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なぜ、無実の医師が逮捕されたのか

By , 2017年1月26日 5:43 PM

なぜ、無実の医師が逮捕されたのか: 医療事故裁判の歴史を変えた大野病院裁判 (安福謙二著、方丈社)」を読み終えました。

ここ数ヶ月で一番心に響いた本。熱い言葉がたくさん散りばめられていました。

私が都内の大学から福島県の病院に出張になっていたとき、大野病院事件は起こりました。当時はさまざまな医療系ブログが連日この事件を扱っていて、あの頃の独特な空気は今でも思い出します。加藤先生を救うための署名運動に、私も署名しました。

この事件は、ギリギリで頑張っていた医療従事者たちの心を折って、医療崩壊を顕在化させました。「たらい回し」報道が溢れたのも、この後です。

読んでいてどんどん引き込まれるドキュメントですが、現在の医療と司法制度の問題が、繰り返し深く考察されています。

本書を読むと、到底過失を問える案件ではないこと、医学に無知な検察が思い込み (患者家族に保険金が下りるようにという目的で作られた鑑定書に、医師に過失があったように記載する必要があり、それを元に医師に懲戒処分がくだったことなども影響したようでした) を押し通そうとして突っ走ったことがよくわかります。裁判では、検察の思い込みがことごとく論破されています。また、訴訟は勝つか負けるかを争うものであり、真実かどうかは関係ない、裁判に関係ない資料はたとえ真相究明に重要であっても無視される、ということがよく伝わってきました。

なお、先日、私は警察の取り調べを受けた病院関係者と話す機会がありましたが、「相手は何もわかっていないみたいでした。『これを聞かなくて良いの?』というのもあったけれど、聞かれなかったから答えませんでした」とのことでした。

この事件は医療関係者にとって大きな意味をもっています。是非、多くの人に読んで貰いたいです。被告側弁護人であった著者に、印税という形で感謝の気持ちを伝えたいという思いもあります。

最後に、いくつかメモしておきたい文章。

・だが、警察の拘束、監視下に何日も置かれ、非日常のなかで思いもつかないことを聞かれ続けると、頭の中を引っかき回されるような状態になる。相手がどういう意図や目的で聞いているのか、自分に不利なのか有利なのか、判断する力が奪われていく。答えても、自分が何を語っているのか判然としなくなってくる。その状態に人を追い込むことこそ、それが「日本における取調べ」であり、強制捜査 (逮捕、勾留) の目的の一つなのである。こんな取調べは、まともな先進国では許されない。しかし、これが、日本の刑事司法の現実である。(P17~18)

・年間の出産件数 224件!1年365日のなかで 224件のお産なら、一人で毎日のようにお産を扱っていることになる。1年365日オンコール状態だ。人間わざではない。毎日毎日、生死を分けるお産の現場に、1人で立ってきた。これは限界を越えている。医師の人権がここでも踏みにじられていた。心のどこかでカチンと小さな音がした。 (略) 懲戒処分を知って、しぼんでいた気持ちの風船が怒りでまた、ふくらみだした。気がついた時、私は電話を手に取っていた。やるしかない。(p25~26)

・会えた、加藤医師だ。傍聴の人々からなんともいえない押し殺した悲鳴があがった。佐藤教授は、加藤医師をじっと見たまま、滂沱の涙が流れるままのゆがんだ顔。医局の医師はみな、声を殺しすすり泣いている。加藤医師が法廷に進んでくると、「頑張れ」「みんながついているぞ」と、傍聴席から低い声があがった。(略) 帰り際、裁判所の廊下で、佐藤教授が語りかけた。「加藤先生をつれていった看守が、先生の弁論にもらい泣きしていましたよ」「えーっ」私は驚いた。加藤医師を退廷させる時に、さりげなく拘束を緩めて、加藤医師が振り返ることを許したあの人だろうか。「あれだけ理路整然と言っても、まだ、わかってもらえないどころか、まったく反応しない。裁判所は最初から勾留を認める、って決めていたんでしょうけれどね。裁判とは怖いものだねぇ。私は今日、身にしみてわかりました」と佐藤教授は唇を噛み締め、下を向かれた。よほど悔しい思いなのだろう。(p108~112)

・この母親の死を無駄にしない方法は、裁判ではない。調査、検証による徹底した究明、それにもとづいた再発防止の徹底しかない。いつまで、「医師逮捕」に象徴される愚かしい制度を続けるんだ。怒りすら沸き起こってくる。(P239)

