Category: 医学史

シャルコーの世紀

By , 2013年12月30日 7:18 PM

シャルコーの世紀 臨床神経学の父 ジャン―マルタン―シャルコー没後百年記念講演会 (ジャン―マルタン―シャルコー没後百年記念会・編, メディカルレビュー社)」を読み終えました。1993年7月16日に行われた、「 ジャン―マルタン―シャルコー没後百年記念講演会」の講演会の記録です。神経学の歴史に興味がある方にとっては、他では読めない話がたくさん収載されていて、御薦めですね。(なかなか手に入らなかったので、amazonの古本で買ったら、水谷ってハンコが押してあったのですが、まさかあの???(謎))

とても勉強になったので、簡単に内容を紹介ておこうと思います。

開会の辞 萬年徹

短い開会の辞が述べられる中で、フランソワ・ラブレーの研究家、渡辺一夫東京大学名誉教授の「研究が精緻となり、また、非常に最先端の新しいことを求めて常に進んで行く。確かに、そのような研究に興味と命を懸けるというのは大変なことであろう。また、研究の進展にとってはそういう態度が必要なことであろう。しかしながら、そこで得られた知識が何のために用いられるかを忘れてしまったら、いかなる優れた科学者の論議といえども、中世の神学者の “針の先に何人天使が乗れるか” という途方もない論議と何ら変わることはないのではないか。その時、それは人間たることと何の関係があるのか」という言葉が引用され、時として、行われる研究の立ち位置が問い直されることの重要性が述べられます。

シャルコーと力動精神医学 江口重幸

以前、「精神科医からのメッセージ シャルコー 力動精神医学と神経病学の歴史を遡る」という本を紹介したことがありましたが、その著者である江口重幸先生による講演です。シャルコーの大催眠理論をまず紹介し、精神医学への影響について触れています。

シャルコーのヒステリー 松下正明

シャルコーとヒステリーについて概説されます。それには、まずシャルコーがいたサル・ペトリエール病院について理解する必要があります。

よく知られているように、シャルコーが終生自らの臨床と研究の場としたサルペトリエール病院は、女性の患者だけを収容する病院でした。患者といっても、精神病や神経疾患、あるいは奇形に病む女性だけでなく、老女、浮浪者や乞食、犯罪者など、社会にあぶれ、社会に適応出来なかった女性をも収容していました。十九世紀当初、五千人から八千人の女性が入院していたと言われます。当時、パリの人口は五十万人であったとされており、その数字から言えば、精神病者や神経病者だけが入院していたのではなかったことは明らかで、その巨大さとともに、その異常さに驚かざるを得ません。そのような環境で、シャルコーがなぜ、ヒステリーの現象に注目するようになったのでしょうか。

一つには、実際に、サルペトリエール病院に収容されていた女性にヒステリーの患者が多かったという事実があります。当時のフランスはまさに産業革命が進行中であり、(略) 多くの労働者は昼も夜も低賃金で働かされ、都市の人口の大部分は貧困層で占められることになります。(略) そのような惨憺たる状況のなかでは、人は狂気になり、あるいはヒステリー発作を呈する他、なすすべがなかったとも言えます。

シャルコーがヒステリー患者に注目する第二の理由として、病院に収容された女性の数が多い一方、医者の数は少なく、一人の医師はおよそ五百人の患者を担当していたと言われていますが、そのような状況では、医師の興味を引くには、ヒステリー発作のはなばなしさが必要であったという説もあります。

ヒステリー研究におけるシャルコーの業績の第一は、「そのような狂気、中毒、老い、貧困、売春、犯罪などのレッテルを貼られた女性の大集団のなかから、それと紛らわしい神経疾患やあるいは詐病とは異なるものとして、ヒステリーを一つの独立した心の病期として確立した」ことです。また、女性のみならず、男性ヒステリーと子供のヒステリーの存在を強調しました。さらに、外傷ヒステリー、外傷性麻痺の概念を確立しました。シャルコーのヒステリー研究には、多くの批判があることは事実ですが、この講演は次のように纏められています。

しかし、後世からの批判としてはいくつかの問題点が指摘されるとしても、シャルコーによって、ヒステリーが医学の世界に持ち込まれ、科学の対象として、また男女ともに侵される疾患単位として明確に位置づけられたことは、精神医学史上、忘れられることではありません。フロイトもまた、そのことを強調し、シャルコーを高く評価しています。また、シャルコーによるヒステリーの詳細な記述があって、初めてその後のヒステリー研究が成り立ったことを考えれば、内村 (※演者の数代前の教授で「精神医学の基本問題」という本を著し、現代精神医学の出発点にある人物としてグリージンガーとシャルコーを挙げた) ならずとも、現代精神医学の源流の一つにシャルコーを見ることは正当と言わざるを得ません。未だなお、ヒステリーの病態が十分には解明されていない現代にあって、シャルコーのヒステリーを取り上げてみることに現代的意義があると考えられる次第であります。

シャルコーと日本の神経学 岩田誠

日本における臨床神経学の夜明けを開いた先達として、三浦謹之助、佐藤恒丸、川原汎の三人の名前が挙げられます。三浦謹之助先生はシャルコーの下で学び、東京帝國大学内科教授となり、1902年に精神科の呉秀三教授とともに日本神経学会を設立しました。日本神経学会の機関誌「神経学雑誌」の一巻一号の冒頭論文は、三浦謹之助先生の書かれた筋萎縮性側索硬化症の論文となっています。佐藤恒丸先生は、1906~1911年にかけて、シャルコーの火曜講義 (※1887~1888年度半ばまでになされた講義) の日本語訳を出版しました。川原汎先生は、三浦謹之助先生より 4年先輩として、東京大学医学部を卒業し、名古屋大学医学部の前身である愛知医学校で内科学を講じ、1897年に日本最初の臨床神経学の教科書「内科彙講 第一巻 神経係統編」を出版しました。

岩田誠先生は、一橋大学の野中教授が Harvard Buisiness Reviewに発表した The Knowledge Creating Companyという論文を元に、知について考察します。知は明示的な知 (explicit knowledge) と暗黙の知 (tacit knowledge) の部分に分けられるといいます。Medicineに当てはめると、それぞれ Scienceと Artに対応します。近代医学は、如何にして tacitな部分から explicitな知を引き出してくるかを使命としてきました。知の伝播過程では、暗黙知を社会化 (Socializaton) し、明示的な知に変える分節化 (Articulation) が行われます。一方で、明示的な知は容易に伝播しますが、これが結合 (Combination) の過程です。明示的な知として獲得されたものは、それを受け取った人の暗黙知に取り込まれる内面化 (Internalization) がなされます。新しい知の体系が形成されていくためには、これらによる暗黙知と明示知の間での螺旋、「知の螺旋」を形成する必要があります。この螺旋は、シャルコーが臨床神経学という新しい知の体系を築きあげていった過程をよく説明します。シャルコーは、神経病に関する多くの経験を積み、暗黙知として蓄えていきました。そしてそれを、臨床症状の観察と剖検の対比という方法論や、顕微鏡による観察などで、明示的な知に変えていく作業を行いました。暗黙知の部分を明示知として世に示すためには、臨床講義が効果的でした。一方で、彼は沢山の文献を読み、明示的な知の結合を行いました。こうして得た新たな明示知を、自らの経験の中に生かし、自らの暗黙知をより大きくしていく努力、すなわち明示知の内面化に努めました。しかし、これと同時に、暗黙知の部分をそのまま暗黙知として伝える社会化の作業も怠りませんでした。

