JR貨物

By , 2011年4月9日 11:37 AM

私が 3月 27日に宮城に着いたとき、ガソリンは徐々に手に入りやすくなってきていました。こうした流通にかける人たちのおかげだったのですね。感謝です。

 JR貨物、不屈の鉄道魂 被災地へ燃料、壁乗り越え達成

被災地の燃料不足が深刻化する中、ガソリンと軽油を積み込んだ「石油列車」が19日夜、盛岡貨物ターミナル駅(盛岡市)に滑り込んだ。震災後初めてとなる列車による燃料の大量輸送。輸送を担ったJR貨物には、被災によるルート変更、迅速なタンク貨車の手配などさまざまな課題がのしかかった。

正規ルートは壊滅

新宿駅近くにあるJR貨物本社。1カ月前に移転したばかりの真新しいオフィスは、震災以来、沈痛な空気に包まれていた。首都圏と東北を結ぶ東北線、迂回路(うかいろ)の常磐線が深刻なダメージを受け、東日本がほぼ機能不全の状態に陥っていたのだ。

テレビに映る被災地の惨状に社員は声を失った。さらにガソリンスタンドは長蛇の列、ストーブの燃料もない避難所には雪が積もっていた。燃料を早期に大量輸送できるルートが求められているのは明らかだった。

14日夕、4階の会議室に各部署の主要メンバー30人が集まった。狭い室内に沈黙が続く中、誰かが声を上げた。「石油を運ぶぞ。日本海側から」。応じる声がすぐに上がった。社員の“鉄道魂”に火がついた瞬間だった。

「思いは同じだ」

盛岡貨物ターミナル駅には、タンク貨車からタンクローリーに石油を移す施設がある。かろうじて“生きている”日本海側の線路を使い盛岡まで運ぶ。そこからタンクローリーで、被害の少ない内陸部の道路を南下、東に方向転換し、ピンポイントで最大の被災地、三陸沿岸集落に輸送する案が持ち上がった。

昼夜を問わずに断続的に開かれた対策会議で、いくつもの課題が浮き彫りになった。運行管理の担当者は「日本海ルートで石油を運んだ実績がない」と天を仰いだ。

重いタンク貨車に、レールや橋脚が耐えられないかもしれない。技術担当者がすぐに線路の管理者であるJR東日本に電話を入れた。「タンク貨車が通れるか、至急シミュレーションしてほしい」

こうした試算は通常、長期間かかるが、JR東から返事が来たのは翌日だった。「大丈夫だ。いける」。答えを聞いたJR貨物の担当者はJR東の迅速な対応に「輸送にかける思いは同じだ」と胸が熱くなった。

発送前倒し 応えたJX

次は積み荷の手配だ。15日、営業担当者は、恐る恐る連絡を入れた。相手は元売り最大手のJX日鉱日石エネルギー。どの元売りも製油所が停止するなど、大打撃を受けていた。「輸送できます。いつから(石油を)出せますか」。相手は待っていたかのように応えた。「19日に出せる」

その夜のJR貨物の会議で、ある幹部が思わぬことを口にした。「18日に出せないか」。その場に居合わせたある営業担当の男性社員は「政府の意向だ」と感じ取った。JXもあらゆる手を打ち、18日に間に合わせた。

横浜市の根岸製油所で燃料を積み、丸1日かけて盛岡に運ぶ。青写真はできた。しかし、技術担当者は「できるだけ軽いタンク貨車を使うべきだ」と主張した。線路の耐性への疑念が消えなかったのだ。

コンテナリース会社、日本石油輸送には40年以上前から使われ、退役間近のタンク貨車「タキ38000型」が36両残っていた。積載量は少ないが、一番軽い。「できるだけかき集めてほしい」。JR貨物の要請で、17日までに18両が集まった。

18日午後7時44分、電気機関車「EF210型」に牽引(けんいん)され、ガソリン、軽油合計792キロリットル、タンクローリー40台分を積んだタンク貨車18両が、根岸駅を出発した。列車には8人のベテラン乗務員が交代で乗り込んだ。「乗務員は担当区間では踏切や信号はもとより、レールの状況も正確に記憶している」(同社広報)。不測の事態に備え、短い距離で運転を代わる万全の体制を敷いた。

タンク貨車が盛岡駅に到着したのは19日午後10時過ぎ。待ちわびた多くのタンクローリーに石油が次々に充填(じゅうてん)され被災地へ向け走り出す。バトンは確かに引き継がれた。21日からは1日2便に増便しており、25日からは根岸→郡山(福島県郡山市)への輸送も始める。

