医学を変えた発見の物語

By , 2008年2月3日 6:04 PM

「新訳・医学を変えた発見の物語 (Julius H Comroe Jr, MD著、諏訪邦夫訳、中外医学社)」を読み終えました。原著のタイトルは「Retrospectroscope -insights into medical discovery-」といいます。

本書は医学史について深く触れた本ですが、貫かれるテーマは、意図されていたもの以外から、優れた研究が生まれることについてです。つまり、当初意味がないと思われた研究が、別の分野で多大な貢献をすることがあるのです。従って、意味のある研究ばかり追究すると、そういった部分がおろそかになると考えられます。ノーベル賞を受賞した小柴さんが、「われわれが研究していることは、意味のあることかどうか、後世にならないとわからない」と言っていたのを思い出します。

第 1章は、「空はなぜ青いのか」と題されています。「空はなぜ青いのか」という疑問にレオナルド・ダ・ヴィンチ、ニュートン、ゲーテが挑み、ティンダルが部屋を暗くして水蒸気に太陽光線を当てて、青い空をガラス管内に作ることに成功しました。この技術は細菌学に応用され、バクテリアを含んでいない空気からバクテリアが生じないというパスツールの考えが証明されました。

ティンダルの凄いのは、フレミングが1929年にみつけた現象を1877年に発見していることです。その記録を引用します。

 ペニシリンカビはとても美しい。カビが厚く集まっているところでは、細菌は死んでいるか死にかかって培地の底に沈殿している。カビは生育も細菌に与える影響も気まぐれである・・・隣り合った2本の試験管で、一本はバクテリアが繁殖してカビをやっつけて、すぐ隣の一本は逆にカビが細菌をやっつけている。

我々は、中学生か高校生の頃に、チンダル現象を学校で習いますが、実はチンダルは他にもこんな業績があったのですね。

第2章の「『空気』という海」では、トリチェリの4つの業績が紹介されています。

1)「われわれは空気という海の底に住んでいる。その空気は重さをもつ」という新しい認識
2)空気の重さを測る道具すなわち気圧計の発明
3)水銀柱より上の部分のいわゆる「トリチェリの真空」の発見
4)空気の研究における定量測定の開始

これだけ見ても、従来の常識を覆す発見であることがわかります。ちなみに、工学者たちは、mmHgという長い音節の単語に変えて、トリチェリの名前から「torr」という単位を作ったそうです。地球上では数値は一致するが、mmHgは重力の影響を受けるのに対し、torrは「地球上の大気圧の平均値を 760 torrとする」と定義しています。この mmHgと torrの違いは、昔麻酔科の授業で習った記憶がありますが、すっかり忘れていて、久しぶりにみて懐かしく思いました。電気の周波数に名前を残したヘルツも、トリチェリの本を読んでいた記録が残っています。

第3章は「物の内部をのぞく話」です。レントゲンについて扱われています。本書の記述を、少し年表のようにしてみましょう。

 1895年11月8日レントゲンがX線を発見。2~3週間研究を進める。最初の被写体は妻の手
1895年12月28日ビュルツブルグ医学協会機関誌に論文掲載
1896年1月5日ウィーン新新聞にレントゲンの発明の記事あり
1896年1月23日口頭発表、同日、ビュルツブルグ医学協会機関誌発表の論文がNatureに英訳される
1896年2月14日ビュルツブルグ医学協会機関誌発表の論文がScienceに転載される
1896年4月血管撮影が行われる
1897年6月レントゲン協会結成

ものすごい勢いで広まっているのがわかります。すぐに様々な生物分野にも応用されました。特記すべきは、1897年に「荷物に爆発物や密輸品がないかの確認、お酒の熟成を進めること」などを適用が考えられる用途として挙げている人物がいることです。テロ対策の草分けですね。お酒の話も興味が持てます。

で、X線の副作用についてはほとんど知られていなくて、自分の手で実験した人が居たみたいです。トンプソンと言います。トンプソン効果を見つけた人物と同一人物かはわかりませんでした。ただ、現代の知識を持った我々からは、びっくりするような実験なので紹介します。