このような考察をした上で、何故、当時シャルコーの神経学が日本に根をおろさなかったか、次のように述べています。

 ここでもう一度ベルツの警告に戻りましょう。ベルツの指摘 (※「日本人は科学を学ぶということを果実をもぎ取ることのように考えていて、その科学の果実を実らせる科学の樹を育てるに至る過程を学ぼうとしない」) は、決して某国立大学総長が述べられたような医学における基礎研究の重要性を強調したものではありません。彼が学者の精神の仕事場を覗き込まねばならないと言ったのは、まさに Medicineにおけるこの暗黙知の部分を学ばねばならない、という意味だったと思います。当時の日本の Medicineは、すでにこの暗黙知の部分を忘れて明示知のみを重視する、すなわち明示的な知のやりとりだけを科学的であると信じるに至っていたのでしょう。不幸なことながら、その当時、臨床神経学においては明示的な知の部分はあまりにも少なく、神経疾患においては分節化困難な暗黙知の部分のみが目についたであろうと思われます。さらに、臨床病理対応研究という方法論は、実践するには極めて時間のかかるものであったがために、せっかちな日本人の好みには合わなかったのではないでしょうか。それに加え、神経系の構造の複雑さ、そしてヒトの神経系に対するアプローチの困難さのために、臨床神経学は明示的な知の世界からほど遠く、科学的ではないと誤解されてしまったのでしょう。三浦、川原、佐藤という立派な先達がおられながら、日本に臨床神経学が根を下ろせなかったのは、このような理由によるのではないでしょうか。

Medicineを明示的な知だけから成るものと思い込んでしまったところに、日本における Medicineの最初のつまずきがありました。そして残念ながら、そのつまずきは今日に至ってもなお、続いているようです。このままでは、わが国の Medicineは世界の孤児になってしまうのではないでしょうか。シャルコーと日本の神経学を考えるこの機会に、私はMedicineにおける暗黙知 (tacit knowledge) の重要性を再認識し、今こそ本気で科学者の精神の仕事場を覗き込むべきであるということを強調したいと思うのです。

シャルコー教授と三浦謹之助 三浦義彰

三浦義彰先生は、三浦謹之助先生が 50歳の時に生まれた、次男です。家族でなければ知らないような逸話が紹介されています。

 さて、三浦謹之助ですが、一八六四年、元治元年の生まれで、一九五〇年、八十六歳で亡くなりました。福島の郊外、高成田の生まれです。父親、道生は眼科医で、その家には白内障の手術のため、沢山の入院患者がいました。眼の悪い患者さんのために、トイレや風呂場にやたらと大きな字で男とか女とか書いてあります。謹之助は、小学校六年くらいから福島の小学校に出たわけです。その頃、叔父になる三浦有恒が東京に出ていて、福沢諭吉の『学問のすすめ』を送ってくれたのですが、そのなかに “人は八時間働き、八時間眠り、あとの八時間は身の回りの用を足すこと” と書いてあったそうで、謹之助はそれを死ぬまでよく守っていて、決して徹夜などしない人でした。

また、その頃、明治天皇の東北ご巡幸がありまして、それを小学生として初めて洋服というものを作ってお迎え申し上げたそうです。ところが、このお二方、福沢諭吉は、後に父の患者さんになりましたし、明治天皇もお亡くなりになる時は父が拝診しておりまして、父は深い因縁を感じたと申しております。

一八七七年、西南の役の直後ですが、人力車で二週間の旅をして、叔父三浦有恒を頼って東京に出て参りまして、東京で生活を始めました。父の十二、三歳頃と思われます。

一八七八年に、東京大学医学部予科に入り、一八七七年に医学部本科を卒業するまで、叔父の所や寄宿舎におりました。その頃、月七円の費用がかかったそうですが、祖父道生は早く亡くなりまして、その見よう見まねで母の里子が白内障の手術を無免許でいたしました。今だったらたちまち捕まっていたわけです。そのアルバイトの費用とドイツ語の翻訳をして、どうやら卒業いたしました。

その他にも、色々と三浦謹之助先生の知られざる逸話が出てきます。シャルコーについても、「シャルコー達が病院で賑やかな飲み会をして婦長から大目玉を食らった話」だとか、「松方コレクション (※西洋美術館のコレクションに多く含まれます) の松方氏が万国博に参加したときにシャルコーやゴンクールらが参加していたこと」、「シャルコーがポルトガル王・ブラジル皇帝から贈られた尾長猿を飼っていて、どんなイタズラをしても決して怒らなかった逸話」「飼っていたインコに『ハラキリ』と名付けていたこと」などが述べられています。

三浦謹之助先生には、侍医にならないという話があったようですが、「自分はサルペトリエールでシャルコーが大変大勢の患者さんを診ていたのを見た。しかも、それはどちらかというと下層階級の患者さんが多かったのですが、そういうのを見て非常にためになった。侍医になると、あまり多くの患者さんを診ることができなくなる。そうすると勘が鈍る」と断っていたそうです。

名前は良くけれど、どのような人物だったかよく知らない三浦謹之助先生の人となりが伝わってくる講演でした。

シャルコーの業績に見る運動から失語症までの大脳機能局在 ジャック・ガッセル

まず、大脳局在説が唱えられてから確立するまで、生理学、解剖学、臨床のそれぞれの視点から概説します。シャルコーは、当初ヒトの感覚あるいは運動の現象は、皮質下の構造のみが問題であると考えていたようです。1875年になってから、大脳皮質の役割に気付き始め、その二年後に「私は、いつの日にか、大脳半球皮質の特定の領域に限局した病変によって生じた麻痺を見るだろうと信じています」と記すようになりました。

シャルコーは動物実験から得られた結果では、ヒトについては結論が出せないと考えていました。1883年には「ヒトの脳の機能に関しては、臨床病理対応研究、すなわち患者の生前に観察された症状と剖検で明らかになった病変との対比以外の方法では、決定的な研究が出来ないことは明々白々です。動物でなされた実験結果は研究の指針とはなりますが、いかなる場合にもヒトの生理学にそのまま当てはめてはなりません」と述べています。彼にとって、解剖学は臨床との関係においてのみ興味の対象であったと推測されます。

シャルコーは、虚血性血管障害の病理学的検討から、血管支配に基づいて、いくつかの臨床解剖学的成果をあげました。また、二次変性の研究を行いました。彼は、大脳皮質の局在について多くの講義を行いましたが、なぜかほとんどが出版されませんでした。

余談ですが、「ジャクソンてんかん」は、シャルコーが命名したというのは、初めて知りました。1883年の論文に登場するそうです。

失語症については、シャルコーは「語盲」「運動失語」「失書」「語聾」の四大臨床型を定義しました。ここにも、臨床像と解剖所見の対比が見られるそうです。

シャルコーの症候学 ドミニク・ラプラヌ

「シャルコーが神経学に専念するようになった頃、彼の神経症候学がいかに未熟なものであったか」「神経症候学を築き上げていく過程におけるシャルコー自身の寄与」「神経症候学を築き上げていくに当たり、様々な伝説的な考えや誤解を取り除くために、彼がいかなる努力を払ったか」をテーマに詳しく語られます。結びの部分では、問診の重要性が強調されています。

私は、問診によって診断ができなければ、後のことをしても診断がつくはずがない、というスローガンを半ば強制的に叩き込まれて教育されました。このスローガンの出所がシャルコーにあったかどうかについては知りませんが、サルペトリエール病院の伝統として伝えられてきたことですから、その可能性はあると思います。近年の画像技術の進歩により、このスローガンは万能ではなくなりましたが、まだ多くの場合に通用するものであります。

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Neurology and surrealism

By , 2013年10月31日 8:06 AM

これまで、「シュルレアリスム宣言」、「ナジャ」というエントリーで、シュルレアリスムの創始者 Bretonと神経学者 Babinskiの関係に触れてきました。

彼らの関係について、2012年に Brain誌が Occasional paperとして “Neurology and surrealism: André Breton and Joseph Babinski.” という論文を掲載しました。芸術家と医学の研究で権威である Bogousslavskyらのグループによる論文です。

Neurology and surrealism: André Breton and Joseph Babinski.