・私の担当医であった若い医師がある時、「逮捕されないためにはどうすればいいですか」と聞いてきた。その真剣な目つきに、返す言葉を失った。要するに業務上過失致死罪によって逮捕されないためには、どのような注意をし、対応したならばよいのかと言う質問だった。同じ業務上過失致死罪に問われる業務の一つで言えば、自動車などの運転業務であれば、逮捕されない方法は、弁護士に聞くまでもなく、ほぼ誰にでも明らかなのではないだろうか。(略) しかし、これが、医療現場における医療者の場合は、そのようなわかりやすい方法はない。何故ならば、大野病院判決が述べた通り「医療行為が身体に対する侵襲行為を伴うものである以上、患者の生命や身体に対する危険性があることは自明であるし、そもそも医療行為の結果を正確に予測することは困難である。過失なき医療行為をもってしても避けられなかった結果 (死) と言わざるを得ない」のである。にもかかわらず、大野病院事件では逮捕された。要するに逮捕される理由が見当たらない。言い換えれば、逮捕されない方法が見当たらない。単に、結果の責任を問われただけである。しかもその結果は、過失なき診療行為をもってもたらされた。(P269~270)


沖縄美ら海水族館が日本一になった理由

By , 2016年7月21日 8:24 AM

沖縄美ら海水族館が日本一になった理由 (内田詮三著, 光文社新書)」を読み終えました。

著者がこれまで働いてきた水族館について、それらの経験を活かして美ら海水族館はどのように工夫されているか、水族館の意義はなにか、などの話がメインでしたが、私のツボを刺激する話が沢山載っていました。

まずは、イルカの治療の話。

治療には、抗菌剤や副腎皮質ステロイド剤なども使っていた。イルカの場合は、特に呼吸器系の疾患が多い。体温や血沈値の上昇、白血球値から感染症が明らかになると、自分たちで抗菌薬やステロイドを投与していた。だが、こうした薬剤は両刃の剣で、起因菌が分からないで闇雲に打つと、回復するどころか悪化させてしまうこともある。抗菌剤で広範囲の菌を叩いたら、今度は感受性のない緑膿菌感染が出てしまい、これを叩くのに苦労したこともあった。(p. 99)

抗菌薬のイタチごっこはいけない、そのためには起因菌を想定し、培養を提出して治療しないといけないというのは、ヒトもイルカも同じだなぁと思いました。そして、イタチごっこで問題となる菌も当然ながら人間の場合と同じですね。

次は、ヒトの病院と連携してイルカやマナティーを治療した話。

 また、イルカを県立北部病院のレントゲン室に運び込んで、X線写真を撮ってもらったこともあった。イルカは呼吸器系の病気にかかりやすく、血液検査でどうやら肺炎にかかっている様子だったが、水族館でははっきりとは分からなかったのだ。

当時、人間を診る大病院で水族館の飼育動物の検査・診断を行い、治療に協力してもらうなどということは、通常では考えられないことだった。それでも私たちの無理なお願いを受け入れてくださり、協力が得られたのは、南国・沖縄のおおらかさのおかげといえるかもしれない。

県立北部病院とは、その後も疾病治療などに関する指導をお願いしたり、ときには緊急に必要な薬品を貸していただいたり、病理検査を依頼するなど、いろいろな面でご協力いただいた。そのなかでも特に記憶に残っているのは、マナティーの疾病治療にお力をお借りしたときのことだ。

沖縄記念公園水族館にメキシコ大統領から日本に寄贈されたマナティー (アメリカマナティー) がやって来たのは、1978年のことだった。オスは「ユカタン」、メスは「メヒコ」と名付けられ、沖縄国際海洋博覧会でジュゴンを展示した水槽を改修して、飼育を開始した。「メヒコ」は 1996年に死亡 (推定年齢 25歳) するまで 4回出産している。

その 2回目の出産 (1998年) のときだ。残念ながら新生児はわずか 8時間ほどで死んでしまったが、このとき母獣も産後の肥立ちが悪く、体調不良が続いた。いろいろと検査を行った結果、細菌感染症が見つかり、子宮内膜炎を発症していることが推測された。水族館では子宮洗浄を行ったり、筋肉注射・静脈注射で抗菌剤を投与したものの、太い血管をうまくとらえることができず、薬剤が効果的に効かない状態だった。体温は上昇し、餌も全く食べることができず、このままでは「メヒコ」の命が危ないというところまできていた。

