国内留学を終えて

By , 2012年11月4日 2:58 PM

10月31日をもって、2年間の国内留学を終えました。

基礎研究は全くの初心者の状態で国内留学し、当初は実験失敗の連続でした。一日一善という言葉はありますが、一日一つは大きな失敗をしでかし、皆様に大きな迷惑をかけました。私がしでかした失敗で、一冊本が書けます。

しかし、ラボに行って 1年くらいすると、徐々に実験がうまくいく事が増え始め、手を動かすことが楽しくなりました。国内留学を終える頃には、他の研究者達と同じくらいのペースでデータを生み出すことが出来ていたのではないかと思います。2年間でこれだけスキルアップしたので、もう少し時間があればもっと色々なことが出来たのかもしれませんが、臨床医としてのスキルを落とすわけにはいきませんので、戻るには丁度良い時期でしょう。

この 2年間、研究生活に身を置いてみて、過去に「D教授の言葉」という随筆で紹介した言葉の素晴らしさをますます感じました。現在読んでいる「ラモニ・カハール」という本の冒頭でも、萬年甫先生が「D教授の言葉」を引用していますね。

[増補] 神経学の源流 2 ラモニ・カハール (萬年甫編訳, 東京大学出版)

私が学生時代に読んで深い感銘を受けた文章のひとつに安騎東野氏の「D教授の言葉」がある。安騎東野という名が、柿本人麿が安騎野でよんだ「ひむがしの野にかげろひの立つ見えてかへり見すれば月かたぶきぬ」(万葉集巻I)をただちに連想させ、この歌が私のすきなものであったので、この人の随筆にも興味をもち、「欧州の雀」、「向日葵」、「歩行者」、「農村復興」と次々に発行される著書には必ず目を通していた。「D教授の言葉」は「向日葵」の中にある。

それは昭和 14年に書かれたもので、安騎氏がベルリンに 2年在留し、それを終えて帰国直前の主任教授の D氏と一夕を過ごした時の会話である。話題は日本人の独創力をめぐって進む。D教授はいう。「私は日本人の独創力を本質的には高く考えている。それだのに日本には、例外的の 2, 3の人達を除けば、明日の文化を約束するような面白い芽が生えてきていないようですね。この点について、私は君とよく考えてみたいのです。私はこの点について、日本のどこが悪いのかはもちろん知らない。だがもし君の御参考になるのならば、自分の科学に態度なりまたは研究室の指導なりについてお話ししましょう」と前おきして、「科学というものは常に現象から始めなければいけないと私は思うのです。もちろんそんなことを新しくいえば、君はあたり前だといって笑うかもしれない。しかし時にそれが笑いごとでない場合があるのです。というのは往々若い科学者は、自分の眼で見た現象と、文献で読んだ知識を混同するのです。しかし、もしある科学者が彼の文献で読んだ知識と、自分の眼で見た現象とを同等に評価するようになったらば、私はその科学者の生命はもうその時終わったものと考えるのです。科学者は常に現象の発見からはじめて行かなければならないと思う。それからすぐそれについて考えてみて、研究をすべきだと思うのです。私は決して科学者に文献を読むなというのではありません。ただ私だけの考えでは科学者の文献を読む時期が問題なのです。私はこの時期について常に 2つの種類を分けるのです。第 1の種類というのは文献を現象の発見の道具として扱うものです。もちろん自然現象というものは四六時中自分の身辺に始終起こっているのですから、気をつけてさえいれば、面白いものを発見できないはずはないのですが、もしそれにを発見できないような場合には、というよりも自分の気づかなかった現象に他人が気づいているかもしれないから、そういう現象の発見ということには、文献は必要であるのです。ただこの時一番注意しなければならぬことは、この場合できるだけその現象に対する他人の解釈は読まないことです。いい換えれば緒論や結論は読んではいけないのです。ただ実験の成績、変化現象だけを読むだけで、たくさんなのです。この場合文献は辞書と同じもので、いくら辞書をひいたといっても、すぐうまい文章が書けるというものではないのです。だから現象の発見ということがやはり主たる目的なのです。自分の興味ある現象すら発見していないのに文献を読むということは全くの無意味です。現象を見てすぐ文献に取り付いてもまだ早いのです。その現象について考え、研究がほぼ目鼻がついてからはじめて読むべきなのでしょう。いやその時期にこそはぜひ読まなければいけないのです。この時期が私のいう第 2の種類なのです。この時こそ前人がそれについてどう考えていたかもある程度までは読むべきで、それによって自分の研究が科学全体でどの位置にあるかということをはっきりさせる必要があるのです。」東野氏は以上のことを認めながら、しかし現象についてある程度まで自分だけで研究してしまって文献を探して見たら、そんなことはもう前人が詳しくやってあったというようなことはないだろうかと質問する。それに対する答は明快である。「決して!もし 1人の人が本気で自分自身の考え方で研究していったとするならば、それらの仕事は各人各様の特質をもってくるはずです。私はこの指紋のような仕事を尊敬します。また将来の科学こそは、現在のこの指紋のような仕事によってのみ進められるのだと確信しています。もし他人の仕事と全く同じになるという危険を云々するならばそれはむしろ文献ばかり読んでいる人の仕事にだけそれがあると考えなければならないのだと私は信じるのです。・・・研究者それ自身は本質的に独創力のある人であったにしても、その人があまり文献を読みすぎたという態度の誤りで、その人の研究には時として一生芽をふかない場合もあるのです・・・。」

以来、私はこの文章をことあるごとに思い出した。しかし、学生時代にはそれは活字の世界のことであり、あくまで二次元のものとしてしか受取れなかった。それが昭和 24年医学部を卒業して東大脳研究所に入り、小川鼎三先生のもとで研究生活をはじめて見ると、この言葉、ことに「まず現象から」、「文献を読む時期」、「指紋を押したような仕事」の 3つが三次元、四次元のものとして実感できるようになった。そしてこれに共感するからには、是非実行してみようと心がけた。

さて、私は 11月から大学病院に復帰する訳ですが、現象をみることの重要性というのは、臨床においても同じだと思います。そういう意識を持って、臨床現場に臨みたいと思います。

そして 11月 2日にかつて机を並べて実験した同僚から嬉しい連絡をもらいました。医学部編入試験を受け、見事合格したそうです。私を反面教師にして頑張って欲しいです。

最後になりますが、ご指導頂いた方々、本当にお世話になりました。ありがとうございました。

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