第一次ボランティア at 本吉

By , 2011年4月7日 7:53 AM

3月 27~30日、ボランティアで宮城県に行ってきました。

3月 26日に methyl先生から電話があって、準備のことを聞かれたのですが、あまりに私が服装に無関心だったので、「凍死しますよ?」と心配していました。私は元々着るものに全く関心がなく、十年くらい前に実家から届いた Yシャツをずっと着続けている感じで、服の名前を聞いても全然わかりません。結局、methyl先生が買い出しを手伝ってくれることになりました。

3月 27日昼頃から、新宿で買い出しをしました。がれきの上を歩いても大丈夫な靴、暖かい服とズボン、寝袋、寝袋の下に敷くシート、電池などを購入したら、結構な金額になりました (多分、景気対策にはなった筈)。

そこから荷造りをして 23時にジャパンハート本部に到着。入会手続きだとか色々事務手続きがあってから、出発となりました (この時にジャパンハートのジャンパーを支給されたので、直前に買ったジャンパーが無駄になってしまいました orz)。自動車は 2台で、ドライバー 3名 (交代要員あり)、医師 1名、看護師5名でした。私は助手席で眠ろうとしていたのですが、後部座席の看護師 2人のテンションがとても高く、炸裂したトークが聞こえて来ました。

車は時々高速道路で 2000円の上限ずつ給油をしながら仙台に向かいました。安達太良周辺で高速道路に設置された寒暖計を見ると、”-5℃”を示していました。

3月 28日午前 6時頃、仙台支部に到着。仙台支部は倉庫に机を置いた作りで、医薬品や物資などが積み上げられていました。そこで打ち合わせを色々してから、運転手 1名、看護師 1名とともに本吉に向かうことになりました。途中の道路では、ガソリンスタンドの前に数 kmの列があった以外は変わった景色はありませんでしたが、本吉が近づくにつれて葬儀の案内の看板が多くなりました。そして、海まで少し距離があるのに、川沿いが瓦礫の山になっていました。


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本吉では「清涼院」というお寺が避難所となっていて、そこを基点に活動することになりました。寺の一室が診察室になっていて、到着するなり患者さんが何人か入ってきたので診察しました。カルテはなくて、A4のコピー用紙に日付を書いて、1枚に 10人ずつくらい診察の情報を書き込みました。処方箋はなく、封筒に薬の種類と飲み方を書いた後、手持ちの薬を入れて直接渡していました。

その日は避難所 2カ所で診察をしました。最初の避難所は、民家に多くの人が集まって炊き出しをしていて、それをごちそうになって、縁側のところで診察をしました。20人くらい診察しましたが、多くは高血圧と花粉症でした。

一旦清涼院に戻った後、別の民家に移動。20人くらい診察しました。こちらも高血圧の方がメインでした。診察後、夕食の炊き出しをしていたので頂きました。米は豊富にあり、野菜も近くでとれた新鮮なもので、おいしかったです。食事をしてから、往診を頼まれた民家に行きました。足が弱って歩けない老夫婦と息子さんがいらっしゃって、蝋燭の炎で診察しました。江戸時代の診察風景のようでしたが、さすがに暗すぎて診察にならず、懐中電灯で照らしながらの診察でした。

往診が終わって清涼院に戻ると、自家発電がされていました。我々が居た地区は、電気、ガス、水道のライフラインが一つも通っていなくて、電気は夕方~21時自家発電、ガスはないので火は薪と竈を使用、水道は自衛隊が 1日1トンの水を 2回運んできていました。診察室に寝袋を用意して潜って就寝。寒さで耳が痛くて何度か目覚めました。

29日朝、気仙沼の会議に出掛けました。向かう途中の道路から見える風景は、テレビで見たのと同じで、海沿いは更地になった中に船が転がっており、少し山側では家が転倒して逆さに立っていたりしました。

気仙沼では「すこやか」という施設がボランティアセンターになっていて、朝と夕方に会議が行われているのです。そこで情報を共有することになっていました。この会議で避難所とそこを管轄する医療スタッフの分担がなされ、機能していました。会議室の後ろには医薬品が山積みになっていて、持って帰って良いことになっていました。「オーグメンチン」や「ヒルドイド軟膏」などをいくつか持って帰りました。

戻ると、テレビ局の取材が来ており、診察風景を録画されましたが、全くの専門外の外科処置をしているところを撮られてしまい、カットされることを強く願いました (もし放送されたら赤面ものだ・・・)。

基本的にこの日は清涼院に仮設された診療所に来た方の診察だけをしたのですが、往診依頼が数件あり、出掛けました。我々の車が出払っていて困っていたら、被災者の方が快く車を出してくださり、出掛けることが出来ました。仙扇寺には多くの被災者が避難しており、1人を診察すると次々に診察希望者が現れ、気が付くと 7人くらい診察していました。ここでは風邪が流行っていました。

この日から少し暖かくなり、凍えることなく眠れました。

翌 30日、交代する医師に申し送りをしました。この日は私はどこにも出掛けず、診療所に訪れた方だけを診察しました。昼頃出発し、仙台に寄ってから帰京しました。仙台からの帰りの車は、ジャパンハートの代表と隣の席でした。東京の事務所に着いたのは 22時頃でした。現地の情報を共有するために伝えてから帰宅しました。帰宅したときは疲労感は全然ありませんでしたが、数日してからどっと疲れました。


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