 X線の組織障害作用には前から興味をもっていた。X線でやけどしたという話を何回か聞いたが、私にはとても信じられなかった。そこで実験した。X線の出てくる透明ガラスの所に指を一本置き、ほかの指は青ガラスでしっかり防御した。ホルツ型の機械でちょうど30分間当てた。管球に充分くっつけて30分後、多分まだ時間が足りないとは考えたが、くたびれたのでそこで止めた。遠くから何時間も当てるのと同じくらいの量が当たったと考えてやめにした。5日、7日、8日と待って何事も起こらず、放射線の作用など何もない、障害の話は嘘だと考え始めたところであった。ところが9日目になって、指先に発赤が始った。12日目には水疱もできて、とても痛くなった。13日目、14日目には水疱が皮膚全体に拡がりX線を当てなかったところまで水疱になり、全周にわたった。表皮は縁の所にほんのちょっと残っただけで全部はげ落ちて大きな潰瘍となり、治癒のきざしはみえなかった。やがて、周囲から表皮が生えて次第にとじたが、完成はほんの3日前で、皮膚はさわると痛く、指を覆うしっかりとした皮膚はできそうにない。皮膚はさわるとまだ痛く、指を覆うしっかりとした皮膚はできそうにない。皮膚と皮下組織との接着が弱く、ブヨブヨしてさわると痛くさわらなくても燃えるようなピリピリ痛む感じである。とにかく治ったからいいようなものの、実に6週間半もかかっている。

想像するだにおぞましい実験です。

第4章は「大発見の人と背景 第1部」、第5章は同第2部となっています。発明のきっかけと、その後発展したものが全然別だというものが、これでもかと紹介されています。その最たる例が第6章「足は地面を離れるのか」に載っています。

みなさんは、映画のルーツは何だと思いますか?実は、「馬が走る時に、足が全部離れるか?」の調査から発展したものなのです。本書から、当該の部分を引用します。ちなみに、本書にはその連続写真も掲載しています。

 1872年の春に・・・サンフランシスコで、動物の運動に関する議論が再燃した。・・・テーマは、馬が歩いたり走ったりするときに、四つ足がすべて同時に地面を離れることがあるかである。

マイブリッジは、この論争に決着をつけようと決断した。短い間隔で何枚もの写真を撮れば解決できると考えた。1872年当時、映画はもちろん存在しない。写真もフィルムではなくて、ガラス乾板に撮影していた。マイブリッジは、12台から 24台のステレオカメラを競馬場のトラックに平行に並べ、馬が第1の位置にきたときにボタンを押して、以後のカメラが電気モーターで次々とシャッターが落ちていく仕掛けを作った。結果の一部は、6枚の連続写真として図1にあげてある。

次にこのガラス乾板を円板にはめ込んで回転し、馬の走る様子を再生することに成功した。カメラはステレオであったから、乾板を2枚の円板に対応してはめ込み、それを回転することで立体像も撮った。これこそ世界最初の映画、それも立体映画である。ハリウッドの映画が現代文明の進歩に有用かどうかの議論はさておき、映画が医学や医療の役に立っていることは間違いない。

1872年に、マイブリッジがNSFに研究費を申請したら、「下らない研究」として、国会議員は否認しただろう。ところがマイブリッジは幸運だった。スタンフォード大学の創始者スタンフォードが、その屋外研究所をマイブリッジに提供した。人・動物・鳥で研究を続けて成果を発表できるよう、ペンシルバニア大学の副学長ペッパーが大学の委員会や友人と協力して、マイブリッジに研究費を与えた。1882年になると、フランスの生理学者マーレイが、マイブリッジのようにカメラを何台も用いるのではなく、1台のカメラで帯状フィルムを用いて、現在の映画撮影に成功した。1893年になると、エジソンがこんどは映写機を発明して特許をとり、映画の発明者になった。