収益悪化や設備の老朽化などをたびたび指摘されてきたJR貨物だが、日本の非常時に鉄道輸送の存在感を見せつけている。(高山豊司)



2時50分

By , 2011年4月9日 11:19 AM

芸人の江頭2:50がボランティアでいわきに物資を運んできた話がネットで話題になっています。震災は2時46分でしたが、「多くの人が3月11日の2:46で時が止まってる中、この漢が4分、時を進めた」という書き込みもありました。

この件で、本人がニコニコ動画で真相を語っています (最初~18分までの部分)。最後は江頭2:50らしい収束w

「江頭2:50のピーピーピーするぞ!」第135回

感動的な動画なので是非見てみてください。動画ほどは伝わりませんが、見る暇がない方は、テキスト版をどうぞ。

江頭2:50が物資支援の真相激白「お金ないからさ。体で払ってきただけ」。


Google

By , 2011年4月9日 10:55 AM

熱い会社ですね。何故、世界をリードする IT企業であり続けるのか、わかるような気がしました。

「自動車・通行実績情報マップ」には御世話になりました。

地震、その時Googleは 「1秒でも惜しい」と怒涛の開発、海外にもバトンつないで

ITmedia News 4月5日(火)10時4分配信

3月11日金曜日。東日本大震災の直後から、六本木ヒルズ(東京都港区)26階にあるGoogle日本法人のオフィスの一角に、技術者など十数人のスタッフが集まっていた。小さなこたつ机を囲み、ひざを突き合わせる。「われわれに何ができるのか」――真剣な議論と開発の日々が始まっていた。

●「いかに早くリリースするか」 オフィスを小走りで移動、リポDの山も

こたつ机を囲んだメンバーの1人が牧田信弘プロダクトマネージャーだ。普段はモバイル向けGoogleマップを担当しているが、地震後はすぐに米国オフィスと連絡を取った同僚とともに、人の消息情報を登録・検索できる「Person Finder」の準備に取り掛かった。

Person Finderは、昨年1月のハイチ地震の際にGoogleが公開したシステム。昨年2月のチリ地震や今年2月のニュージーランド地震でも利用されている。牧田さんらはPerson Finderのユーザインタフェースを日本語化し、地震から2時間足らずで公開した。

被災地からも手軽にアクセスできるよう、すぐに携帯電話版の開発にも着手。その日のうちにリリースした。口頭で伝えやすいよう、Person Finderの短縮URL「http://goo.gl/sagas」も準備したほか、災害情報をまとめた特設ページも用意した。

牧田さんらはオフィスに泊まりこみ、睡眠もほとんどとらず、開発を続けていた。「いかに早く(サービスを)立ち上げるか」に注力。「1分1秒でも惜しい」と、オフィスで10メートルほどの距離を移動するにも小走りだった。「直接話したほうが早い」と、打ち合わせはチャットを使わず、顔を見ながら進めた。「ベース(基地)だった」というこたつ机には、栄養ドリンク剤「リポビタンD」の山ができた。

●海外オフィスのスタッフも協力 丸い地球でバトン渡して

その後もGoogleは震災対応のサービスを立て続けに公開していく。計画停電情報をまとめたGoogle マップ、翻訳アプリ「Google Translate」の日本語向け機能強化など、2週間のうちに30件ほどリリース&アップデートした。

本田技研工業からデータ提供を受けて始めた「自動車・通行実績情報マップ」や、TBSやテレビ朝日などが撮影した被災者からのメッセージ動画を集めたYouTubeの特設チャンネルのように、他社との連携も積極的に進めた。

震災関連のプロジェクトリストを作って社内で公開すると、手の空いている技術者がすかさず協力を申し出る――そんな状況だったという。米国やオーストラリア、韓国などGoogleの海外オフィスのスタッフも開発に加わっていった。

日本のスタッフが寝ている間に海外のスタッフが代わりに開発し、朝起きたら完成している――というケースもあった。「Googleはグローバル企業なので、時差のあるところに誰かがいてサポートできる。丸い地球でバトンを渡しながら開発が進んでいた」。

●Googleがボランティア募集、5000人協力

3月14日に公開した避難所名簿共有サービスは、技術者ではないスタッフの発案だった。Google日本Blogは「未曾有の大地震と津波の被害に遭われた皆さまのために私たちができることができないか、ずっと考えています。その中で、ひとつのアイデアを実行に移すことにしました」と紹介した。

避難所名簿を写真に撮ってメールで送ると、自動でPicasaウェブアルバムにアップロードし、全体公開する仕組み。さらにGoogleの約200人のスタッフが手作業で写真の情報をテキストに起こし、Person Finderに入力していった。走り書きのメモなど不鮮明な写真も多い中、間違いは許されない根気のいる作業。「みんな血眼になっていた」。