そんなとき、この話を聞きつけた県立北部病院の石島英郎院長が協力を申し出てくださった。

病院ではすぐに「マナティー治療チーム」が血清され、小児科医の小堂欣弥医師を中心に産婦人科・内科・外科の医師 4人に加えて検査技師 1人、看護師 2人という、これ以上ないと思えぬほどの強力な体制で検査や治療に当たっていただけることになった。

あらためて詳しい検査を行った結果、炎症を抑えるために薬剤の腹腔内投与を行うことがきまった。薬剤を速やかにかつ効果的に体内に投与するにはこの方法が最良との判断だった。マナティーの体内をエコーで確認しながら、慎重に針を刺して大量の抗菌剤が投与された。5日間の腹腔内投与による治療が行われた結果、「メヒコ」の病状は劇的に改善し、すぐに元気になった。(p. 101-103)

病院と水族館の連携なんて、読んでいてワクワクしますね。

ちなみに、私が鯨やイルカに興味を持つようになったのは、小川鼎三先生の本を読んでからです。以前にブログで紹介したことがあります。

鯨の話

小川鼎三先生の本には、次のような内容が書かれています。

小川鼎三先生は三津の水族館でシャチを生きたままで飼育しているのを聞きつけた。水族館を訪れると明らかにシャチではないので、看板を書きかえるように経営者に忠告した。しかし、日本名を問われ当惑して「トゥルシオップス」という学名のまま答えておいた。後日、小川鼎三先生はトゥルシオップスの和名を「ハンドウイルカ」とする考えを発表した。(鯨の研究)

なんと、同じエピソードが本書にも描かれているのです。以下引用します。

日本で初めてイルカが飼育されたのは、1930年、静岡・三津で開業した中之島水族館 (現在の伊豆・三津シーパラダイス) だった。

当時、入り江を網で仕切った生け簀型のプールでバンドウイルカ (ハンドウイルカ) が飼育されていた。ところが、当初この水族館の看板には「シャチ」と書かれていたらしい。シャチが飼育されていると聞いて、脳比較解剖学の大家であり、日本の鯨学のパイオニアである小川鼎三博士 (写真 4-1) が三津へ足を運び、これがバンドウイルカであることを確認した。ところが当時はまだ和名がなかったことから、看板をその属名 (学名) である「トルシオップス (Tursiops)」に書き直させたという逸話が残っている (7年後、小川博士は『本邦産歯鯨目録』において、これをハンドウイルカとして正式に発表した)。 (p. 121)

この逸話は、鯨学の業界では有名なんですね。

また、本書の著者と小川鼎三先生は実際に交流があったようです。

私が “水族館屋” としての人生を歩むきっかけをつくってくださったといってもよいくらい大きな刺激を受けた、日本のイルカ・クジラ研究の権威である東京大学・西脇昌治教授、鯨類研究所の木村秀雄博士、さらには鯨類比較解剖学の大家である東京大学・小川鼎三教授などは、まさにそうした水族館の素晴らしき理解者であった。 (p. 202-203)

日本の鯨学のパイオニアから、最先端の研究が行われている美ら海水族館まで、一本の線がつながったように感じました。。

本書を読んで、小川鼎三先生の「鯨の話」を読んだ時のことを思い出し、鯨 (イルカを含む) 熱が再燃しました。夏休みは、美ら海水族館に行こうと思っています。その他、鯨類の展示された水族館にもちょくちょく行ってみようと思います。


神経内科医の文学診断

By , 2016年3月19日 10:30 PM

神経内科医の文学診断 (岩田誠著, 白水社)」とその続編を読みました。

私が神経内科医を目指そうと思ったのは、岩田誠先生の「脳と音楽」を読んでからです。また、「見る脳・描く脳」という本を読んで、絵画の鑑賞の仕方が変わりました。音楽、絵画につづいて、今回は文学。岩田誠先生の芸術に対する造詣の深さに驚嘆させられます。

「神経内科医の~」というタイトルですが、神経内科の知識をベースにした議論よりも、臨床医の慈愛に満ちた視線を本書の随所に感じました。例えば下記備忘録に引用した認知症患者についての記載などです。

私は読む小説に偏りがあるためか、本書で取り上げられた小説の大部分は未読でしたが、楽しく読むことができました。基本的な知識がなくても読めるよう易しく (でも深く) 書かれていますので、色々な方に読んでいただきたい一冊です。

