レッスン

By , 2007年3月18日 8:30 AM

昨日、19時くらいから、バイオリンのレッスンを受けて来ました。持って行ったのは、ベートーヴェンのヴァイオリン協奏曲。ツィンマーマンのコンサートを聴きに行く前に予習しておこうと考えたからです。

テクニック的な点では、右手の使い方を工夫して音色の種類を増やすことを教わりました。

音楽的な面では、和声からの音楽のとらえ方を教わりました。古典派のドイツ音楽は、ドミナント(Ⅴ)→トニカ(Ⅰ)の和声進行が多く使用されます。ベートーヴェンでは特にそれが顕著です。ドミナントはトニカに向かう性質を持ち、トニカは解決するという性格を持つことが、ドイツ音楽の持つ雰囲気に多く影響しています。

フランス音楽は、これ以外の和声を多様することで、簡単に終止に向かわず、移ろいやすさが表現されます。

このようなことを教わって、最後に、このコンチェルトでどのカデンツァを用いるかという話になり、「いろいろな版のカデンツァをまとめて一つの本にしてくれたら、好きなカデンツァが弾けるのに・・・」と言ったところ、「出版社に聞いてみようか?」となりました。

有意義なレッスンでした。理論的な面ももう少し勉強していきたいと感じました。

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わが真実

By , 2007年3月12日 8:23 PM

「ミッシャ・マイスキー『わが真実』、伊熊よし子著、小学館」を読み終えました。

ミッシャ・マイスキーについてのドキュメンタリー番組を見たときから、誠実な演奏家だなとの感想を持っていました。録画したビデオを何度も繰り返し見た記憶があります。

彼は、全ロシアコンクールで優勝しながら、KGBによって無実のまま牢獄に入れられます。強制労働の合間、独房の窓の間から、一枚の葉っぱが舞い込んでいたことで「生」を感じ、その葉っぱを大事にしていたエピソードが残っています。

彼がドキュメンタリーで語る言葉から、演奏が聴きたくなり、CDを買いました。バッハの無伴奏チェロ組曲ですが、1984年と1999年の録音両方聴き比べました。どちらも胸を打つ演奏でした。

本書の中で、知らない彼のことをたくさん知りましたが、過去に見たドキュメンタリーでのイメージ通りでした。苦難のいくつかに、読んでいて泣きそうになりました。

最近、乾いている人には、お薦めの一冊です。

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梅毒の歴史

By , 2007年3月11日 10:59 AM

「梅毒の歴史 (C. ケテル著, 寺田光徳訳, 藤原出版)」を読み終えました。量、内容ともに重い本でした。

梅毒は、その激烈な症状と、周囲の偏見により患者を苦しめてきました。また、予防についても、貧しさから売春を生活の手段とする売春婦や無知な若者、ストレスにさらされる兵隊から性をとりあげることは、人権を含めて困難でした。そして、発見のための方法や、家庭内に入り込んで配偶者に移された梅毒の治療についてなど問題は山積みでした。

梅毒は Treponema pallidumによって起こります。Pallidumは蒼いという意味で、例えば脳の淡蒼球という部位は、ラテン語で globus pallidusと言います。トレポネーマ自体は、Treponema pertenue, Treponema carateumとして紀元前1000年代にユーラシア大陸に存在し、ゴム腫に侵された骨-骨膜障害が示されています。

コロンブスは 1493年3月31日にアメリカからスペインに帰国しました。彼は 4月20日にバルセロナに入り、6人のインディアンを披露しました。このためか、梅毒の起源について、コロンブスがアメリカから持ち帰ったとまことしやかに言われています。

ところが、彼らの誰かが梅毒に感染していたという記録はありません。そして第2回目の航海は 1496年なので、コロンブスが新大陸から梅毒を持ち帰ったとは言えないのかもしれません。むしろ、その間にアントニオ・デ・トレスが 1494年に 26人、1495年春に 300人の男女をアメリカからスペインに持ち帰っています。

梅毒の最初の記載は、フォルノヴォの戦い (1495年7月5日) の記録にあり、いずれにしても流行は 1495年以降と言えそうです。筆者の立場は、むしろアントニオ・デ・トレスらの艦隊がアメリカから持ち帰った女性が、スペイン人らに「利用」されて、梅毒が広まったというもののようです。

フランスのシャルル 8世のイタリア遠征で、大量のフランス人兵士が梅毒に感染したと言われています。フランス人は「ナポリ病」、イタリア人は「フランス病」と呼びました。

このことについての文章が面白いので引用します。

病に最近襲われたばかりの国では伝染病だとの疑いをかけた-たいていは正しい-隣国の名をそれぞれの病に付与することとなった。そのため呼称は瞠目すべき多様さを示している。モスクワの人々はポーランド病、ポーランド人はドイツ病、ドイツ人はフランス病と言う-フランス病という名はイギリス人にも、イタリア人にも (このことが問題を難しくしている) 歓迎された。フランドル人やオランダ人は「スペイン病」と言い、マグレブ人の呼び方と同じである。ポルトガル人は、「カスティリヤ病」と名付けているのに対して、日本人や東インドの住民は「ポルトガル病」と呼ぶ。スペイン人だけが黙して語らない。奇妙なことだが・・・。