投稿写真が増えるにつれ、Person Finderへの入力作業が追いつかなくなったため、ユーザーにも協力を呼びかけた。集まったボランティアは5000人。入力作業の手順をまとめたWikiページを自発的に作ったユーザーもいた。

PicasaからPerson Finderへ登録した情報は3月29日時点で14万件にのぼった。Person Finderには警察やマスメディアが提供した情報も加わり、現在は60万件以上が登録されている。「Person Finderのおかげで親戚の無事が分かった」と、感謝を伝えるはがきもGoogleに届いた。ネットなどで見かける「ありがとうGoogle」という言葉を励みにしていたと、牧田さんは語る。

震災後、必要とされる情報は日々変化している。Googleが提供するサービスの中心も、Person Finderなどの安否情報から、今後は生活情報へシフトしていく予定だ。「インターネットにアクセス不可能な地域の方に、どのように情報をお届けできるかについては、引き続き模索していく」――Google日本ブログにはこんな宣言も載っている。

現在、Google日本法人のスタッフは以前と変わらず主に東京のオフィスで仕事を続けている。一部の社員は震災後、普段の業務そっちのけで、震災関連のサービス運営にあたってきた。「20%ルールどころか100%フル稼働」と明かす。

「我々のミッションは、情報を整理していかに早く見やすく届けるかということに尽きる。散らばった情報を1つにするのはわれわれにしかできない。疲れていても元気です」と牧田さん。Googleの挑戦は続いている。【宮本真希,ITmedia】


第一次ボランティア at 本吉 補足

By , 2011年4月9日 10:50 AM

4月 7日のブログで、本吉に行ってきた話を書きました。補足として、現地の状況を項目別に記しておきたいと思います。

-生活編-
<交通>
仙台から本吉までの道は特に問題なく走行できました (約 2~3時間)。また、本吉から気仙沼までの道も、一部片側通行でしたが、ほぼ問題なく走行出来ました。3月 30日頃には本吉~気仙沼の道は、徐々に交通量が増えていました。
一方、気仙沼線の復旧の見通しは不明でした。線路はあらぬ位置に流され、元々線路のあった場所は更地になっていました。また、線路が残っている部分でも、レールが途中でちぎれてジェットコースターみたいに巻きあがったりしていました。

<ガソリン>
本吉~気仙沼の間のガソリンスタンドでは多少並べば給油可能でした。東北自動車道は、SAによってはほとんど並ばずに給油可能でした。

<宿泊>
本吉郡の清涼院に 20名ほどの被災者とともに泊まりました。1階の 1室を診療所にして、そこにスタッフ数名雑魚寝でした。畳に絨毯を敷いてその上に寝袋を置き、上に毛布を被せました。寒い日は耳が痛くて目覚めましたが、温かくなってきてからは問題ありませんでした。

<ライフライン>
3月 30日の時点で、電気、ガス、水道はいずれもありませんでした。電気は 18~21時に自家発電、水は自衛隊が 1トンの水を一日に 2回持ってきました。車で 10分くらいの仙扇寺には、電気が復旧してきているようでした。

<食事>
1日に 3度、被災者達が薪と竈を使って炊き出しをしていました。米と味噌汁とおかず一品のメニューのことが多かったです。従って保存食はほとんど食べませんでした。ただ、昼食がカップラーメンとおにぎりといった日がありました。

<通信>
清涼院ではドコモがかろうじて入りました。ソフトバンク、auは入りませんでした。仙扇寺周辺ではソフトバンクが入るようでした。

<風呂>
避難していた被災者達は、ドラム缶に湯を沸かせて入っていました(スタッフは遠慮して入らず)。

<余震>
1日に 1~2回震度 3~4くらいの余震がありました。震源地が近いためか、下から突き上げるような感覚の、持続時間の短い地震でした。
-医療編-
<周囲との連携>
気仙沼市にある「すこやか」という施設で、毎日朝と夕にミーティングが開かれ、どの避難所にどの隊が行くかなど割り振りを決めると共に、情報の交換を行っていました。我々が行った地域は、徳洲会、江別市民病院、ジャパンハートを中心に割り振っていました。割り振りは上手くいっていて、混乱はなかったように思います。