何と、馬の話が映画の話になってしまいました。同様の話が本書ではいくらでも紹介されていて、「マダガスカル産のハリネズミが、何故じっと動かなくなるか」の疑問の研究から、「熱帯の動物も体温が少し下がると冬眠状態になるとわかり、心臓手術中の低体温麻酔法の開発につながった」などという話もあります。

第9章は「赤ちゃんの泣き声が歌になる」と題されていて、学生による大いなる発見に焦点を当てています。著者は研究の必要性を説いています。現在の日本では、研究は評価されているとは言い難いのが現状でしょう。

 学生が臨床面に優れるか教育面に優れるか研究面に優れるかをみつけ、優れた方向へ進むよう指導するのは、教官の重要な任務である。

領域の一つは研究である。学生が研究に優れるか見分けるには、学生時代に研究に参加する機会が必要である。そこで、私の立場を一応はっきりさせておこう。最近、私は患者として入院する機会があった。その経験も踏まえて、医師やナースの役割、患者を世話し患者のために活動する役割に充分な信頼を寄せてはいる。しかし、研究が進んで入院が必要なくなれば、どんなによかろう。

学生が研究を経験することには二重の利益がある。優れた能力のある学生を選び出す他、研究の医師のない学生でも研究経験があった方が優秀な医師になる。効果はいろいろと幅広い。

例えば、論文を批判的に読めるようになる。雑誌に発表されたデータを、客観的に見られるようになる。医科大学には「データ評価」のコースはない。けれども、学生が卒業後40年間も独立して活動し、いいものと悪いものと見分け、必要なものを採用し不要なものを捨てられるように、教官は教育せねばならない。

研究の経験があれば、対照実験の重要性もわかる。新しい評価法の評価には特に大切な問題である。

研究の経験があれば、問題解決に系統的に当たるにはどこから攻めたらよいかもわかる。患者を一人一人治療していくのは「問題解決」である。研究のおかげで、診断・予後・治療の評価の際、漠然と推測するより数字を取り扱う方が優れていることもわかる。

本書に取り上げられている学生のした研究を列挙してみましょう。

デイヴィ-笑気の麻酔作用発見
モートン-エーテルの麻酔作用発見
ポアズイユ-血圧測定
ピーターソン-動脈圧連続測定
ランディス-小血管の血圧測定
ランゲルハンス-膵臓ランゲルハンス島の発見
バンティングとベスト-インシュリンの発見
マクリーン-ヘパリンの発見
ブロイエル-ヘーリング・ブロイエル反射の発見
ザントストレーム-副甲状腺の発見
テベシウス-テベシウス静脈の発見
ブラック-炭酸ガスの発見
ベリーニ-腎組織の構造の記載 (そのまま20歳で教授へ)
ヤング-眼球内の毛様筋の収縮により焦点距離を調節していることの発見 (彼はヤングの干渉実験でも有名)
フラック-キース・フラックの結節を発見
スワンメルダム-毛細管の中の血球を発見
イーヴリン-比色計を発見
フォーグル-梅毒治療にサルチル酸 (駆梅薬)を使用した際、強力な利尿効果があることを発見 (心不全の治療に応用)

枚挙にいとまがありません。著者のこのような考え方に、謝意を述べた弟子の手紙が紹介されています。

あなたのもとでリサーチフェロウをやった医師の中には、私のように開業した人もおり、教育のむだと見えるかもしれません。でもそれは違います。科学的に物事を考えるだけで診療が行えるとは主張しませんが、毎日の医療に科学的考え方を適用するのでなくては、そもそも進歩はありません。

第11章は、偶然起こったことから非常な利益を得る話で、「豚の丸焼きと科学の発見」と名付けられています。これは、たまたま豚小屋が火事になり、焼けた豚を食べた人が、豚を焼いて食べるとおいしいと気づいた逸話からとられています。いくつか紹介しましょう。