梅毒は瞬く間に世界中に広まりました。1607年に死亡した戦国武将の結城秀康も梅毒 (シナ潰瘍) だったと言われています。

当時は治療法がありませんでした。水銀療法かグアイヤックによる治療が主体で、いずれにしても大量に発汗させて毒素を出すのが治療とされていました。サウナのようなところに閉じこめられて、治療のせいで死亡した人もたくさんいたそうです。最終的には、水銀治療が中心となりましたが、今日ではあまり効果がないとされています。詐欺まがいの治療が横行した時代でした (この点は、現在の日本の新聞の広告欄で宣伝される健康食品と変わりません)。

罹患予防にコンドームが開発されましたが、性行為後にかぶせるのが使用方法でした。

乞食を閉じこめるための政策として、1656年パリ総合救貧院が建設され、男性用はビセートル、女性用はサルペトリエールとして知られるようになりましたが、梅毒患者が多く収容され、人体実験のようなものも行われていました。

こうした暗黒時代は 1800年前後まで続きました。

19世紀に入ると、リコールが登場します。彼はデュピュイトランの弟子で、ナポレオン 3世付きの医者でしたが、様々な業績を残しました。例えば、囚人に淋病を移植し、梅毒が発生しなかったことから、梅毒と淋病は違う疾患であることを示しました。

19世紀後半には、リコールの弟子であるフルニエらにより、統計学的、理論的考察がされるようになります。梅毒の原因探しが始まります。

1877年にパストゥールにより伝染病の性質が明らかにされたことにより、伝染病の研究が加速します。1878年にクレープスが下疳の中に梅毒螺旋虫 (エリコモナス) を発見したと主張しました。1905年ジーゲルが梅毒患者の血液と病変部に原生動物を発見し、シトリクテズ・ルイス (梅毒封入体) と命名しました。シャウディンとホフマンが諸臓器にそれを追認しました。このスピロヘータはトレポネーマ (ねじれた) ・パリドゥム (蒼白い) と命名されました。

1906年には、ボルデが非トレポネーマ抗原反応、その後ワッセルマンやナイサー、ブルックらが溶血反応による診断を開発し、ボルデ=ワッセルマン反応と呼ばれることになります。そして、野口英世らは、つかの間の培養に成功します (長期の培養は現代でも不可能とされています)。

治療の面では、1905年にアトキシルという砒酸剤が生まれますが、毒性のため放棄されます。一方、エールリッヒは、梅毒の病原体のみを排除する「魔法の弾丸」を求め、5価の砒素を3価とし、1909年に日本人秦左八郎の協力で、606回目の化合物を作るに至り、サルヴァルサン、通称「606」が誕生しました。さらにエールリヒはネオ-サルヴァルサン、通称「914」を開発しました。梅毒に大打撃を与えることは出来ず、水銀に対してすら優位性を示せませんでしたが、明るい兆しが出始めました。

1877年にパストゥールがカビと細菌の関係から抗生剤の登場を予感し、1928年にアレクサンダー・フレミングがペニシリウム・ノタトゥムを発見しました。そして 1939年にオクスフォード大学の研究チームが精製に成功しました。1943年にマホネー、アーノルド、ハリスが梅毒治療を成功させ、「奇跡の砲弾」が見つかりました。

梅毒は一旦激減しましたが、その後それ以上減ることはありませんでした。性病の恐怖が去り、若者の間で感染者が増加し始めたからです。

ちなみに、benzathine Penicillin G 240万単位一回筋注で梅毒の治療は終わりですが、日本では手に入りません。アジスロマイシン 2g 1回内服で良いとする報告もありますが、耐性菌の問題があるようです。日本で梅毒の治療をするには、認可されている薬の問題などで、ちょっとした工夫が必要です (「抗菌薬の使い方,考え方」岩田健太郎, 宮入烈著, 中外医学社, 参照)。

1980年に天然痘撲滅宣言がされましたが、翌年、1981年にロサンジェルスでカリニ肺炎が同性愛者に多発しました。1983年にパリのパストゥール研究所で新種のレトルウイルスが検出され「LAV: Lymphadenopathy associated virus」と名付けられました。これはHTLV-Ⅲとも呼ばれますが、現在ではHIVと呼ばれています。感染症の制圧に近づきつつあった人類は、新たな敵に会いました。このウイルスに罹患すると、免疫が破綻するため、これまで制圧したはずの感染症も重篤化するのです。

人類が梅毒制圧に要したのは約 450年。本書の結びの言葉はこうです。「エイズ・ウイルスについてもこれと同様なことを言えるようになるのに五世紀の期間を必要とすることがないよう祈ろう。」

追記:本書には、多くの文学小説が登場しますが、梅毒であったシューベルトやパガニーニのことは書かれておらず、少しがっかりましした。しかし、彼らの置かれた時代のことはわかり、満足でした。