<医薬品>
ジャパンハートとしては、東京→仙台支部→スタッフが滞在する避難所に医薬品を届けていました。不足する物資があった場合、連絡すればだいたい 1~2日で届きました。
その他、上記「すこやか」に支援物資がたくさん積んであり、自由に持って帰ることが出来ました。「オーグメンチン」「ビオフェルミン」など助かりました。
一方、古釘を踏み抜いた患者さんなどへの破傷風予防の物資は当初ありませんでした。「トキソイド」は取り寄せて何とか入手しましたが、トキソイド、テタノブリンなどをもっと流通させても良いのかもしれません。ただ、テタノブリンは保存が 10℃以下の上、凍結禁ですので、電気のない地域では管理が難しいかもしれません。

<診療>
清涼院には 1日 20人くらい訪れました。自由に入って貰って、入ってきたらそのまま診察していました。その他、周辺避難所に介入して診療可能の旨を伝えると、一カ所につき 20人くらいを診療することになりました。最も多かったのが高血圧で、普段 sBP160 mmHgくらいの方で 180~200 mmHg前後となっているのが一般的で、BP 250/110 mmHgという方もいました。血圧が普段通りという方はあまりいませんでした。
次に多かったのが花粉症でした。幸い内服や点眼用の抗ヒスタミン薬は豊富にありました。
意外とみかけたのが凍瘡(しもやけ)です。寒いのに湯がない環境で水仕事をしていたからでしょう。ビタミンE製剤は入手が困難でした。
その他、口唇ヘルペスが 2名ほどいました。免疫力低下によるものでしょうか。
他の避難所ではそれほどでもなかったのですが、仙扇寺では狭いスペースに 200名の避難者がおり、至る所で咳の音が聞こえました。発熱患者数名インフルエンザ検査を行いましたが全員陰性でした。
-その他-
<避難所の構成>
寺や学校といった一次避難所の他に、二次避難所がいくつもあり、高台の大きな家などがその役割を果たしていました。あまり把握されていない二次避難所については、今後介入して健康状態をチェックする必要があると感じました。
我々が泊まっていた清涼寺は避難所としては 20名くらいの小さな規模でしたが、物資の分配の拠点になっていて、200~300名が物資を受け取りに現れていました。避難所をなくすとき、物資の流通ルートにも留意する必要があるかもしれません。

<精神面>
避難所によって異なるとは聞いていますが、我々が訪れた避難所はいずれも整然としており、人間関係はスムーズでした。精神面での訴えを主訴として受診した方は一人もいなくて、不安で動悸がするという方が一人いただけでした。
でも、往診で食事を頂いた際などに、「炊き出しとかの手伝いでずっと避難所にいるから、家の片づけが出来なくて地震のときのままなんですよ」「一人になると寂しいからもう少し避難所にいようと思います」「命があっただけでとはいうけれど、それでもねぇ・・・」「私たちは皆さんに助けて貰って生きられているのだから。今日着ている下着ですら貰ったものだから」などの本音がポロッ聞かれました。まだ感覚が麻痺していて、これから問題になってくるのかもしれません。

<周辺の病院>
本吉病院など周辺の病院は再開していました。しかし、車が流されているなど交通手段がない方も多く、通院出来るまでもう少し避難所の医療を支援する必要はありそうです。

<避難所から施設への橋渡し>
病気のため避難所から帰宅困難な方々をピックアップする計画が始まりました。寝たきりや廃用症候群の方の情報を記録した紙を気仙沼のボランティアセンターに集め、今後の方針を検討するものです。もう少ししたら具体的な話が出てくると思います。

<周辺の今後の医療ニーズ>
規模はいずれ縮小していくことになりますが、通院が困難な方や、病院から目が届かない避難所の方へのニーズはまだありそうです。周辺の「大島」で医師が不足しているとの声が聞かれましたが、マンパワー的にまだ介入できませんでした。もう少しして余裕が出たら介入していけるかもしれません。その際交通手段の確保が必要です。

<マスコミ>
毎日放送の方が取材で一緒でした。「何か手伝えることはありますか?」と非常に好印象でした。私は慣れない外傷処置をしていたのを撮られ、放送は勘弁して欲しいと内心思っています。


第一次ボランティア at 本吉

By , 2011年4月7日 7:53 AM

3月 27~30日、ボランティアで宮城県に行ってきました。

3月 26日に methyl先生から電話があって、準備のことを聞かれたのですが、あまりに私が服装に無関心だったので、「凍死しますよ?」と心配していました。私は元々着るものに全く関心がなく、十年くらい前に実家から届いた Yシャツをずっと着続けている感じで、服の名前を聞いても全然わかりません。結局、methyl先生が買い出しを手伝ってくれることになりました。

3月 27日昼頃から、新宿で買い出しをしました。がれきの上を歩いても大丈夫な靴、暖かい服とズボン、寝袋、寝袋の下に敷くシート、電池などを購入したら、結構な金額になりました (多分、景気対策にはなった筈)。