Brain. 2012 Dec;135(Pt 12):3830-8. doi: 10.1093/brain/aws118. Epub 2012 Jun 7.
Haan J, Koehler PJ, Bogousslavsky J.
Department of Neurology K5Q, Leiden University Medical Centre, PO Box 9600, 2300 RC Leiden, The Netherlands. J.Haan@lumc.nl
Abstract
Before he became the initiator of the surrealist movement, André Breton (1896-1966) studied medicine and worked as a student in several hospitals and as a stretcher bearer at the front during World War I. There he became interested in psychiatric diseases such as hysteria and psychosis, which later served as a source of inspiration for his surrealist writings and thoughts, in particular on automatic writing. Breton worked under Joseph Babinski at La Pitié, nearby La Salpêtrière, and became impressed by the ‘sacred fever’ of the famous neurologist. In this article, we describe the relationship between Breton and Babinski and try to trace back whether not only Breton’s psychiatric, but also his neurological experiences, have influenced surrealism. We hypothesize that Breton left medicine in 1920 partly as a consequence of his stay with Babinski.
PMID: 22685227

この論文を医局の抄読会で紹介しました。その時の資料として、簡単にエッセンスを日本語でまとめたので、PDFファイルで置いておきます。Babinski, Charcot, Claude, Parinaudといった神経学者の名前が登場する、非常に面白い論文です。原著が読める方は上記リンクから、そうでない方は下記の資料を御覧ください。

Neurology and surrealism (抄読会用配布資料 PDF)

 

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ナジャ

By , 2013年10月24日 7:42 AM

2013年9月21日のブログで「シュルレアリスム宣言」を紹介しましたが、同じブルトンが書いた「ナジャ (アンドレ・ブルトン著、巌谷國士訳、岩波文庫)」を斜め読みしました。この本は、ブルトンが実際に交際していた精神疾患のある女性ナジャをテーマにしています。

この本の中で私が最も興味を持ったのは、Babinskiについての記載です。ある舞台についてのシーンを紹介します。

「ナジャ (アンドレ・ブルトン著、巌谷國士訳、岩波文庫)」 54ページ

だが私の希望的観測では、作者たち (これは喜劇役者のパローと、たしかティエリーという名の外科医と、そのうえおそらくどこかの悪魔との合作になるものだった*) はソランジュがこれ以上の目にあうのを望んでいなかっただろう。

1862年にブルトンはこの部分への注釈を記しました。何と、そこにバビンスキーが登場するのです。長い注釈ですが、全体を引用します。

*この作者たちのまぎれもない正体については、三十年後にようやく明らかにされた。一九五六年になってはじめて、雑誌『シュルレアリスム、メーム』(1) は、この『気のふれた女たち』の全文を発表することができたのだ。そこに付されている P-L・パローによるあとがき (2) が、この芝居の制作過程を解明している。「[この芝居の] 最初の着想は、パリ郊外のとある私立女学校を背景にしておこった、いささかいかがわしい事件から思いつかれたものだ。けれども私がその着想を用いるべき劇は、-双面劇場なのだから-、グラン・ギニュルに類するジャンルのものであることを考えると、絶対の科学的真実のうちにとどまりながらも、ドラマティックな側面に味つけをしなければならなかった。つまり、きわだどい側面を扱わざるをえなかった。問題は循環的・周期的な狂気の一症例だったが、それをうまくこなすためには、もちあわせのないさまざまな叡智が必要だった。そんなとき、友人のひとり、病院勤務のポール・ティエリー教授が、あの卓抜なジョゼフ・ババンスキ (3) との関係をとりもってくれた。こちらの大家がよろこんで知識の光を与えようとしてくれたおかげで、この劇作のいわば科学的な部分を大過なく扱うことができたのである。」『気のふれた女たち』の念入りな制作過程にババンスキ博士が一役かっているのを知ったとき、私は大いに驚かされた。かつて私は「仮インターン」の資格で、慈善病院 (ラ・ピティエ) に勤務中の博士の補佐をかなり長くつとめていたことがあるので、この高名な神経病学者のことはしっかりと思い出にとどめている。彼が示してくれた好意についてもいまだに名誉に思っているし-たとえその好意が、私の医者としての立派な未来を予言するほど見当はずれなものだったとしても!-、自分なりにその教えを活用してきたつもりでいる。この件については、最初の『シュルレアリスム宣言』の末尾に賛辞を呈している (4)

岩波文庫版では、上記に対する訳注が充実しています。必要な部分のみ引用します。

(1) 『シュルレアリスム、メーム』-(Le surrealisme, meme-「シュルレアリスム、そのもの」とも「シュルレアリスム、さえも」とも読める) は、一九五六年秋から五九年春まで、計五号を不定期刊行したシュルレアリスム機関誌。(以下略)

(2) 略

(3) ジョゼフ・ババンスキ (一八五七-一九三二) は著明な精神医学者。神経系統の反射機能、ヒステリーなどの研究で知られる。数行あとに出てくる慈善病院 (パリ十三区にあった神経医学慈善センターのことで、現ピティエ-サルペトリエール病院にふくまれる) に勤務し、多くの後進を育成。ブルトンがこの病院につとめたのは一九一七年の一月から九月までだった。なお、前注1にふれた別冊付録の最終ページには、このババンスキのポートレートが大きくかかげられている。

(4) 『シュルレアリスム』宣言におけるババンスキへの賛辞は、「足のうらの皮膚の反射作用の発見者」の逸話として、巻末近く (岩波文庫、八三ページ) にあらわれる。なお、『ナジャ』の五四ページでブルトンの想定している「悪魔」が、じつはババンスキだとも読めるところがおもしろい。

ブルトンの残した注釈を見ると、バビンスキーは劇の制作に一役買っていたんですね。ある先生から、「Babinskiは劇が好きでね。オペラ・ガルニエの近くに劇場があったのだけど、そこで急病人が出た時に診療するようなことをしていて、しょっちゅう劇場に入り浸っていたんだよ」と教えていただきました。

バビンスキーとブルトンの関係を考察した医学論文も最近読んだので、いずれ紹介したいと思います。

(参考)

神経学の源流 1 ババンスキーとともに― (1)

神経学の源流 1 ババンスキーとともに― (2)

神経学の源流 1 ババンスキーとともに― (3)

神経学の源流 1 ババンスキーとともに― (4)

神経学の源流 1 ババンスキーとともに― (5)

神経学の源流 1 ババンスキーとともに― (6)

神経学の源流 1 ババンスキーとともに― (6)

神経学の源流 1 ババンスキーとともに― (7)

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シャルコー

By , 2013年9月28日 8:26 AM

精神科医からのメッセージ シャルコー 力動精神医学と神経病学の歴史を遡る (江口重幸著、勉誠出版)」を読み終えました。

シャルコーといえば、神経学の礎を築いた医師です。多発性硬化症や筋萎縮性側索硬化症の疾患概念を作り上げ、パーキンソン病に光を当て、フロイトやバビンスキーなどの多くの医学者を育て、デュシェンヌの電気生理検査を高く評価しました。晩年はヒステリーを精力的に行いました。研究筋萎縮性側索硬化症はフランスではシャルコー病と呼ばれることがありますし、シャルコー・マリー・トゥース病、シャルコー関節など、シャルコーの名前を冠した疾患、症候はいくつもあります。もう少し詳しく知りたい方はこちらを御覧ください。

本書の目次をまず紹介します。

はじめに

第一章 すべてはシャルコーからはじまる

第二章 男性ヒステリーとは?-『神経病学講義』より

第三章 シャルコー神経病学の骨格

第四章 大ヒステリー=大催眠理論の影響-フロイト・ジャネ・トゥーレット

第五章 シャルコーとサルペトリエール学派

第六章 『沙禄可博士神経病臨床講義』-『火曜講義』日本語版の成立と三浦謹之助

第七章 シャルコーの死とその後

第八章 シャルコーと十九世紀末文化-ゴッホのパリ時代と『ルーゴン=マッカール叢書」

終章 ヒステリーの身体と図像的記憶

あとがき

著者は精神科医であり、その視点から見たヒステリー、あるいはヒステリーの理解の歴史的な流れがわかりやすく記されていました。また、シャルコーの時代の小説を通じて、シャルコーあるいは同時代のヒステリーを描いた部分では、著者の広い教養を感じました。その他、三浦謹之助に光を当てていたのも良かったです。著者はシャルコーや三浦謹之助の子孫の方と交流があるようで、他では知ることの出来ないような話がいくつも本書に記されています。