以下、特に気に入った部分、あるいは備忘録としておきた文章。

神経内科医の文学診断

・このビラが投下されたアフガニスタンにおいて、それを読むことができた人々が、いったいどれほどいたのだろうか。二十年以上にもわたる戦火の連続と飢餓、そして女性に対する教育を認めないタリバーン政府。一九九〇年のユネスコのデータによると、アフガニスタンの成人人口における識字率は三十一.五%であるという。この国においては、男性の五十三.八%、女性においては驚くなかれ八十五%の人々が文字を操るすべを知らないのである。米国は、アフガニスタンにおけるこの識字率を本当に知っていてビラ撒きをしたのだろうか。文字を知らないがゆえにナチスの残虐行為に組み込まれ、大いなる戦争犯罪に関わらざるを得なかったハンナの悲劇と同じような悲劇が、今のアフガニスタンにおいても繰り返されていないとは言えまい。

・さてここで、nauséeという語の起源について一言述べてみたい。この語はギリシア語で「船酔い」を表す nausiaにあたり、そのもとは船、すなわち nausに由来する。「むかつき」の代表として船酔いをあげるところなぞ、さすが海洋国ギリシアであると妙に納得できる語源である。

・的にも見方にもはっきりと見せる姿で矢玉を受けつつ先頭をきって進まなければならないというのは、洋の東西を問わず、一軍を率いる将たるものに要求されてきた心意気である。ジャンヌ・ダルクもまた、そのような目立ついでだちで戦いの先頭を突き進み、それまで劣勢だったフランス軍を奮い立たせてオルレアンを包囲するイギリス軍を打ち破った。敵の矢玉を一身に受けつつ先頭をきって進む、これがなければ兵士たちはついてこない。元来、ヨーロッパの貴族たちには、体が目立って大きいことが要求されてきた。戦いにおいて兵の先頭に立ち、敵の矢を真っ先に受けて戦うためである。これが「貴族の義務 (noblesse obligé)」であり、この戦場での義務からがあるからこそ、平時においては特権が与えられるべきことが腫脹されたのである。戦場で目立つことこそが、貴族の心意気である。

・しかし、そのような中で起こった一つの事件が、イベリットの運命を変えた。第二次世界大戦中にドイツ軍の爆撃により沈没させられたアメリカの貨物船内に密かに積まれていたイベリットが船外に流出したため、海面に逃げた多くの人びとがイベリットの犠牲となったが、この時死亡した人々では、著しい白血球減少が見られた。このことがきっかけとなって、イベリットの白血病治療への応用が考えられたのである。一九四二年、エール大学の薬理学者ルイス・S・グッドマンとアルフレッド・ジルマンは、糜爛性の毒素を防ぐため、イベリットの Sを Nに置換してナイトロジェン・マスタードと呼ばれる抗がん薬を創生した。ナイトロジェン・マスタードには HN2と HN3のに種類のものがあるが、このままではまだ毒素が強かったため、わが国の石舘守三らは、より毒性の低いナイトロジェンマスタード-N-オキシドをつくり、これをナイトロミンという名で世に送り出して、白血病などの治療薬として商品化した。私が医者になりたての頃は、まだこのナイトロミンが、白血病に限らずさまざまながんの治療に使用されていた。またこの系統の薬として開発されたクロランブチルは慢性骨髄性白血病の治療薬として大いに使用されていたし、この系統の薬剤であるシクロホスファミド (エンドキサン) は今日でもなお白血病などのさまざまな悪性腫瘍の治療薬としてだけでなく、膠原病やリウマチなどの自己免疫疾患の治療薬としても使われている。私の専門である神経内科の診療においても、多発性硬化症や慢性炎症性脱髄性末梢神経障害、重症筋無力症などの治療に用いられている。

・すなわち、自らは健康であるという自覚は、身体的な状態とは全く関係なく誰でも抱き得る実感であり、死に至ることが必須の病に陥った患者でも抱き得るものである一方、身体的には異常のない人がそれを抱き得ないこともしばしばある。言い換えるなら、<健康>というものは、自らの身体的な状況とは全く無関係に抱かれている感情、身体的な実体を持たない幻覚のような自覚的感情である、というのが、私の言い分なのである。

・これと同時に私は、わが国で体育礼賛のために用いられている「健全な精神は健全なる身体に宿る」という言い回しが、完全なる誤訳であることを繰り返し主張してきた。この言葉の由来になったラテン語の原典 <mens sana in corpore sano> は、「健全な精神が健全な身体に宿って欲しい」という願望を意味するのであって、身体が健全でなければ、精神の健全は望めないというような意味は全く含まれていない。むしろ、最も大切なのは精神の健全であって、身体の健全さではない、と読み替えすることすらできるのである。

