シュルレアリスム宣言

By , 2013年9月21日 9:25 PM

シュルレアリスム宣言・溶ける魚 (アンドレ・ブルトン著、巌谷國士訳、岩波文庫)」という本の中から、シュルレアリスム宣言を読み終えました。日常会話で「シュールだなぁ・・・」という表現をすることがありますが、その元になったのがシュルレアリスムという言葉のようです。

以前、岩田誠先生と現代音楽について話をしていたときに、その場にいた “はりやこいしかわ先生” が、「音楽にシュルレアリスムはないんですか?」と尋ねて、岩田先生が「それはないんだよ。なぜなら音楽にはレアルがないから。シュルレアリスムっていうのは、レアルに対するシュルなんだよ」なんて答えてらっしゃって、何も知らなかったシュルレアリスムを少し勉強してみようと思ったのがこの本を読んだ動機です。

そもそもシュルレアリスムとは何なのか、それを定義した部分を抜粋します。

「シュルレアリスム宣言・溶ける魚 (アンドレ・ブルトン著、巌谷國士訳、岩波文庫)」 46~48ページ

そこで、いまこそきっぱりと、私はこの言葉を定義しておく。

シュルレアリスム。男性名詞。心の純粋な自動現象 (オートマティスム) であり、それにもとづいて口述、記述、その他あらゆる方法を用いつつ、思考の実際上の働きを表現しようとくわだてる。理性によって行使されるどんな統制もなく、美学上ないし道徳上のどんな気づかいからもはなれた思考の書きとり。

百科事典。(哲)。シュルレアリスムは、それまでおろそかにされてきたある種の連想形式のすぐれた現実性や、夢の全能や、思考の無私無欲な活動などへの信頼に基礎をおく。他のあらゆる心のメカニズムを決定的に破産させ、人生の諸問題の解決においてそれらにとってかわることをめざす。絶対的シュルレアリスムを行為にあらわしてきたのは、アラゴン、バロン、ボワファール、ブルトン、カリーヴ、クルヴェル、デルテイユ、デスノス、エリュアール、ジェラール、ランブール、マルキーヌ、モリーズ、ナヴィル、ノル、ペレ、ピコン、スーポー、ヴィトラックの諸氏である。

現在までのところ、以上の面々だけであって、十分なデータのないイジドール・デュカスの例をのぞけば、まずまちがうようなことはないだろう。そしてもちろん、それぞれの効果を表面的に見るだけならば、ダンテや、全盛期のシェイクスピアをはじめとして、かなりの数の詩人たちがシュルレアリストとみなされうるだろう。私は、背任の結果として天才とよばれているものを格下げするために、これまでさまざまな試みにふけってきたものだが、その間になにひとつとして、シュルレアリスム以外のプロセスに帰着しうるものを見出せなかったのである。

ヤングの「夜想」ははじめからおわりまでシュルレアリスム的であるが、あいにく語り手は牧師である。おそらくわるい牧師ではあろうが、とにかく牧師である。

スウィフトは悪意においてシュルレアリストである。

サドはサディスムにおいてシュルレアリストである。

シャトーブリヤンは、エグゾティスムにおいてシュルレアリストである。

コンスタンは政治においてシュルレアリストである。

ユゴーは馬鹿でないときはシュルレアリストである。

デボルド-ヴァルモールは愛においてシュルレアリストである。

ベルトランは過去においてシュルレアリストである。

ラップは死においてシュルレアリストである。

ポーは冒険においてシュルレアリストである。

ボードレールは道徳においてシュルレアリストである。

ランボーは人生の実践その他においてシュルレアリストである。

マラルメは打明け話においてシュルレアリストである。

ジャリはアプサント酒においてシュルレアリストである。

ヌーヴォーは接吻においてシュルレアリストである。

サン-ポー-ルーは象徴においてシュルレアリストである。

ファルグは雰囲気においてシュルレアリストである。

ヴァシェは私のなかでシュルレアリストである。

ルヴェルディは自宅にいるときにシュルレアリストである。

サン-ジョン・ペレスは距離をおいてシュルレアリストである。

ルーセルは逸話においてシュルレアリストである。

等々。

このように、連想、夢、無意識に重きを置いた姿勢は、フロイトなどの精神分析を思い起こさせますが、何とブルトンは精神医学や神経学を学んだことがあり、精神分析で有名なフロイト、神経学の歴史的偉人バビンスキーと交流がありました。シャルコー、クレペリン、フロイトなどの著書を夢中になって読んでいた時期があると言います。