シャルコーは、偉大な業績を残した反面、ヒステリー研究は彼の汚点であったとする言説を目にすることがたまにありますが、シャルコーのヒステリー研究がそんなに単純なものではなかったのが本書を読んでよくわかりました。ヒステリーの患者さんを診療する機会の多い神経内科医しては、著者の下記の文章は実感を持って理解できます。

精神と身体、あるいは人格の複数性が問題になる時、あるいはそこから派生する解離や記憶が問題になる時、私はこれを「シャルコー的問題」と呼ぼうと思うが、われわれは絶えず「ヒステリーの身体」と「シャルコー的視線」という問題に突き当たることになる。シャルコー没後一世紀以上を経た今日でも、問題は何ひとつ解決されておらず、しかもそれらが激しく議論されたことすらも忘れられようとしているのである。

多くの神経内科医に勧めたい本です。

以下備忘録、主として医学史関連の部分。

・ジャネによれば、シャルコーはこうした患者 (神経性無食欲症) を診て、その原因に太りたくないという固着観念があることを指摘したという。ジャネは、シャルコーの事例で、「ママのように太ってしまうなら空腹で死んだほうがいい」と述べる一人の少女を例に挙げている。その少女は腰にぴったりとピンクのリボンを巻き、それ以上太らない目安にしていた。シャルコーは、拒食がヒステリー性のものだという診断のために、このような肥満への固着観念を示す具体的証拠を探し出そうとしたという。シャルコーはさらに、臨床講義でこうした患者の治療には、まずは病因となった家族関係からの「隔離」が第一であり、両親を含め、医療者の権威への服従の度合いが重要な治療上の指標になるという卓見を披露している。(p.75)

・ゲッツの分析によれば、一八九一年の一年間 (つまり三七回の火曜外来) に三一六八名の患者が訪れ、うち一九一三名が初診、一二五五名が再来患者であった。それ以外の私的な診療はシャルコーの私邸で行われ、当初ピエール・マリーが、後にはギノンが与診として読み上げる助手の役を務めた。(p.103)

・同世代のヴュルピアンは、シャルコーといずれも同期にアンテルヌ、教授資格をとり、サルペトリエール病院に赴任した。ヴュルピアンは病理解剖学の教授となり、シャルコーとともに多発性硬化症の研究をおこない、生涯にわたってよきライバルであり、同時に親交を結んだ。一方、デュシェンヌはシャルコーの一時代上の晩学独行の研究者であった。デュシェンヌは地元で開業した後、四〇歳代でパリに出て、歩行運動失調や静電気を使用した表情筋の研究を一八五〇~六〇年代に相次いで発表。若いシャルコーに鮮烈な衝撃を与えた。シャルコーは彼を「神経学におけるわが師」と呼び、生涯にわたって深く敬愛した。シャルコーはデュシェンヌから、写真術と静電気使用という不可欠の技術を学び取ったのである。 (p. 108)

・のちの神経学や力動精神医学の基礎を築いたじつに多くの研究者がシャルコーのもとから巣立った。デュボーヴ、ジョフロア、ブールヌヴィーユ、フェレ、トゥーレット、ブリッソー、ピエール・マリー、ロンド、バレ、ギノン、ババンスキー、リシェ、スークさらにはジャネやフロイトを挙げることができる。(p.113)

・シャルコー以降、「精神ぬきの神経学と身体ぬきの精神医学」の時代が本格的に訪れる。(p.121)

・学生時代からエフェドリンについての論文 (塩酸エフェドリンの薬理作用である顕著な散瞳現象を、さまざまな動物実験で明らかにしたもの) をベルリンの医学雑誌に発表していた三浦 (謹之助) は、留学中も各地でそれぞれに相応しい研究成果を出しては次々に論文に発表している。結局その後も含め、独語、仏語で二〇編を超える論文を残した。三浦は、ベルリンのゲルハルトに内科学を、オッペンハイムに神経学を、マールブルグのマルシャンに病理学を、キュルツに生化学を学び、続いてハイデルベルグのエルプのもとで神経学を学び、明治二五年 (一八九二年) 一月パリのサルペトリエール病院に移ってシャルコーのもとで約半年間学び、同年の十一月に帰国している。(p.126)

・三浦は、明治三五年 (一九〇二年) には、東京大学精神医学教室の呉秀三とともに日本神経学会を設立した。今日の日本精神神経学会の前身である。この学会誌『神経学雑誌』第一号第一巻の巻頭論文は三浦による「筋萎縮性側索硬化症ニ就テ」であった。論文冒頭で三浦は、「我師シャルコー」の業績を賞賛することからはじめている。(p.129)

・三浦謹之助は、一八六四年 (元治元年) 三月二一日、福島県伊達郡富成村に生まれた。家は山村の医者であり、父道夫や東京にいた三浦有恒の影響もあってはやくから医者の道を志している。(p.134)

・三浦は、明治天皇の崩御の際の医療チームに加わり (この時わが国で最初に酸素ボンベが使用されたと記されている)、さらには大正天皇を診察し、また昭和天皇の欧州旅行に随行した一方で、幼き日より影響を受けた福澤諭吉の晩年から末期の主治医となり、その他にも伊藤博文、井上馨、桂太郎、松方正義、原敬、加藤高明ら数多くの政治家や実業家、さらには芸術家、著名人の主治医をつとめたのである。(p.138)

・ 一八九一年、当時の文部省が、大学教授資格試験 (アグレガシオン) の総監督に、シャルル・ブシャールを任命している、ブシャールはシャルコーの弟子であったが、途中袂をわかっており、結局教授資格試験に合格した五人のうち三名がブシャールの弟子であり、シャルコーの弟子は一人も通らなかった。この時本命とされていたババンスキーと、ジル・ドゥ・ラ・トゥーレットという、学派を代表する候補者が不合格になったのである。(p.159)

・シャルコーの死の影響は、まずサルペトリエール病院神経病学講座という、ほぼシャルコー唯一人を想定して設立された講座の主任教授を誰が引き継ぐのかという現実的な問題として表れた。結局ブリッソーが暫定教授を務めた後、九四年からは、二代目として正式にフルガンス・レイモンが主任教授に指名されることになる。レイモンはシャルコーの講座色を絶やさず約十七年間この講座の主任教授を務めた。シャルコーの直弟子たちもそれぞれの進路の変更を余儀なくされる。デジェリヌがサルペトリエール病院内に残ることになったため、ピエール・マリーは郊外のビセートル病院に移った。一貫して催眠に関心を示さなかったマリーは、その後の遺伝や変性や失語症について自らの議論を展開し多くの論争をおこなうことになった。一九〇七年には病理解剖学講座の主任になり、一九〇八年、有名な失語症論争をデジェリヌとの間で展開した、そして一九一七年デジェリヌの突然の死後、サルペトリエールに戻り四代目の主任教授におさまった。(p.162)

・(ババンスキーの) 次の外来医長だった、ジル・ドゥ・ラ・トゥーレットは、シャルコーの死の前後に、学派を代表する浩瀚なヒステリー研究を上梓したが、ブルアーデルとともに司法医学分野で大学に残ることを計っている。九三年には遠隔から催眠術をかけられたとする女性からの銃撃を受けて頭部に受傷し、その後は進行麻痺によるものと思われる問題行動が多く出現し、最終的には劇場での公演中にまとまらないことを口走り、本格的な狂気に陥ることになった。(p.163)

・サルペトリエール病院で、シャルコーの輝かしい業績を再び距離を置いて評価できるようになる機会は、マリーに続く五代目の主任教授であるギランを待ってはじめて可能になる。(p.165)

