ジェノヴァ旅行(2007年9月15日〜9月26日)

ベルリン第3日目

 朝、寒くて目が覚めた。調べてみると窓が開いていた。昨日の朝閉めた筈なのだが、昼に掃除をした人が開けっ放しにしていたらしい。そういえば、明け方やけに騒音がうるさかったが、そのためだ。

テレビ塔

 気を取り直して、身支度をする。ベルリン到着3日目にして、いよいよベルリン観光だ。

 まずは、ホテルのあるGesundbrunnen駅からFriedrichstrasse駅まで電車で移動し、そこから徒歩でテレビ塔に移動だ。Friedrichstrasse駅から東に川沿いに歩くと、最初の橋からテレビ塔ははっきり見える。ところが、歩けども、歩けどもなかなか距離が縮まらない。やっと着くと、入り口は駅とは反対側だ。ぐるりと一周しないといけない。

 塔の高さは365m。展望台は203mの高さにあるが、周りに高い建物がないため、非常に景色が良い。歩いてきた方角を見ると、遠くに旧市街が見えた。そのままぐるりと反対側に向かって歩き、一周する。遮るもののなく、街を一望出来た。どれがどの建物なのか案内があるが、なかなか難しい。

 塔を降りて、来た道を途中まで戻る。ウンター・リンデン通りを西に歩くと、右手に歴史博物館が見えた。

歴史博物館

 歴史博物館は、展示物の量と質ともに圧巻だった。中はかなり広い。ここでは入館に際して小さなシールを買い、それを胸に貼って入場の許可とするのだ。まず、土器がたくさん展示してあった。日本で見た土器とあまり変わらないように感じた。現代でこそ陶芸にとてつもない値がつくものがあるが、当時の土器にも出来映えによって価値の違いはあったのだろうか。それとも純粋に実用的なものだったのか。

 それから様々な武器が展示してあり、徐々に時代が進む。刀や鎧を見るうちに、日本の文化との違いを感じた。鎧を付けた騎士と馬の等身大模型が展示してあったが、どこにも死角がなさそうで、こんなのに襲われたらひとたまりもないだろう。唯一の弱点は、仮面が完璧すぎて前が見にくいくらいではないだろうか。

 それから貴族文化などの展示物があった。展示された武器も徐々に変遷していく。一つは銃の開発だ。構えられた大きな剣は銃に取って代わり、もう少し小振りの剣が腰につるされていた。

レントゲン

 医学に関するものとしては、中世の手術器具、四肢の切断術の模式図の展示があった。また、コッホの論文や、昔の顕微鏡、フレームや台が木で出来た昔のレントゲン装置などが展示されていた。

 音楽関係の展示もあり、興味深かったのが、カルテットを楽しむための机。四角い机のそれぞれの辺に譜面台が付いているのだ。将来こうした机をオーダーメイドで作ってみたいと思った。

 そうした展示を順次見ていくうちに、ナチスのコーナーに着いた。ナチス関係の旗、ポスター、軍服、ヘルメットなどが所狭しと展示されている。見終わって階段を降りると、さらに現代のコーナーがあった。かなり広い空間だが、最後まで見ていくと、ベルリンの壁にたどり着いた。平和を願う旗や、当時のムービーなどを見ていると、壁の崩壊が如何に画期的な事件であったかがわかった。当時の私には、それを肌で感じる術はなかったのだけれども。

 全て見終わってから、Museum shopで「医学史関係の本はありませんか?」と聞くと、「武器とか、そういうのばっかりだよ」と言われたので、ここでは何も買わず、次に向かうこととした。

国立オペラ座

 歴史博物館の向かいが、国立オペラ座である。ベルリンで最も格式高いオペラハウスらしい。ドイツ語で国立オペラ座は「Staatsoper(シュターツ・オーパー)」という。ウィーンの国立オペラ座も同じように「Staatsoper」と呼んでいたのを思い出した。オペラ座の外に、今日のコンサート情報が展示されていた。日本で予約しようとしても、チケットが手に入らなかったコンサートだ。ダメ元で、中のチケットセンターに並ぶ。すると、「Only one seat.」と、あっけなくチケットがとれた。14ユーロ。天にも舞い上がる気持ちとなった。

 オペラ座の近くにフリードリッヒ3世の銅像が建っていた。フリードリッヒ3世は、以前日記でも紹介したことがあるが、悲劇の患者だ。この悲劇はセカンドオピニオンの問題点を投げかける。