続・神経内科医の文学診断

・サルペトリエール病院は、一八八二年、世界で最初の神経内科学講座が開設された病院である。一八六〇年代からこの病院で神経内科学の診療と教育をおこなってきたジャン=マルタン=シャルコーの主催する神経病クリニックは、この年、パリ大学医学部の正式な講座となった。そのため、サルペトリエール病院といえば、神経内科医にとって聖地とも言うべき由緒ある病院となっている。

・サルペトリエール病院の前身は、ルイ十四世の勅令によって創設された貧民救済施設で、当初の目的は、パリ市内の女性浮浪者を施設内に収容することだった。当時のパリの人口は五十万人、そのうち浮浪者が五~六万人に達していたという。浮浪者たちはパリの街で物乞いをしながら暮らしていたが、一六五六年四月二十七日、十八歳の国王ルイ十四世は、「パリの貧者を収容するためのオピタル・ジェネラル」設立の勅令を出した。「パリには、いまや数え切れぬほどの浮浪者や乞食たちが侵入し、罰せられることもなく不埒な生活を送っている。彼らの放埒を防ぐと同時に彼らの窮乏を救わんとして、国王陛下は四月の公開状をもって、五箇所の施設をオピタル・ジェネラルの名の下に統合することを命じられた。国王の命ぜられたるところは、貧困者は、年齢と性を問わず、このオピタル・ジェネラルに収容されるべきであること、障害のあるものや高齢者はこれらの施設においてあらゆる援助を得るべきであること、それらの施設においては様々な職種についての働き手を雇うべきであること、そしてそれらの施設においては、全ての者が慈悲の義務を負うべきであるときょういくされるべきこと」であった。

・当時、「オピタル (hôpital)」という言葉は、今日のような「病院」ではなく、監禁施設を意味していた。最も古いオピタルは、一六一二年にルイ十三世の妃であったマリー・ド・メディシスによって設立されたノートル=ダム・ド・ラ・ピティエで、主に子供の浮浪者を収容するための施設だった。ルイ十四世は、ここに加えてサルペトリエールとビセートルをオピタル・ジェネラルとし、前者には女性の浮浪者を、後者には男性の浮浪者を収容した。さらに、ルイ十四世が築いた建造物のうち最も美しいとされる廃兵院には、障害をもった兵士たちを収容した。勅令ではオピタルは五箇所とされているが、主な施設はこの四つで、他に数箇所の小規模な収容施設が用意された。

・こうしてサルペトリエールには、約六〇〇〇人の女性が収容されたが、そのうち一七〇〇人ほどは自由を奪われた監禁状態にあった。監禁状態の収容者は、大きく三つのカテゴリーに分けられていた。第一は精神障害者で、彼女たちは、鎖で壁につながれて家畜同様の扱いを受けていた。第二は娼婦たちで、約四〇〇人が収容された。第三が犯罪者とされた者たちで、二〇〇人ほどが監獄棟に監禁された。

・今日でも、茂造が示したような奇異な行動は、昭子が感じたと同様に困惑の対象であり、処理の対象とはされるが、理解の対象とはされない。デメンチア患者の診療や介護を論ずる学会や研究会では、デメンチア患者の呈するさまざまな異常行動が取り上げられ、それに対する対処法や薬物療法が論じられているが、そのような奇異な行動がなぜ生じたのかを理解しようとする介護側の努力はきわめて少ない。しかし、デメンチア患者の示す突拍子のない行動には、ほとんどの場合、何らかの了解可能な理由があり、その理由に適切に対処できれば、行動を抑える必要はなくなることが多いのである。デメンチア患者の一見奇異で、周囲の人々を困惑させる行動は、処理の対象ではなく、理解の対象となるべきなのである。

・デメンチアの患者を差別や蔑視から守るためという謳い文句で考えだされた「認知症」という用語は、今や立派な差別用語となって、蔑視の眼差しを助長する役目を担っている。デメンチアを発症した父や母を私のもとに連れてくる息子や娘たちの多くは、「父 (母) は、やっぱりニンチなんですか?」とたずねる。その言葉の奥には、父母の病態に対する心配や共感の気持ちは感じられず、自分たちが厄介なものを背負い込んでしまったのではないかという嫌悪感を伴った怖れしか感じられないことが少なくない。


