豊倉康夫

By , 2011年7月21日 11:02 PM

Brain Medical 2011年 3月号の連載「日本の脳研究者たち」に、豊倉康夫先生のことが書かれていました。非常に面白い論文だったので一部紹介しますが、是非原著を読んで頂きたいです。

「豊倉康夫 1923-2003 (岩田誠著, Brain Medical Vol. 23 No.1 2011)」

豊倉先生は親の反対を押し切って東京帝國大學医学部に進んだのですが、九州から上京するとき、1000語ほどのドイツ語単語カードを用意し、覚える毎に汽車の窓から捨てていったといいます。「関門トンネルの中にも、須磨の海岸にも、大阪の街の雑踏の中にも、水車小屋の上にも、白い紙片は少しづつ散って行った。最後のカードは大井川の鉄橋を渡る頃、投げた。それは河の流れに消え、汽車は轟々と音を立てて東京へ急いだ。その先は覚えていない。私は深い眠りに落ちた」

卒業後、豊倉先生は沖中重雄第三内科教授に弟子入りし、沖中内科の第一期生の一人となりました。そして、1964年東京大学神経内科の初代教授に選ばれました。豊倉先生は 41歳で引き受けることに悩み、同級生の萬年甫先生に相談した逸話が残っています。

ちなみに、東京大学神経内科は 1894年に衆議院議員長谷川泰氏による趣意書が出され、かの Charcotの弟子である三浦謹之助を教授として設立する動きがあったものの、その時は実現しなかったのです。

豊倉先生の功績は筋萎縮性側索硬化症 (ALS) の陰性徴候を見出したとか、「神経内科」誌を創刊したとか、SMONを命名し原因を解明したとか、Babinski徴候についての研究成果纏めてを歴史的に残る講演として発表したとか、Parkinsonが Parkinson病を報告した原著を翻訳して出版したとか、枚挙に暇はありません。また、古典的な原典論文を収集し、論文にリストに載せた話はこのブログでも以前触れました。教育者としても優れ、豊倉先生の元からは、30名以上の内科教授、他科を含めると 40名以上の教授が誕生したといいます。

こうした優れた医師の功績を後進の医師達は忘れる訳にはいきませんね。そういった意味でも、この論文は優れた価値があると思います。

最後に、自分の備忘録として、気に入ったいくつかの箇所を引用しておきます。

・豊倉は臨床の場における観察の重要性について「臨床の場では、同じ性質の現象が繰り返し現れてくるが、それを見逃さないように」と教え、さらに次のように付け加えた。「一度見たことにあまり意味をつけるな。ただ良く覚えておけ。二度見たら何かあると思え。それは残念ながら、大体 99.9%は本に書いてあることが多いが、稀には誰も気付いていないこともある!三度見たら只事ではない。それは、常に何物かである!」

・豊倉はラテン語を能くし、しばしばラテン語の成句を引いて、弟子たちを導いたが、臨床観察の重要性についてよく引用したのは、veritas nunquam latet (真理は決して隠れはしない) という言葉であった。豊倉は、恩師沖中重雄が書いた、「書かれた医学は過去のものである。目前に悩む患者の中に明日の医学の教科書の中身がある」をしばしば引用して臨床の大切さは繰り返し説き、沖中が「教科書がある」ではなく、「中身がある」と述べたことの重要性を指摘した。

・1956年の夏、急性扁桃炎で熱を出した豊倉は、ペニシリンの注射を受けた直後、ペニシリンショックのため人事不省に陥ったが、東京大学病院内の出来事であったため、迅速な処置と人工呼吸によって一命を取り留めた。この時の、ショックに陥ってから意識を失うまでの状況と、蘇生が成功して意識が戻り始めた時の状況を、豊倉は詳細に記載、分析し、意識回復期には、しばしば周囲の人からまだ意識が無いと思われていたのに、自らの意識が戻っていて言葉も理解できていることを伝えようにも全くそれができなかったことなど、実際の体験者でなければ解らないことを、明白に示したのである。この体験から、豊倉は、医師や看護師は、「昏睡状態で意識が無いと思われる患者に対しても、大きな声で励ましの声をかけ、手を握り締め、安心感を与えることがいかに大切か」ということを、覚えておかねばならないと繰り返し教えた。

・筆者に教室の主宰者としての心構えを示した。「教室員になにか優れたところ、いいところがあったら、直ちにそれをプラス評価しなさい。しかし、教室に何か欠けるところ、悪いところがあっても、直ぐにあれは駄目な人間だと思ってはいけない。マイナス評価するには 10年待ってからにしなさい」

・豊倉の人柄をよく示すものは、彼が教室員に対して好んで語ったいくつかの言葉である。中でも豊倉が最も好んだ言葉、「百年後のために あせらず 背伸びせず」を自らの手で大書し、東京大学神経内科の医局に掲げた。彼の好んだもうひとつの言葉は、ラテン語の成句「non sibi sed omnibus (自らのためにではなく、すべての人々のために)」であったが、これこそは、豊倉の人生全体を貫いた大きな思想である。

・彼は、自らの死期の近いことを悟った 2003年の初め、自らの手で色紙に、「飲みたまえ 飲みたまえ、 われも飲みたし語りたし」と書き、自分亡き後にはこの色紙を掲げて皆で飲んでほしいと、妻に告げた。その言葉どおり、豊倉を偲んでその葬儀に集まった親族、友人、そして弟子たちは、その色紙の前で、在りし日の豊倉の思い出話に、時間の経つのも忘れるほど語りあった。

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