 オペラ座の裏の方に歩いていくと、フランス聖堂とドイツ聖堂に挟まれて、コンツェルトハウスがあった。壮大な建物だ。コンツェルトハウス裏のレストランで、昼食を摂ることとした。シュニッツェルを食べながら、ビールを啜る。自分の後ろの壁に小鳥がたくさんいて、絶え間なく飛んだり鳴いたり。まったりモードに入り、ビールをお代わりした。

 続いては、フンボルト大学だ。何体もフンボルトの銅像が展示されており、中庭に入ると、学生達がくつろいでいた。隣に建っているのが、国会図書館だ。

 そのままウンター・リンデン通りを西に歩くと、右手にフェラーリの店があり、フェラーリが2台展示されていた。ベルリンでフェラーリを1台もみたことはないけれど、採算がとれるのだろうか?

 次はショッピングだ。ドゥスマンというデパートに向かった。デパートの一角には楽譜屋があり、ショーウィンドーには、グリーグ特集と展示されていた。今年2007年はグリーグの没後100年にあたる。中に入り、グリーグに関する書籍、メン・コン(メンデルスゾーンのヴァイオリンコンチェルト)の伴奏CDなどを購入した。ファクシミリ・コーナーもあり、モーツァルトのカルテットのファクシミリが展示されていた。見ると、昔私が演奏した弦楽四重奏曲KV168。この曲は、モーツァルトの17歳の時の作品なのだが、私が演奏したのは丁度日本で「キレやすい17歳」が社会問題化していた頃。情緒不安定な17歳をテーマに演奏して、それなりに実験効果があったのを思い出した。その他、ブラームス「FANTASIEN FUR KLAVIER OPUS 116」の自筆譜ファクシミリと合わせて購入した。ブラームスは近代外科学の父ビルロートの親友だ。睡眠時無呼吸症候群だったことも、後世では広く知られているが、余談だ。

 続いて向かったドゥスマンの本館は、1階が大きなCD屋になっており、そこでベートーヴェンのヴァイオリンコンチェルトのCDを数枚購入した。日本では普段CD屋に置いていないソリストのものもあり、こういうのは買えるときに買っておかないと、いずれ手に入らなくなる。大半は外れだが、時に掘り出し物がある。ベートーヴェンの80枚組のCDで、私が持っていない版があったため、店員に「買ったら日本まで送ってくれるか?」と聞いたら、無理だと言われた。ネット販売もしていないとのこと。レーベルだけ控えて、日本で探すことにした。

 上の階には医学書コーナーもあり、ヴェサリウスが書いた「アナトミア」のドイツ語版を売っていた。重いのを覚悟で購入。ここまで買ってきた本だけでとんでもない重さになっていた。でも仕方がない。ガイドブックに日本語対応のインターネットカフェがあると書いてあったので、店員に聞いたが、「ない」と言われてしまった。コンサートのチケットを取れた喜びを、自分のサイトに書き込もうかと思ったのだが、残念。デパートを出たところで「gypsy swing」というCDを売っていて、それも購入した。

コッホ博物館

 ドゥスマンを出た後は、Drotheen通りを西に向かい、森鴎外記念館を目指した。Luisenstrasse(ルイーゼ通り)を右折してまっすぐ歩けば付く予定だった。しかし、その交差点近くの建物で、コッホの銘板を発見。入り口には、「INSTITUT FUR MIKROBIOLOGIE U. HYGIENE」と書いてあり、ドアの上には「Robert-Koch-Forum」とあった。どうやら微生物研究所っぽいことはわかったが、Forumとも書いてあるので、全く入っていけないわけではなさそうだ。ドアを開けると簡単に開いたので、中をのぞいてみることにした。正面に、「ROBERT KOCH SAAL」と書いてあり、ドアの両側に、さまざまな臓器の標本が展示してあった。その講堂には入らず、廊下を少し進むと、「Museum」と書いた部屋があった。「ビンゴ!」と思ってノックしたが人の気配がない。そこへ、一人の男性が階段を降りてきた。観光客であること、日本の医師であること、Museumを見学したい旨を伝えると、「閉館なのだけど・・・。ちょっと待って、教授に聞いてみるから。多分大丈夫だと思う・・・。」と付いてくるように言われた。