シュルレアリスム宣言にも、フロイトやバビンスキーが登場します。その部分を抜粋します。まずはフロイトから。

「シュルレアリスム宣言・溶ける魚 (アンドレ・ブルトン著、巌谷國士訳、岩波文庫)」 19ページ

文明という体裁のもとに、進歩という口実のもとに、当否はともかく迷信だとか妄想だとかきめつけることのできるものはすべて精神から追いはらわれ、作法にあわない真理の探求方法はすべて禁じられるにいたったのだ。最近になって、知的世界の一部分が明るみに出されたことは、表面上は、いかにも大きな偶然のしわざである。だが、私の見るところ、これこそはとびぬけて重要でありながら、もはや気にもとめないふりをされていた部分なのである。これについてはフロイトの諸発見に感謝しなければならない。その諸発見をよりどころにして、ついにひとつの思潮がうかびあがり、そのおかげで人間探索者は、もはや皮相の現実ばかりを重んじなくてもいいのだという保証を得て、その調査をさらに大きく前進させることができるはずである。想像力はおそらく、いまこそ、みずからの権利をとりもどそうとしている。

「シュルレアリスム宣言・溶ける魚 (アンドレ・ブルトン著、巌谷國士訳、岩波文庫)」 2o~21ページ

フロイトが夢に批評をむけたのは、しごく当然のことである。じっさい、心の活動のうちのこの無視できない部分が (なぜなら人間の誕生から死までのあいだ、思考はなんら断絶を示さないものであり、時間の見地からして、夢みている時の総計は、たとえば純粋な夢、睡眠中の夢だけしか考慮に入れないにしても、現実の時、これも限定していえば覚醒中の時の総計とくらべて、短いわけではないからである)、まだこれほどわずかしか注目をひいていないというのは、うけいれがたいことである。

「シュルレアリスム宣言・溶ける魚 (アンドレ・ブルトン著、巌谷國士訳、岩波文庫)」 40ページ

そのころ私はまだフロイトに没頭していたし、彼の診断方法に親しみ、戦争中にはそれを患者たちに適用してみる機会もすこしばかりあったので、そこでは患者から得ることをもとめられているものを、つまり、できるだけ早口で語られる独り言を、自分自身から得ようと決意したのだった。すなわち、被検者の批判的精神がそれにどんな判断もくだすことがなく、したがってどんな故意の言いおとしにもさまたげられることがない、しかも、できるだけ正確に語られた思考になっているような独り言をである。思考の速度は言葉の速度にまさるものではなく、思考はかならず舌を、それどころか走り書きのペンをすらよせつけないものではない-あの筒切りにされた男という文句のおとずれた次第がそのことを証明していたが-と私には思えたし、いまもそう思えるのだ。

さて、バビンスキーの方はというと、実名は登場しませんが、該当部分を読むと、バビンスキーであることは一目瞭然です。

「シュルレアリスム宣言・溶ける魚 (アンドレ・ブルトン著、巌谷國士訳、岩波文庫)」 83ページ

科学者の方法についていえば、私はそれを私の方法とおなじ価値のあるものとみなす。私はかつて足のうらの皮膚の反射作用の発見者が仕事をしているところを見た。彼はやすみなく被験物をいじくっていたが、やっているのは「診察」とはまったくべつのことで、彼がもはやどんなプランもあてにしていないことは明らかだった。ときどき、長い間をおいて所見をしたためるのだが、だからといってピンをおくわけではなく、他方、彼の小槌はあいかわらずすばやく動きつづけていた。患者の治療はというと、そんなくだらない仕事はほかの者にまかせていた。彼はその聖なる情熱にすべてをそそいでいたのである。

医学を学び、フロイト、バビンスキーと同時代にその影響を受けた人物が、芸術に一つの潮流を創りだしたというのは、面白いことですね。精神疾患患者であったLeona Delcourtとの交際をテーマにした「ナジャ」は時間を見つけて是非読みたいです。タイトルに惹かれて、ブルトンの著作「性に関する探求」をアマゾンでポチってしまったのはここだけの秘密です (^^;

Post to Twitter


Panorama Theme by Themocracy