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シュルレアリスム宣言

By , 2013年9月21日 9:25 PM

シュルレアリスム宣言・溶ける魚 (アンドレ・ブルトン著、巌谷國士訳、岩波文庫)」という本の中から、シュルレアリスム宣言を読み終えました。日常会話で「シュールだなぁ・・・」という表現をすることがありますが、その元になったのがシュルレアリスムという言葉のようです。

以前、岩田誠先生と現代音楽について話をしていたときに、その場にいた “はりやこいしかわ先生” が、「音楽にシュルレアリスムはないんですか?」と尋ねて、岩田先生が「それはないんだよ。なぜなら音楽にはレアルがないから。シュルレアリスムっていうのは、レアルに対するシュルなんだよ」なんて答えてらっしゃって、何も知らなかったシュルレアリスムを少し勉強してみようと思ったのがこの本を読んだ動機です。

そもそもシュルレアリスムとは何なのか、それを定義した部分を抜粋します。

「シュルレアリスム宣言・溶ける魚 (アンドレ・ブルトン著、巌谷國士訳、岩波文庫)」 46~48ページ

そこで、いまこそきっぱりと、私はこの言葉を定義しておく。

シュルレアリスム。男性名詞。心の純粋な自動現象 (オートマティスム) であり、それにもとづいて口述、記述、その他あらゆる方法を用いつつ、思考の実際上の働きを表現しようとくわだてる。理性によって行使されるどんな統制もなく、美学上ないし道徳上のどんな気づかいからもはなれた思考の書きとり。

百科事典。(哲)。シュルレアリスムは、それまでおろそかにされてきたある種の連想形式のすぐれた現実性や、夢の全能や、思考の無私無欲な活動などへの信頼に基礎をおく。他のあらゆる心のメカニズムを決定的に破産させ、人生の諸問題の解決においてそれらにとってかわることをめざす。絶対的シュルレアリスムを行為にあらわしてきたのは、アラゴン、バロン、ボワファール、ブルトン、カリーヴ、クルヴェル、デルテイユ、デスノス、エリュアール、ジェラール、ランブール、マルキーヌ、モリーズ、ナヴィル、ノル、ペレ、ピコン、スーポー、ヴィトラックの諸氏である。

現在までのところ、以上の面々だけであって、十分なデータのないイジドール・デュカスの例をのぞけば、まずまちがうようなことはないだろう。そしてもちろん、それぞれの効果を表面的に見るだけならば、ダンテや、全盛期のシェイクスピアをはじめとして、かなりの数の詩人たちがシュルレアリストとみなされうるだろう。私は、背任の結果として天才とよばれているものを格下げするために、これまでさまざまな試みにふけってきたものだが、その間になにひとつとして、シュルレアリスム以外のプロセスに帰着しうるものを見出せなかったのである。

ヤングの「夜想」ははじめからおわりまでシュルレアリスム的であるが、あいにく語り手は牧師である。おそらくわるい牧師ではあろうが、とにかく牧師である。

スウィフトは悪意においてシュルレアリストである。

サドはサディスムにおいてシュルレアリストである。

シャトーブリヤンは、エグゾティスムにおいてシュルレアリストである。

コンスタンは政治においてシュルレアリストである。

ユゴーは馬鹿でないときはシュルレアリストである。

デボルド-ヴァルモールは愛においてシュルレアリストである。

ベルトランは過去においてシュルレアリストである。

ラップは死においてシュルレアリストである。

ポーは冒険においてシュルレアリストである。

ボードレールは道徳においてシュルレアリストである。

ランボーは人生の実践その他においてシュルレアリストである。

マラルメは打明け話においてシュルレアリストである。

ジャリはアプサント酒においてシュルレアリストである。

ヌーヴォーは接吻においてシュルレアリストである。

サン-ポー-ルーは象徴においてシュルレアリストである。

ファルグは雰囲気においてシュルレアリストである。

ヴァシェは私のなかでシュルレアリストである。

ルヴェルディは自宅にいるときにシュルレアリストである。

サン-ジョン・ペレスは距離をおいてシュルレアリストである。

ルーセルは逸話においてシュルレアリストである。

等々。

このように、連想、夢、無意識に重きを置いた姿勢は、フロイトなどの精神分析を思い起こさせますが、何とブルトンは精神医学や神経学を学んだことがあり、精神分析で有名なフロイト、神経学の歴史的偉人バビンスキーと交流がありました。シャルコー、クレペリン、フロイトなどの著書を夢中になって読んでいた時期があると言います。

シュルレアリスム宣言にも、フロイトやバビンスキーが登場します。その部分を抜粋します。まずはフロイトから。

「シュルレアリスム宣言・溶ける魚 (アンドレ・ブルトン著、巌谷國士訳、岩波文庫)」 19ページ

文明という体裁のもとに、進歩という口実のもとに、当否はともかく迷信だとか妄想だとかきめつけることのできるものはすべて精神から追いはらわれ、作法にあわない真理の探求方法はすべて禁じられるにいたったのだ。最近になって、知的世界の一部分が明るみに出されたことは、表面上は、いかにも大きな偶然のしわざである。だが、私の見るところ、これこそはとびぬけて重要でありながら、もはや気にもとめないふりをされていた部分なのである。これについてはフロイトの諸発見に感謝しなければならない。その諸発見をよりどころにして、ついにひとつの思潮がうかびあがり、そのおかげで人間探索者は、もはや皮相の現実ばかりを重んじなくてもいいのだという保証を得て、その調査をさらに大きく前進させることができるはずである。想像力はおそらく、いまこそ、みずからの権利をとりもどそうとしている。

「シュルレアリスム宣言・溶ける魚 (アンドレ・ブルトン著、巌谷國士訳、岩波文庫)」 2o~21ページ

フロイトが夢に批評をむけたのは、しごく当然のことである。じっさい、心の活動のうちのこの無視できない部分が (なぜなら人間の誕生から死までのあいだ、思考はなんら断絶を示さないものであり、時間の見地からして、夢みている時の総計は、たとえば純粋な夢、睡眠中の夢だけしか考慮に入れないにしても、現実の時、これも限定していえば覚醒中の時の総計とくらべて、短いわけではないからである)、まだこれほどわずかしか注目をひいていないというのは、うけいれがたいことである。

「シュルレアリスム宣言・溶ける魚 (アンドレ・ブルトン著、巌谷國士訳、岩波文庫)」 40ページ

そのころ私はまだフロイトに没頭していたし、彼の診断方法に親しみ、戦争中にはそれを患者たちに適用してみる機会もすこしばかりあったので、そこでは患者から得ることをもとめられているものを、つまり、できるだけ早口で語られる独り言を、自分自身から得ようと決意したのだった。すなわち、被検者の批判的精神がそれにどんな判断もくだすことがなく、したがってどんな故意の言いおとしにもさまたげられることがない、しかも、できるだけ正確に語られた思考になっているような独り言をである。思考の速度は言葉の速度にまさるものではなく、思考はかならず舌を、それどころか走り書きのペンをすらよせつけないものではない-あの筒切りにされた男という文句のおとずれた次第がそのことを証明していたが-と私には思えたし、いまもそう思えるのだ。

さて、バビンスキーの方はというと、実名は登場しませんが、該当部分を読むと、バビンスキーであることは一目瞭然です。

「シュルレアリスム宣言・溶ける魚 (アンドレ・ブルトン著、巌谷國士訳、岩波文庫)」 83ページ

科学者の方法についていえば、私はそれを私の方法とおなじ価値のあるものとみなす。私はかつて足のうらの皮膚の反射作用の発見者が仕事をしているところを見た。彼はやすみなく被験物をいじくっていたが、やっているのは「診察」とはまったくべつのことで、彼がもはやどんなプランもあてにしていないことは明らかだった。ときどき、長い間をおいて所見をしたためるのだが、だからといってピンをおくわけではなく、他方、彼の小槌はあいかわらずすばやく動きつづけていた。患者の治療はというと、そんなくだらない仕事はほかの者にまかせていた。彼はその聖なる情熱にすべてをそそいでいたのである。