①殺鼠剤フェニールチオ尿素の研究中に、同薬剤で甲状腺ホルモン生成阻害が起こることが発見され、抗甲状腺薬が発見された(※記載はありませんが、PTU(プロピルチオウラシルでしょうか))。
②糖尿病患者ではインシュリン破壊酵素インシュリナーゼの作用が強すぎるのではないかと仮説が立てられ、それを実証する実験をしたところ、逆に糖尿病患者ではインシュリン消失が遅かった。その原因を確かめるためインシュリンをアイソトープでラベリングして患者に投与した実験で、インシュリン量の測定が可能になった(ラジオイミュノアッセイ法)。
③抗ヒスタミン薬ドラマミンの治験中に偶然、抗ヒスタミン薬が乗り物酔いに効くことがわかり、乗り物酔いに悩む米軍は研究に乗り出した。
④冠動脈造影は元々、重篤な不整脈が起こりそうなため、施行されていなかった。ただ、医療事故で間違えて冠動脈に造影剤が流入してしまい、その時にRCAが末梢まで鮮やかに造影された。また、患者に合併症はなかった。このことから冠状動脈カテーテルが行われることになっった。
⑤昔はペニシリンが高価で手に入らなかった。というか、大量生産が不可能だった。そこで、血中濃度を保つためペニシリンが排出されにくい薬を開発されることにした。パラアミノ馬尿酸は効果があったが、不十分だった。そこで、プロベネシドが開発されたが、開発されたころにはペニシリンは大量合成できるようになっていた。しかし、尿酸排泄促進剤として痛風に効果があることが発見された。
⑥研究室の動物飼育担当者が残飯を使って飼育していた頃は、鶏の脚気は発生しなかったが、担当者が交代して白米を与えるようになってから鶏に脚気が発生した。また残飯を投与するようになってから脚気は発生しなくなった。このことから何か大切な物質「ビタミン」の存在が示唆され、特に脚気を防ぐ物質は「サイアミミン」と名付けられた。

このように、この類の話もいくらでもあります。研究というのは、偶然が作用する場合があるのだなとつくづく思います。でも、それを見逃さない観察眼や、見つけたら発表する姿勢は大切と言えるのかもしれません。

第17章は「実のところのおはなし」という、発見の舞台裏についてです。

例えば、リンガー (リンゲル) 液は、ちょっとしたミスから見つかりました。リンガーは、実験に蒸留水ではなくて、水道水を使ってしまったのです。結果的に実験が成功しました。でも、蒸留水から生理的食塩水を作ると上手くいかなかったのです。こうして、水道水に含まれるカルシウムの重要性に目がいきました。ちなみに、リンガーの弟は貿易商で、グラバー邸を中心とする長崎の史跡に邸宅を残しているそうです。

この章は引き続きヘパリンなどの抗凝固薬の話が扱われるのですが、その中に、信じられないような記述があったので、一部引用しておきます。

現時点では信じがたいことだが、1900~1915年ころは輸血には供血者の動脈と患者の静脈を直接つないでいた。血液凝固を防ぐ方法としては、刷毛で激しくかきまぜて血中フィブリンを取り除く位しか手立てがなく、血液を刷毛でかき混ぜると強い生体反応が起こった。1914年、ベルギーの医師ハスティン博士がクエン酸ソーダを血液に加えると凝固しなくなり、現在の手順の輸血の可能性を証明したのである。

供血者の動脈と患者の静脈を手術でつないで輸血させるなんて、想像しただけで鳥肌が立ちます。

第23章は「世界史上の人名録」です。多くの人の命を救ったであろうペニシリンの発見者をあなたは言えますか?この発見に対して、世間の関心は一過性のものだったのでしょうか?日本においてもペニシリンは未だに肺炎治療の基本であったりして、ないがしろにされるべき薬剤ではありません。