 着いたのは教授室。「おぃ、いきなり教授室かよ!」とも思ったが、簡単な会話の後、教授の許可がおり、先ほどの男性が案内してくれることとなった。Museumと書かれた部屋にはいると、コッホゆかりのものが数々展示されていた。そこで、男性が解説を始めた。「コッホは勉強が苦手だった」と言い始めたので、「Me too.」と相づちを打ったところ、さらりと流され、「でも、大きな研究成果を挙げた。」と続けた。特に結核の分野での研究が有名で、結核菌の標本のスケッチ、肺の標本などが展示されていた。「結核がわかるか?」と聞かれたので、「私はNeurologistで、結核性髄膜炎などを見ることがありますよ。」と答えた、その後、野口英世の話題になり、彼は「Hideyo Noguchi.」と何度か繰り返した。男性が力説していたのは、染色の重要性と、エールリッヒの仕事だった。部屋の中央には覆いを被せたショーケースがあり、男性は「このMuseumで最も重要な展示物だ・・・。」と言いながら見せてくれた。それは、コッホがノーベル賞を受賞したときの賞状だった。見開きで、左の中央に大きく「Nobel」と書いてあった。賞状全体に、淡いスケッチが見られた。それから、熱帯地方での彼の研究が紹介された。最後のコーナーは、日本刀や扇子が展示してあり、「コッホは日本が好きだった」と聞かされた。そこにゲストブックがあったので、自分の名前、所属などをサインしておいた。男性は、「ここはベルリン大学の研究所の一つで、他に医学史博物館もあるから、行ってみると良いよ」と教えてくれた。

 再びDrotheen通りに出ると、コッホの銘板のすぐ近くに、生理学者EMILDUBOIS REYMONDの銘板もあった。最も、彼が生理学者であることは、日本に帰って調べて知ったのであるが。

 追記すると、彼についてはBopgraphy of Bois Reymond Emil duというサイトに、「Physiologist, the discoverer of neuroelectricity, born in Berlin, Germany. He became professor of physiology at Berlin in 1855, where he investigated the physiology of muscles and nerves, and demonstrated electricity in animals.」とある。1818〜96年を生きたらしい。勉強することは多い。

森鴎外記念館

 ルイーゼ通りに出ると、すぐにマーシャル橋にぶつかった。青い配管が特徴的な橋だ。それを越えて、鉄橋をくぐると、森鴎外記念館があった。見ると、誰かがインターホンを鳴らしている。ドイツ語での会話の後、鍵が開き、一行が入っていったので、私も付いて入った。

 先ほどインターホン越しに話していた男性と、館員のドイツ人女性が笑顔で話している。日本語だ。「やぁ、久しぶりだね。閉まっていたから会えないかと思ったよ。」そしてその男性は私に言った。「君はラッキーだったね。本当だったら閉まっていたのだから。」

 その一行共々見学した後、館員に尋ねた。「さっきコッホMuseumに行ってきたのですけど、医学史博物館があると聞いたのですが・・・。」

 すると、館員は「あぁ、あそこね。コッホMuseumは予約がないと入れない筈だけど、ラッキーだったわね。東の人間は優しいから、休日でもここもあそこも見学出来たけど、西の人間だとそうはいかないわよ。医学史博物館は、そこの窓から見えるシャリテ通りの突きあたりよ。そこは、昔ベルリン大学の大学病院だったところよ。今日は休みね。」と教えてくれた。よく考えてみれば、医学史で「シャリテ」というのは良く登場する名前だ。大学に併設された病院で、皆そこで臨床研修を積んだと、何かの本で読んだ。それにしても、東ドイツと西ドイツには、まだしこりがあると初めて知った。

 募金箱に少しの小銭を入れると、ブランデンブルグ門まで歩いた。さっき渡ってきた橋を戻り、まっすぐ歩いてウンターリンデン通りにぶつかったところが、ブランデンブルグ門だ。壮大な門をくぐり抜け、裏からみたら、裏は案外質素な作りだった。

bear

 今度はポツダム広場に向かって歩く。そうすると、左に庭一杯に熊のオブジェが並んでいた。たくさんの熊に思わず、スイスのチューリッヒを旅行した時のことを思い出した。それにしても、一列に整列した熊は、圧巻だ。その熊を左手に見ながら少し進むとポツダム広場に着いた。かなり歩き疲れたが、もう一息、ソニータワーを奥に抜けると、そこにベルリンフィルの本拠地があった。中を少し見学したが、コンサートのない時間のため、がらんとして人はまばらである。特に見るものも展示していない。時々楽器を持った人が出入りしているが、団員だろうか。楽器博物館が併設されており、本来なら見学できるのだが、休館日だ。ドイツでは、月曜日が休館日の施設が多い。