医学を学び、フロイト、バビンスキーと同時代にその影響を受けた人物が、芸術に一つの潮流を創りだしたというのは、面白いことですね。精神疾患患者であったLeona Delcourtとの交際をテーマにした「ナジャ」は時間を見つけて是非読みたいです。タイトルに惹かれて、ブルトンの著作「性に関する探求」をアマゾンでポチってしまったのはここだけの秘密です (^^;

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祖父・小金井良精の記

By , 2013年4月24日 7:40 AM

祖父・小金井良精の記(星新一著、河出文庫)」の上巻を読み終えました。星新一の本を紹介するのは、「人民は弱し 官吏は強し」以来ですね。

小金井良精は明治~大正時代を代表する解剖学者で、初期の頃の東大医学部長も務めていました。星新一にとって、母方の祖父にあたります。祖父に対する愛情の漂う本です。

本書の前半は小金井家の先祖たちについて述べられています。それを読むとまず江戸時代の養子の多さに驚きます。星新一が「家とはなんであるか。濃い血液でつながらず、家風だけが伝えられていく」と述べている通りです。以前紹介した宇田川家でも養子が家を継ぐ事例がいくつかあったのを思い出しました。池波正太郎氏は、こうして家の中に血の繋がらない人間がたくさんいることが、江戸時代に礼儀作法がうるさかったことの原因の一つだったのではないかと考えていたようです。

小金井家は長岡藩の出自、それも家老の次男が養子に来たこともあるほどの家柄でした (山本家からの養子小金井良和は、後に本家に戻されて山本勘右衛門と改名して家老になった)。小金井良精の父、小金井儀兵衛良達は小林虎三郎の妹と結婚したのですが、小林虎三郎は「米百俵」の逸話で知られています。司馬遼太郎の「」でも、小林虎三郎は有能な人物として描かれていますね。ちなみに司馬遼太郎の「峠」は私が高校生時代最も好きな小説で、この手の話を語ると長くなるのでやめておきます。

江戸幕府は外国事情を調べるため洋学所を作っており、それが後に蕃書調所、洋学調所、開成所と名前を変え、明治時代には大学南校となりました。良精は上京して大学南校に入学しましたが、突然退学となりました。原因は不明ですが、著者は「良精は朝敵の藩ということで、からかわれ、それに反発して、なにかことを起こしたのかもしれない」と推測しています。結局、良精は大学東校に入ることにしました。東京大学医学部の前身です。当時の校長が長谷川泰で、長岡の人だったのが入学を後押ししたようです。校則では、満15歳以上でないと入れなかったのですが、良精は当時 13歳 11ヶ月。サバを読みました。しかし首席で卒業しました。成績優秀につき、ドイツ留学を果たします。

その後彼がどういう人生を歩んだかは、実際に本書を読んで頂くのが良いと思いますが、備忘録代わりにいくつか印象に残った部分を書いておきます。

・良精は「よしきよ」と読む。ローマ字表記でも、本人はそう書いている。しかし、星新一は「りょうせい」と発音していた。家庭内で本人を呼ぶ時は「おじいさん」であった。

・良精がドイツ留学する直前に血尿が出現した。泌尿器系の症状は、その後生涯つきまとうことになった。良精は留学前に小松八千代と婚約し、帰国後結婚したが、八千代は妊娠に伴った疾患で死亡した。小松家の親戚に当たる原桂仙は、北里柴三郎の留学についても色々運動をしていた。

・良精はドイツではワルダイエルに師事することになった。ワルダイエルは神経説を提唱し、ニューロンという語を生み出した学者である。さらにフレミングが発見した物質に対して染色体と名づけたことでも有名である。また、エールリッヒの師でもある。良精はまず鳩の眼球を用いて解剖学の手ほどきを受け、本格的な研究に進んだ。暇な時はオペラ「タンホイザー」や「カルメン」などを鑑賞にも出かけたりしていたらしい。

・良精はドイツ時代、ウィルヒョウと良く面会し、家庭に招かれもした。

・良精は帰国後帝国大学教授に任命された。明治 17年の東京地図では、東大構内のほとんどが空地で、数えるほどの建物しかなかったことがわかる。

・東大精神科初代教授は榊俶。良精とはドイツ以来の親友だった。41歳で死去し、遺言で解剖された。医学部の教授が死後体を解剖に提供し、剖検を受けるという慣習は、榊俶から始まったようである。

・良精は森鴎外の妹の喜美子と結婚した。彼らが東片町で住んでいた家は、後に長岡半太郎が住むことになった。

・良精はアイヌの研究をしていた。そして日本人のルーツはアイヌ民族と南方から来た民族との混合であるとの説を唱えていた。良精はアイヌのことをアイノと記載していたが、アイヌの人達の発音が「アイヌ」と「アイノ」の中間のように感じていたため。

・ウィルヒョウはアイヌ人の人骨を入手し、頭骨の後下方の穴を削って大きくした人工的な跡があることを 1873年のベルリン人類学会誌に報告した。良精が入手したアイヌ人の骨も同様であった。何故このようなものがみられるのかは不明であったが、釧路でその謎が解決した。アイヌ人の人夫が頭骨から脳髄を掻き出して食べるところを見かけたからであった。どうやら、梅毒の治療薬として人の脳を食べていたらしい (明治時代の出来事)。

・良精は、ドイツから森鴎外を慕って来日した女性と森鴎外の交渉役を務めた。ちなみに森鴎外の処女作は「舞姫」で、日本人留学生とドイツ人女性との恋物語である。

・良精は 34歳の頃、囲碁に熱中していた。36歳の頃、東大医学部長となり、雑務が増え囲碁どころではなくなった。衆議院の予算委員会に呼ばれて解剖体の数についての質問に答えることもあった。

・良精は 35歳のとき明治生命で保険に入ろうとしたが断られた。

・41歳のとき、医師の権利をまもる目的で医師会法案が提出されたが、良精は玉石混交の医師の会に法的地位を与えることに反対した。そのための文章を森鴎外に書いてもらった。その法案は衆議院を通過したが、貴族院で否決された。

・43歳のとき、パリでの万国医事会議に委員として参列することになった。それに際して、医学部の建築費を受け取り、医学部改築のための視察をヨーロッパ各地、アメリカに行った。この時野口英世にも会っている。

・原桂仙が亡くなった時、遺児の世話を北里柴三郎とともに行うよう遺言で頼まれた。

・明治 27年、香港でペストが流行した。そこで良精は臨床と病理部門から青山胤通、細菌学の部門から北里柴三郎を派遣することを決めた。北里柴三郎は患者や死者から一種の細菌を検出し、培養及び動物実験を行なってペスト菌と認定した。そしてランセット誌に発表した。青山胤通は感染し、死の一歩手前まで行った。

・北里柴三郎は留学から帰国した頃、伝染病研究所の設立を説いて回った。事態は進展しなかったが、福沢諭吉が土地建物の援助を申し出て、実業家の森村市左衛門が設備と危惧の資金を出したことがきっかけとなり、国家補助が決まった。北里柴三郎が所長で、その下に志賀潔 (赤痢菌を発見)、秦佐八郎が付き、野口英世も一時勤めた。ドイツのコッホ研究所、フランスのパスツール研究所とともに世界三大研究所と呼ばれたが、大隈重信内閣が東大医学部付属にせしめたことから、北里柴三郎と弟子たちは辞表を提出した。北里柴三郎は北里研究所を設立。また慶応義塾大学に医学部をもうける計画が出ると、北里は主催者に推された。

・良精が肺炎になったとき、病院長三浦謹之助が診察し、絆創膏を脇腹にたくさん貼った。しかし同日午後青山胤通が午後診察し、はったばかりの絆創膏をびりびりとみんな剥がしてしまった。