そこから荷造りをして 23時にジャパンハート本部に到着。入会手続きだとか色々事務手続きがあってから、出発となりました (この時にジャパンハートのジャンパーを支給されたので、直前に買ったジャンパーが無駄になってしまいました orz)。自動車は 2台で、ドライバー 3名 (交代要員あり)、医師 1名、看護師5名でした。私は助手席で眠ろうとしていたのですが、後部座席の看護師 2人のテンションがとても高く、炸裂したトークが聞こえて来ました。

車は時々高速道路で 2000円の上限ずつ給油をしながら仙台に向かいました。安達太良周辺で高速道路に設置された寒暖計を見ると、”-5℃”を示していました。

3月 28日午前 6時頃、仙台支部に到着。仙台支部は倉庫に机を置いた作りで、医薬品や物資などが積み上げられていました。そこで打ち合わせを色々してから、運転手 1名、看護師 1名とともに本吉に向かうことになりました。途中の道路では、ガソリンスタンドの前に数 kmの列があった以外は変わった景色はありませんでしたが、本吉が近づくにつれて葬儀の案内の看板が多くなりました。そして、海まで少し距離があるのに、川沿いが瓦礫の山になっていました。


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本吉では「清涼院」というお寺が避難所となっていて、そこを基点に活動することになりました。寺の一室が診察室になっていて、到着するなり患者さんが何人か入ってきたので診察しました。カルテはなくて、A4のコピー用紙に日付を書いて、1枚に 10人ずつくらい診察の情報を書き込みました。処方箋はなく、封筒に薬の種類と飲み方を書いた後、手持ちの薬を入れて直接渡していました。

その日は避難所 2カ所で診察をしました。最初の避難所は、民家に多くの人が集まって炊き出しをしていて、それをごちそうになって、縁側のところで診察をしました。20人くらい診察しましたが、多くは高血圧と花粉症でした。

一旦清涼院に戻った後、別の民家に移動。20人くらい診察しました。こちらも高血圧の方がメインでした。診察後、夕食の炊き出しをしていたので頂きました。米は豊富にあり、野菜も近くでとれた新鮮なもので、おいしかったです。食事をしてから、往診を頼まれた民家に行きました。足が弱って歩けない老夫婦と息子さんがいらっしゃって、蝋燭の炎で診察しました。江戸時代の診察風景のようでしたが、さすがに暗すぎて診察にならず、懐中電灯で照らしながらの診察でした。

往診が終わって清涼院に戻ると、自家発電がされていました。我々が居た地区は、電気、ガス、水道のライフラインが一つも通っていなくて、電気は夕方~21時自家発電、ガスはないので火は薪と竈を使用、水道は自衛隊が 1日1トンの水を 2回運んできていました。診察室に寝袋を用意して潜って就寝。寒さで耳が痛くて何度か目覚めました。

29日朝、気仙沼の会議に出掛けました。向かう途中の道路から見える風景は、テレビで見たのと同じで、海沿いは更地になった中に船が転がっており、少し山側では家が転倒して逆さに立っていたりしました。

気仙沼では「すこやか」という施設がボランティアセンターになっていて、朝と夕方に会議が行われているのです。そこで情報を共有することになっていました。この会議で避難所とそこを管轄する医療スタッフの分担がなされ、機能していました。会議室の後ろには医薬品が山積みになっていて、持って帰って良いことになっていました。「オーグメンチン」や「ヒルドイド軟膏」などをいくつか持って帰りました。

戻ると、テレビ局の取材が来ており、診察風景を録画されましたが、全くの専門外の外科処置をしているところを撮られてしまい、カットされることを強く願いました (もし放送されたら赤面ものだ・・・)。

基本的にこの日は清涼院に仮設された診療所に来た方の診察だけをしたのですが、往診依頼が数件あり、出掛けました。我々の車が出払っていて困っていたら、被災者の方が快く車を出してくださり、出掛けることが出来ました。仙扇寺には多くの被災者が避難しており、1人を診察すると次々に診察希望者が現れ、気が付くと 7人くらい診察していました。ここでは風邪が流行っていました。

この日から少し暖かくなり、凍えることなく眠れました。

翌 30日、交代する医師に申し送りをしました。この日は私はどこにも出掛けず、診療所に訪れた方だけを診察しました。昼頃出発し、仙台に寄ってから帰京しました。仙台からの帰りの車は、ジャパンハートの代表と隣の席でした。東京の事務所に着いたのは 22時頃でした。現地の情報を共有するために伝えてから帰宅しました。帰宅したときは疲労感は全然ありませんでしたが、数日してからどっと疲れました。


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