 さっきのソニータワーまで戻り、夕食を摂ることにした。ガイドブックに載っていたリンデンブロイというビアレストランに入り、名物として紹介されていたハクセという料理を頼んだ。これは鳥を皮ごと焼いた料理で、肉から足の骨が2本飛び出ている。確かに香ばしいのだが、ナイフとフォークで食べるには、形が不安定で頗る難しい。よく見ると、皮から少しうぶ毛が生えている。「毛の処理が甘いよ!」と突っ込みを入れてみた。結局、ビールで腹を満たすことになり、次いでワインを飲んだ。食べ終わってから、コンサートまで2時間ばかりあったので、一旦ホテルに戻ることにした。持って歩くには、本を買いすぎて、非常に重い。

 ホテルに戻り、少しくつろいでからStaatsoperに向かった。

 ところが、Staatsoperのドアは固く閉じられていた。チケットをよく見ると、コンツェルトハウスと書いてある。コンツェルトハウスを昼間見学しておいたことが幸いした。そのままコンツェルトハウスまで走っていき、事なきを得た。

concert-haus

 席は舞台の右手2階席だった。舞台裏席と連続した一角で、チケットには「Chor Mitte rechts freie Platzwahl」と書かれていた。なかなか場所がわからず、係員に何度も聞いた。

 コンサートは、Gustavo Dudamel指揮、Staatskapelle Berlinによる演奏。一曲目はCharles IvesのRobert Browing Overtureという曲だった。現代曲でもあり、あまり理解できず。感想としては、「現代曲なんだなぁ・・・。」といった印象。二曲目は、Bela Bartokのピアノ協奏曲第1番だった。バルトークは、アイヴズと同時代の作曲家だが、こちらの方が聴きやすかった。バルトークの演奏は、バレンボイムのピアノ。バレンボイムは自然体で演奏していて、非常に音がクリアだった。ピアノが打楽器だと感じさせる演奏で、リズムが明確である分、この曲の良さが際だっていた。演奏が終わった後、カーテンコールが何度かあり、オケの女性団員が花束を贈呈した。その時交わしたキスシーンを写真に収めることが出来た。バレンボイムのキスシーンは貴重な一枚だ。一見パパラッチの様かもしれないが、演奏外では多くの観客が写真を撮っていたし、その中で偶然収めた一枚だ。拍手の中、バレンボイムは花束から花を1輪だけ抜いて、コンサートマスターに手渡した。何とも心憎い気配りだ。そして、何度も続くカーテンコールに、ピアノの鍵盤の上の蓋を閉めて、演奏が終わりであることを表現した。オシャレな伝え方だ。

 休憩時間に、軽くアルコールを飲むこととした。「ロゼワイン」と注文したら、「レッドワイン?」と聞き返され、赤ワインが出てきた。ドイツ人には私の英語が難しいらしい。

 後半のベートーヴェンの第7番は、私がこれまでに聴いた中で最高の出来だった。テンポはやや速く始まったが、清々しく好感の持てる演奏。曲の構造を明確に示しながら、各楽器のソロを存分に歌わせていた。第2楽章も速いテンポ。この楽章は「タータタ・ター・ター」というリズムが最初から最後まで貫くのだが、それを非常に明瞭に伝えていた。感傷的に演奏されないことで、かえって切なさが伝わってきた。第4楽章は、煽るように、どんどんテンポを上げていった。演奏が意図と反してどんどん速くなることを「走る」というが、彼は意図したところで効果的にオーケストラを走らせ、曲を盛り上げた。まるでジプシー音楽を聴いているようなテンポの上げ方だった。クライマックスは圧巻だ。曲が終わると共に歓声。何とも表現できない奇声が飛び交った。「ウォー」「アー」「ブラボー」・・・。スタンディングオベーションをしている客も何人もいた。Gustavo Dudamelという指揮者は若く、まだ無名だが、将来必ず売れるに違いない。少なくともこの曲の録音が出れば、絶対に買いだ。

Dom

 ライトアップされていたフランス聖堂、ドイツ聖堂の間を通り、幸せを噛みしめてホテルに戻った。夜に見るフランス聖堂、ドイツ聖堂はとても綺麗で、コンサートの余韻と相まって、最高にロマンチックな気分にさせてくれた。夜道を上機嫌で歩く、酔っぱらい。学会が目的の旅行だとは、既に意識にのぼってくることもない。旅はまだまだ続く。


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