さて、ペニシリンの件についての解答です。引用を持ってかえさせて頂きます。

 こんな問題がなぜわからないのか、とても不思議である。ペニシリンはおそらく史上最多の人命を救った薬物のはずで、当然大事件である。そこで百科事典のFの項を引いて、フレミングの名前が載っているか調べた。なるほど一応載ってはいる。「アレクサンダー フレミング卿、スコットランド生まれの細菌学者及び医師、ペニシリンの共同発見者、1929年」となっていた。次に同じ辞書の附録についている「世界史上で重要な日付」に当たってみた。21ページ、1770項目にわたる記事である。一番古い項目は、紀元前 3200年のことでエジプト王朝であり、最後の項目は 1965年バチカンにおける法王パウロ 6世の全体協会開催となっていた。

フレミングがペニシリンを発見した 1929年も載っていた。この年の事件は 4つで、アルバニア王ゾグの統治、ヤングの賠償案をドイツと同盟国の双方が受け入れたこと、ニューヨークウォール街の株の暴落、フーバー大統領辞任の4つである。ペニシリン発見は載っていない。次に 1895年のレントゲンの発見が載っているかしらべたが、これも載っていない。1895年として載っていたのは、日清戦争・ドレフュス事件・帝政ロシアのニコラス 2世の統治、極東での争いであった。さらに少し考えて、ハーヴェイの血液循環が載っているか試した。1628年は辞書に載っているが、その内容はスペインのフィリップ 4世の統治、イギリスのチャーチル1世の統治、権利章典の署名、マサチューセッツ港湾会社の免許といった項目で、血液循環は掲載されていない。

私も知らないことは多いのですが、こうした歴史を知ることは有意義なことだと思います。先人達の業績については、我々はもっと勉強しなければいけませんね。

第24章は、「失敗を恐れない勇気」です。ここでは、勇気を第1~第4級に分けています。

第1級の勇気は、自分の命をかけて人類に寄与した勇気です。自分の右心にカテーテルを挿入したフォルスマンが例として挙げられています。

第2級の勇気は、自分の家族を実験台にして研究を行ったものです。ジェンナーが牛痘を用いて予防接種するより昔に、天然痘患者のうみを自分の子供に打ったモンタギュー夫人などです。

第3級の勇気は、第1級のように自分の命を賭けるものの、動機が富や名声であるものです。

第4級の勇気は、自分が非常に重い病気にかかっていて、未知の治療を受けた患者です。面白い例があるので紹介しましょう。

別の例としてギルモア博士をあげよう。ギルモア博士は、1933年に肺切除を一期的に行う手術を初めてうけた患者である。当時48歳であったが、左肺上葉で気管分岐部に非常に近いところに扁平上皮癌が見つかった。主治医の外科医グラハム博士は気管支鏡と試験切除で確認できたので、患者のギルモア博士に対して手術の計画を正確に説明した。ギルモア博士は一度病院から退院して、いろいろと準備をし、当然その間に墓も予約した。最もグラハム博士が喜んだことに、ギルモア博士は歯医者に通って歯の治療もうけたという。ずっと後の1957年になって、グラハム博士は「ギルモア博士が歯医者へ行ったと聞いて、わたしは大変うれしく自信もついた」と言っている。世界最初の一期的肺切除術は大成功に終わり、その後患者は健康に過ごして結局 1963年に心臓と腎の病気により78歳で死亡した。実は手術した外科医よりも、患者の方が 6年も長生きしている。グラハム博士の方は、1957年に自分も肺癌にかかり手術不能で死亡している。

その後に、「外科医の勇気」というのが述べられています。それは、失敗が続いてもトライを続けるものです。しかし、それを勇気と呼べるか、筆者は懐疑的です。

ここで述べた話は心臓外科手術と勇気であるが、だれの勇気だろう。外科医が自分の医師としての生命をかけて危険な手術を試みたというのだろうか。それとも 5人目の患者クレア ウォードが前の 4人が死んだこと、少なくとも前の 3人は死んだことを知りながら、あえて自分の命をかけたその勇気だろうか。「第4級の勇気」の栄誉は外科医ではなくて患者に与えるべきである。