・島峰徹は石原久教授との対立で東大を辞め、東京高等歯科医学校 (後の東京医科歯科大学) を創立した。

青空文庫に良精の作品リストというのがありますが、作業中のようです。気長に待つとします。

青空文庫 小金井良精

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津山洋学

By , 2013年4月2日 8:16 AM

2013年3月24日、岡山県津山市にある津山洋学資料館に行ってきました。これまで実家に帰省した際に何度か訪れたのですが、正月だったり、リニューアル中だったりして、中を見ることができなかったので、やっと念願がかないました。

津山洋学資料館

展示品が結構充実していて、それを解説する動画も上映されていました。さらに、館内の図書館には洋学の資料が豊富にあるので、時間があれば読書も楽しめます。入館料は 300円でした。受付に津山洋学についての本がたくさん売っており、「素晴らしき津山洋学の足跡 2004」「きらめく洋学の星々」「津山洋学資料館常設展示図録 資料が語る津山の洋学」の 3冊を買って帰りました。津山洋学は日本の洋学に多大な貢献をしていますが、その中で特に有名なのはこれらの方々です。

宇田川玄随

津山藩江戸屋敷の漢方医の息子。元々は洋学嫌いだったが、桂川甫周らと交わるうちに蘭学に転じた。日本で最初の西洋内科学書である「(西説) 内科撰要」を翻訳、自費出版。ちなみに半分まで出版した所で死去し、残りは宇田川家を継いだ安岡玄真、すなわち宇田川玄真が完成した。

宇田川玄真 (安岡玄真)

宇田川玄随および桂川甫周門下。杉田玄白とも交わる。杉田玄白の娘と結婚する流れであったが、女遊びを始め、杉田家を追い出された。稲村三伯が日本で最初となる蘭日辞書「ハルマ和解」を編纂するのを手伝う。また「医範提綱」を著し、「腺」や「膵」という字を作る。その他、解体新書に「厚腸」「薄腸」とされていたのを「大腸」「小腸」に改めた。教育者として宇田川榕菴や、坪井信道、箕作阮甫、緒方洪庵らを育てた。江沢養樹の長男榕を養子に貰い受ける (のちの宇田川榕菴)。

宇田川榕菴 (江沢榕)

植物学を修め、「植物啓原」や「菩多尼訶経」を刊行。「葯」「柱頭」「花柱」といった語を作った。またラヴォアジェの学説を紹介したイギリス人の著書の蘭語版を「舎密開宗」として出版。「酸素」「窒素」「炭素」「水素」「酸化」「還元」などの語を作った。「細胞」という日本語も宇田川榕菴による。コーヒーについての書を残したり、音楽理論の研究をしたりもしている。

箕作阮甫

24歳で藩主の侍医となり、翌年藩主の供をして江戸に出て、宇田川玄真に学び、江戸で開業するも大火ですべてを失った。余談だが、彼には更に喘息の持病があったとのこと。58歳で蕃書調所の教授となった。蕃書調所はその後洋書調所・開成所、開成学校・大学南校と名を変えて、最終的に東京大学となる。そのため、彼は日本人初の大学教授とされる。著書ないしは訳書として「外科必読」「医療正始 (伊東玄朴の名で出版)」といった医学書、「泰西名医彙講」という医学専門雑誌、科学技術書である「水蒸気船説略」、「海上砲術書」、世界地理書である「海国図志」など多数。蕃薯和解御用として、宇田川興斎と共に、ペリーが持ってきたアメリカの国書を翻訳する他、外交問題に尽くす。天然痘が流行していたため、請願して神田お玉ヶ池の種痘所が出来るきっかけを作った (請願者の筆頭が箕作阮甫)。娘の「せき」は呉黄石の元に嫁ぎ、その末子である呉秀三は我が国の精神医学の創始者となった。

これ以外にも多くの優秀な学者達を輩出しています。「素晴らしき津山洋学の足跡」に系譜が載っていますので、下に示します。興味を持った方は是非津山に博物館を訪ねてみてください。ちなみに、2 kmくらい離れたところに B’z稲葉さんの実家があり、B’zグッズがたくさんあるそうです。

美作洋学者系譜・学統図

美作洋学者系譜・学統図

箕作家系譜

箕作家系譜

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脳の探求者ラモニ・カハール スペインの輝ける星

By , 2012年12月10日 8:16 AM

「脳の探求者ラモニ・カハール スペインの輝ける星 (萬年甫著、中公新書)」を読み終えました。ラモニ・カハールについては、「神経学の源流 2 ラモニ・カハール」で説明したばかりですね。

本書はカハールについての伝記です。手の付けられない悪童が改心して研究者になり、義憤にかられてキューバ遠征に行くもマラリアにかかり散々な目にあって帰国し、以後研究に没頭してニューロン説を確立するまでの話が豊富な資料を元に書かれています。出版が中公新書ということからわかるように、専門家以外の方でも読める内容になっています。200ページくらいの薄い本なので、あっという間に読めますね。

印象に深かったことは物凄くたくさんありましたが、触れておきたい逸話があります。カハールが突起を発見できず、「第三要素」と呼んだ細胞群がありました。弟子オルテガが、師のカハールに「第三要素に突起がある」と告げた時、カハールは複雑だったようです。明らかに弟子が正しかったのですが、カハールを以ってしても、歳下の学者に自分の学説の間違いをストレートに指摘されると素直になれなかったようです。師弟という点では異なりますが、ゴルジがカハールに間違いを指摘された時の不愉快さも似たようなものであったのではないかと感じました。

以下は、備忘録。

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神経学の源流 2 ラモニ・カハール

By , 2012年12月7日 8:21 AM

「神経学の源流2 ラモニ・カハール (萬年甫編訳、東京大学出版会)」を読み終えました。カハールはニューロン説の礎を築き、ノーベル賞を受賞した研究者です。

第一章は著者の神経解剖学の「研究の端緒」で、カハール研究所を訪れ、その標本を見るところから始まります。第二章は「神経解剖学の方法・その史的発展」と題し、神経解剖学の研究の歴史を簡単に紹介しています。

第三章「ニューロン説の原典」が、カハールの論文の翻訳です。カハールはゴルジ法 (黒い染色) を用いて研究を始めた訳ですが、同じ方法を用いて同じものを見たゴルジが網状説 (神経は網目状に吻合している) を唱え、カハールがニューロン説 (各神経は独立した単位であり、接触により刺激が伝導する) を唱えたのは興味深いことです。凄いことに、カハールは詳細に形態を観察することで、神経の機能、刺激の伝導の方向まで明らかにしてしまいます。1892年に行われた「神経中枢の組織学に関する新見解」という講演は、次のように結ばれています。この結びを読むと、彼が唱えたニューロン説の概要がわかります。

以上取り急ぎ申し上げた諸事実を総括し、いくつかの考察を行なってこの講演を終わることにしたい。

1) 中枢細胞の形態学について、一般的な結論を下すならば、それは神経細胞、上皮性細胞ならびに神経膠細胞の突起の間には物質的な連続性がないということである。神経細胞は正真正銘の単一細胞であり、Waldeyerの表現によればノイロン (neuronas) である。

2) 物質的な連続性がないのであるから、興奮が 1つの細胞から他の細胞へ伝わる場合、あたかも 2本の電話線の接合点におけるがごとく、接近ないし接触 (por contiguidad o por contacto) によって行なわれねばならない。このような接触は一方は軸索の終末分枝あるいは枝側と、他方は細胞体ならびに原形質突起 (※樹状突起のこと) との間に行われるのである。網膜の神経膠細胞、脊髄神経節の単極細胞ならびに無脊椎動物の単極細胞のごとく、原形質突起のない場合には、細胞体の表面が神経性分枝の付着する唯一の場所となるのである。

3) 2種類の突起をもつ細胞のなかで神経興奮の伝わる方向として考えられるのは、原形質突起のなかでは求心性、軸索のなかでは遠細胞性ということである。(略)