(参考)
進行麻痺

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ヤマモトコウジ

By , 2007年3月10日 7:43 AM

先日のバイト当直で、看護師から、「先生ってヤマモトコウジに似ているって言われたことないですか?」と聞かれました。

広島の監督ですか?」と聞くと、「違う、新撰組の!」と言われました。

極楽とんぼの人ですか・・・。女性襲いそうに見えますか・・・」と話したところ、「違う!先生知らないの?」と怒られました。

家に帰って、ネットで、「ヤマモトコウジ」を調べると、「誰だよ、このイケメン」という美男子がそこにはいました。

お世辞だったのでしょうが・・・。

(追記)
後日、私のこの日記をみた同僚から、「いくらなんでも、無理ありすぎです。」苦情のメールが来ました。

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第1回抄読会

By , 2007年3月8日 8:12 AM

有志で文献を持ち寄って、抄読会を開きました。いざ始めようと思ったところで、病棟急変。3人でベッドサイドに飛んでいき、主治医の手伝いをしました。その後仕切なおして、やっと開始。

私が選んだ論文は、「Ge S, et al. Where is the Blood-Brain Barrier…Really?. J Neurosci Res 79: 421-427, 2005」です。これはBlood-Brain Barrier (BBB: 血液脳関門) について記したMini-Reviewでした。「細動脈、毛細血管、細静脈はそれぞれ血管の形態も、transporterも違い、通す物質が違うことを考えると、BBBはどこにあると言えるのだろうか?」という趣旨でした。

末梢神経障害に興味を持つK先生は、「Hughes BW, et al. Molecular architecture of the neuromuscular junction. Muscle Nerve 33: 445-461, 2006」を紹介しました。Nuromuscular junction (NMJ) について、知らなかったことをたくさん教えて頂きました。例えば、ACh受容体のサブユニットの話、脱神経を起こした筋肉が未熟型 (小児期に発現しているγサブユニットを持つAChR) を再発現することが自発放電の病態原理であり、線維性収縮に相当するなどというのは、電気生理学とも結びついた話で、興味を持ちました。

電気生理専門の I先生は、「Salzman KL, et al. Giant tumefactive perivascular space. AJNR 26: 298-305, 2005」を紹介しました。ただただ、画像の迫力に圧倒されました。Perivascular spaceは Neurological deficitをほとんど伴わないことを考えると、発生の段階で何か原因があるのかもしれません。見つかるきっかけも頭痛などで、一般の外来受診の症状の内訳と変わりません。また、加齢によって大きさが変わらないとする報告もあるようです。

22時半くらいに抄読会が終わってから、楽しい酒を飲みに行きました。

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インフルエンザ?

By , 2007年3月5日 9:46 PM

発熱してしまいました。埼玉で外来終わって、大学病院戻ったとき、何となくだるいなとは思っていたけど。

でも、明日は抄読会だから、今から英語の論文読まないと。だるー。

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国循 ICU

By , 2007年3月2日 9:52 PM

奈良県の産科19病院転送不能事件で、最後に受け入れることが出来た病院は「国立循環器病センター (国循)」です。日本の循環器領域では最高峰として存在し、世界的に見てもトップレベルの実力を持つ病院です。

ここの循環器外科集中治療室 (ICU) を担当する医師5名が全員辞表を提出しました。彼らは、年間 1100人の超重症患者を 5名で管理していたそうです。文字通り不眠不休だったのでしょう。

今後は、執刀した外科チームがそれぞれ ICU管理をするそうですが、執刀した上に、更に重症管理などという激務に耐えられないかもしれません。彼らがやめたら、循環器外科医のいない病院となり、循環器内科も機能しなくなります。大新聞のトップを飾るような大ニュースだと思います。マスコミが取り上げないのが、不思議なことです。

(参考)
勤務医開業つれづれ日記-【速報】春の大嵐 大阪 国循センター ICU医師全員退職へ 執刀との分業困難
勤務医開業つれづれ日記-国循ICU …「庶務課長は『診療機能の低下はなく、患者への影響はない』と話している。 」…-
勤務医開業つれづれ日記-国循ICUショックから一夜 国循自体が循環不全とは…-

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内科認定医エントリー

By , 2007年3月2日 9:30 PM

内科認定医制度というのがあります。これは内科学会所属の医師が、約 3年の経験を経て受験資格を得るものです。取ったからといって、メリットがあるわけではありませんが、内科認定医をとらないと神経内科専門医試験を受けることが出来ません。

内科認定医試験を受けるためには、内科各分野18症例のサマリー (過去の診療の要約に文献的考察を加えたもの) を提出する必要があります。この期限が2月28日でした。

これが面倒くさかったので、これまで無視してきたのですが、後輩医師に誘われて、2月14日くらいに、「やってみようかなー」などとエントリーすることにしました。それから 2週間でサマリー 18個を完成。飲み会とか当直でなかなか進まず、最後は、朝 4時起床で作業していました。何とか2月27日にサマリーを郵送しました。

その後、リバウンドで飲みまくってます。で、試験はいつなんだろう?

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