外科医の方は勇気があったとは言えないか。勇気と言わない理由は、1例の成功までに、何例も失敗するのはきわめて当たり前だっったからである。この点は、今となっては覚えている人も少ない。こういう失敗を重ねても、外科医としての生命を危うくするとか、不名誉として人から責められたり、貧困に陥ったという例はない。そうした事例があれば、医師を第 4級の勇気か第 2級の勇気として称賛してもよい。しかし、いろいろな論文や出版された文章、伝記を読んでみても、失敗によって汚名を着せられた例はない。

トレンデレンブルグといえば有名なドイツの外科医であるが、1912年に「われわれは肺血栓除去術を 12例試みて 12例失敗した。しかし続ける」と述べている。実際宣言のとおりこの手術を続け、失敗を続け、しかもなお周囲から敬服を受けつづけた。

著者は、そう述べながら、手術に失敗して心に大きな痛手を受ける外科医の話も紹介して、「私の分析には何か至らない点があるのかもしれない」と結んでいます。

この話から感じるのは、「初めて」の治療を受けることの恐怖と、それを乗り越えることの勇気です。その成功により、医学は発展してきました。でも、ある意味綺麗事も含まれており、上手くいかなくて命を落とした人たちが数え切れないほどいることも事実です。

第25章は、「フランケンシュタインとピックウィックとオンディーヌと-引用の誤りについて」です。小説から名前を借りたピックウィック症候群とか、オンディーヌの呪いという病気があるのですが、実は小説を読んでみると、不適切なネーミングであったというものです。このことは以前「好きになる睡眠医学」という本の紹介で触れたので、流します。

私が初めて知ったのはフランケンシュタインの由来です。もともと、1816年にシェリー夫妻らが休暇中に、退屈を紛らわせるために、みんなで幽霊の話を書こうということになりました。実際に書いたのはシェリー夫人だけで、「フランケンシュタイン-現代のプロメトイス」という題名の本でした。ヴィクトール フランケンシュタインはインゴルスタット大学の「自然哲学(医学)」の学生でした。彼はおとなしく、賢い紳士であって、人から愛されることを願っている創造物を作りました。部品は病院の解剖室や屠殺場から集めました。創造物は人のために尽くしますが、逆に迫害され、痛めつけられ、人類に復習を誓います。こんな悲しい物語があったとは知りませんでした。お化け屋敷で会ったら、「ごめんなさい」と謝らないといけませんね。ちなみに、フランケンシュタインは創造物を作った学生のことで、創造物をフランケンシュタインと読ぶのは、厳密には誤りなのだそうです。

さて、最後の3章は肺の「サーファクタント」発見の物語です。新生児が生まれてすぐ呼吸出来るようになるのは、この表面活性物質の影響が大きいのです。しかし、それが同定され、治療に応用されるようになるには、大変な物語がありました。

最初は、表面張力に関わるラプラスの法則から始まります。このラプラスの法則を訳して英語圏に広めたのがバウディッチで、原典と同じ長さの注釈を付けて、発表しました。でも、彼は10歳までしか学校に通わず、以後は船乗りをしていたのです。天才としか言いようがないですね。このラプラスの法則が、サーファクタント探求への理論的な基礎となります。ちなみに、ラプラスの法則は盗用とも考えられ、最初に報告したのはヤングで、当のヤングはラプラスに「フランスで新しい重要な理論として発表されたことが、実は1年前に本学会で堂々と発表されていたことは知っておいて欲しい」と苦言を呈しています。

後に紆余曲折を経てサーファクタントが発見されるのですが、是非本書を読んでみて欲しいと思います。途中、結核なのにそのまま小児科のインターンを始め、多大な貢献をした医師の話なんかも出てきます(ガフキーのことは書いてないけれど、患者に伝染ったらどうするんだっての)。

現在、未熟児が生まれても、助けられるのはこのサーファクタントの発見によるところも大きいと考えられます。サーファクタントの不足は新生児呼吸窮迫症候群を招くからです。

こうした本を読むたびに、人類が積み上げてきた医学史の重みを感じます。特に本書を通じて、発見には予想外の事象から導かれたものも多く、医学は必ずしも直線的に進んできた訳ではなかったのがよくわかりました。

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