4) 双極性細胞 (聴神経、嗅神経、網膜、Lenhossekと Retziusによれば蠕虫の知覚性双極細胞、魚の脊髄神経節の知覚性双極細胞など) では、末梢性突起は太くて興奮 (求細胞性の興奮) を受け入れる役をなし、原形質性のものとみなすべきである。(略)

5) 原形質突起は、Golgiならびにその一派が考えているように毛細管から放出される血漿を吸う細根のごとき単なる栄養装置ではなく、軸索と同じように伝導を行なっているのである。(略)

6) 原形質突起茎のあるもの (大脳の錐体細胞、Purkinje細胞など) がきわめて長いことや、側方および基底部からでる原形質突起が豊富なのは、多数の神経性分枝と連絡を確保し、その興奮を集める必要があるからであろう。多くの原形質突起分枝に見られる表面の粗いことや、棘の間の切り込みはおそらく神経線維終末の作用や接触が行われることを示しているのであろう。

第四章は、「網状説とニューロン説」です。「ストックホルムの壇上にて」という副題が付いています。ゴルジとカハールは同時にノーベル医学生理学賞を受賞し、それぞれ講演を行いました。ゴルジの講演は 1906年 12月 11日、カハールの講演は同 12月12日でした。それぞれの講演の全容が記されています。読むと互いにかなり意識していることがわかります。ゴルジのと比べ、カハールの講演の方が、理路整然としていて、説得力があります。

第五章は「カハール以後」です。著者達が如何にして研究を進めていったかが解説されています。地道な作業の連続に、研究とは忍耐なのだと感じさせられます。一方で、著者の行った工夫にも感嘆します。最終章は「ゴルジ法発見から 100年」と題されていて、”黒い染色” 記念シンポジウムです。著者がゴルジの住んでいた家を訪ねたり、ゴルジが作った標本を観察したことが記されています。

さて、カハールの論文を読んでいて、どうしてもわからない部分がありました。下記のくだりです。

後根はそれぞれ、遠心性線維と求心性ないしは知覚性線維から成っている。

遠心性のものは (Lenhossekとわれわれが同時に証明したように)、前角の細胞から出て、途中分枝したり枝分かれしたりすることなしに後根および脊髄神経節に入る。

大多数を占める求心性のものは、、後索に入って斜にその深部に進み、Y字状に分枝して上行枝と下行枝に分かれ、それぞれ縦走して後索の線維となる。これらの枝は白質に沿って何センチも走った後灰白質に侵入するらしい。そして遂には後角の細胞の間で遊離の樹上分枝として終わる。

この中で、「遠心性のもの」が何を示しているのかわからなかったのです。先日、岩田誠先生に会う機会があったので、質問してみました。すると、「それが Lenhossek (レンホセック) 細胞だよ」とのことでした。

通常、運動ニューロンは直接脳幹ないし脊髄の前方から出てきますが、レンホセック型のニューロンは一旦脳幹ないし脊髄の後ろ側に回って、側方よりの前方から出てきます。この手の細胞は、やや原始的なもので、運動成分のみならず自律神経成分を含むとされています。脳神経にはいくつかあり、顔面神経などがそれにあたります (リンク先 17から出る線維の走行参照)。

レンホセック細胞は呉建先生がかなり精力的に仕事をなさっていて、犬の後根を離断し、二次変性を起こすニューロンと起こさないニューロンがあることを突き止め、片方が前角由来の自律神経線維ではないかと提唱されていたそうです。それが、上記の「遠心性のもの」に当たるのではないかと考えられます。

余談ですが、カハールはレンホセックより先に「レンホセック細胞」を見つけていたのですが、発表に慎重になっていたところ、レンホセックに先に報告されてしまい、随分悔しがったという逸話が残っているそうです。

岩田先生、レンホセック細胞についてよくご存知だったなと思って聞いてみたら、「カハールが書いた教科書 (※分厚い本 2冊) にかなり詳しく書いてあったよ。僕はスペイン語じゃなくてフランス語翻訳で読んだけどね」とのことでした。たかだか 300ページくらいの日本語の本書を 2ヶ月かけて読んだ身としては、能力の違いをまざまざと知らされました。

(参考)

神経学の源流 1 ババンスキーとともに― (1)

神経学の源流 1 ババンスキーとともに― (2)

神経学の源流 1 ババンスキーとともに― (3)

神経学の源流 1 ババンスキーとともに― (4)

神経学の源流 1 ババンスキーとともに― (5)

神経学の源流 1 ババンスキーとともに― (6)

神経学の源流 1 ババンスキーとともに― (6)

神経学の源流 1 ババンスキーとともに― (7)

神経学の源流 2 ラモニ・カハール 冒頭部引用

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神経病理学に魅せられて

By , 2012年9月26日 7:19 PM

神経病理学に魅せられて (平野朝雄著, 星和書店)」を読み終えました。神経内科医であれば平野先生の名前を聞いた人はいないと思います。神経病理学の日本人パイオニアの一人で、 多くの業績を残しています。毎年、神経病理学の初学者向けにセミナーを開催しており、参加した神経内科医は多いと思います (私は毎回当直でまだ参加できていません・・・)。

平野先生は京都大学第一外科 (荒木脳外科) に入局した後、30ドルと片道切符を持ってニューヨークに向かいました。そこで師事したのが Zimmermanでした。Zimmermanはドイツのエール大学に神経病理部門を創立した後、ニューヨークの Montefiore病院の基礎部門全体のディレークター及びコロンビア大学の病理学教授となった神経病理学の大御所です。Zimmermanは Albert Einstein医科大学の新設に際して、 Einsteinの元を訪れて彼の名を冠する承諾を得て、その大学の初代ディレクターにも就任しているそうです。

平野先生はニューヨークで多くの業績を積み重ねましたが、グアムに滞在し Guam ALS, Parkinsonism-dementia complex (PDC) の疾患概念確立に貢献しました。戦後初めてグアムの地を踏んだ日本人は平野夫妻だったと言われています。その時の仕事は Brain誌に掲載され、米国神経病理学会最優秀論文賞を受賞しましたが、いずれも日本人として初めての快挙でした。またニューヨーク時代、中枢神経の髄鞘構築を明らかにした Journal of Cell Biology論文は、多くの研究者から引用されています。

平野先生について、先輩から聞いた面白い逸話があります。平野先生は教育にも定評があり、多くの日本人が彼のもとに留学しています。ある日本人医師が「神経病理は全くの初心者で何もわかりませんが、勉強しに伺いたいのですが・・・」と問い合わせると、「経験がないのは問題ありません。(「何もわからない」ことに対して、) わかっているなら来る必要はありません」と言われたそうです。

本書は著者が回想するという形式をとっているため、教科書とは違って読みやすいです。神経内科専門医試験を受験するくらいの知識があれば楽しく読めると思います。最後に目次を紹介しておきます。

目次

まえがき

神経病理回想五十年

神経病理学入門までの思い出

  1. 学生時代
  2. 米国でのインターンと neurology residency
  3. 神経病理学に

グアムでの研究 (前編)

  1. グアム島へ
  2. Guam ALS
  3. Parkinsonism-dementia complex (PDC) on Guam

グアムでの研究 (後編)

  1. PDCの神経病理
  2. おわりに

脳浮腫の電顕による考察の回想

中枢神経の髄鞘の構造解析についての回想

  1. はじめに
  2. 末梢性髄鞘
  3. 中枢性髄鞘
  4. 脳浮腫に伴う有髄線維の変化の解析

小脳における異常シナプスの研究を振り返って

  1. Purkinje細胞の unattached spine
  2. 小脳腫瘍

筋萎縮性側索硬化症の神経病理学的研究についての思い出

  1. Bunina小体
  2. Spheroid

家族性 ALSの神経病理

  1. 後索型
  2. Lewy小体様封入体
  3. SOD1

神経系腫瘍の病理診断についての思い出

  1. 内胚葉性上皮性嚢胞
  2. 馬尾部の傍神経節腫
  3. Weibel-Palade小体

AIDSの神経病理についての思い出

あとがき

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