝子工学技術を導入して数多くのタンパク質の一次構造を破竹の勢いで迅速かつ正確無比に決定しておられました。岩永先生は「この複合体の構造解析は、遺伝子工学を使ってやらなければ絶対に不可能だから、中西先生を紹介しよう」と言って、そこで電話してくれたのですが、なかなか電話が終わらずに、教授室で一時間ほど待たされたのです。それで電話が終わったら「中西先生があなたの話を聞きたいと言っているから、帰ってすぐに訪ねなさい」と言われたので、僕は喜んで京大に行ったんです。そうしたら、中西先生から、「君ね、僕はプロテアソームなんて知らない。僕のラボは全国から遺伝子クローニングを学びにきている人たちで満杯状態だから、あなたに割ける実験スペースなんてまったくない」と怒っておられて、「兎も角、君の話を聞くという返事をしないと岩本先生が電話を切ってくれないから、仕方なしによんだんだ」って(笑)。「これは拙い、協力して貰うことなどとてもできないのかな」と思いながら、中西研のラボセミナーで電子顕微鏡写真などの知見を交えプロテアソームについて必死に話しました。セミナーが終わった後、間髪をいれずに中西先生は、僕にこう言ってくれましたね。「田中君、セミナーの前に僕は何か君に言ったかもしれないけど全部忘れてくれ。生体内にこんなにも巨大で複雑な物質があるとは信じがたい。これは構造を決める必要がある。うちの全力をかけて応援する」と、セミナー前の雰囲気とは一変したご様子でした。それで「クローニングで一番優秀な垣塚(彰・現京大教授)をつける」というふうに決断してくれました。中西先生は自分の弟子でも何でもないのに、その後今日に至るまですごく応援してくれています。


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