読書

By , 2015年3月12日 7:20 AM

ここ 1週間くらいで数冊の本を読み終えました。いずれもお薦めです。

死の淵を見た男 吉田昌郎と福島第一原発の五〇〇日 (門田隆将著, PHP研究所)

ヤキモキしながらニュースを見ていた当時を思い出しました。「極限状態における人間の心理」の描写に胸を打たれました。原発が現在「冷却可能な状態」であるのは、彼らの命がけの努力によるものだということを忘れてはいけません。

イスラーム国の衝撃 (池内恵著, 文春新書)

ニュースで話題になることの多い、いわゆる「イスラム国」についてです。このようなテロ組織が出来上がるようになった背景、「イスラム国」の変遷、戦略などが深く考察されています。

世界史の極意 (佐藤優著, NHK出版新書)

世界史を、「民族主義」「宗教」といった面から読み解いています。また、現在の世界が抱える問題を、過去に起きたこととのアナロジーを通じて理解します。


新・戦争論

By , 2014年12月29日 10:44 AM

新・戦争論 僕らのインテリジェンスの磨き方 (池上彰・佐藤優, 文春新書)」を読み終えました。2014年は、ウクライナ、イスラム国、中国や北朝鮮との関係等、国際問題に注目が集まった一年です。こうした問題の背景が詳しく語られていて、とても勉強になりました。

目次

序章 日本は世界とズレている
第1章 地球は危険に満ちている
第2章 まず民族と宗教を勉強しよう
第3章 歴史で読み解く欧州の闇
第4章 「イスラム国」で中東大混乱
第5章 日本人が気づかない朝鮮問題
第6章 中国から尖閣を守る方法
第7章 弱いオバマと分裂するアメリカ
第8章 池上・佐藤流情報術5カ条
終章 なぜ戦争論が必要か


アラブ飲酒詩選

By , 2014年11月5日 6:07 AM

アラブ飲酒詩選 (アブー・ヌワース著、塙治夫編訳、岩波文庫)」を読み終えました。以前、オマル・ハイヤームの詩集「ルバイヤート」のことを書きましたが、アブー・ヌワースはオマル・ハイヤームと同じく中東の詩人で、酒をテーマにした詩を多く残しました。

アブー・ヌワースは、イラク国境に近いイランに生まれ、8~9世紀頃に活躍しました。イスラム教は飲酒を禁じていましたが、それにも関わらず彼は堂々と飲酒についての詩を詠みました。そればかりでなく、同性愛を告白したり (※例えば “小屋” という詩には「私は彼の腰あたりで望みを果たした」という表現があります)、断食を揶揄したりもしています。”若さ” という詩では、「私は亭主からその妻を寝とった」という背徳的な出来事が詠まれています。彼はイスラム教的道徳から解放された詩を多く書いた一方で、晩年はアッラーに罪の許しを乞う詩を残しました。

彼の詩を一つ引用します。快楽をとことんまで追い求め、奔放であった彼の性格が良く表現されています。

秘密を注がないでくれ

私に酒を注いでくれないか、そしてそれは酒だと言ってくれ。

私に秘密を注がないでくれ、はっきり言うことができるなら。

人生は酔ってまた酔うだけのこと。

酔いが長ければ、憂き世は短くなるだろう。

私が醒めているのを見られるぐらいつらいことはなく、

私が酔いにふらついていることぐらい結構なものはない。

好きな人の名は打ち明けよ、あだ名で呼ぶのはよしてくれ。

快楽だってつまらない、それを隠してするならば。

悪事も淫楽なしではつまらなく、

淫楽も背教を伴わなければつまらない。

私の友は皆悪漢で、顔は新月のように輝き、

きらめく星のような仲間連れ。

私は寝入っている酒家の女将を起こした。

双子座は既に消え、鷲座が昇っていた。

彼女は「戸を叩くのは誰?」と尋ねた。我々は「ならず者達さ、

酒器が軽くなったので、酒が欲しい連中さ」と答えた。

「あんたとも寝なけりゃね」と続けると、「それとも身代わりに、

色白で、あだっぽい目の美少年はいかが」と応じた。

我々は言った。「是非連れてきておくれ、

俺達のような者は辛抱強くないのだから」

連れてこられたのは十五夜の満月か、

妖術を使っているように見えるが、妖術者ではない。

我々は一人、また一人と彼に近よった。

断食して食物から遠ざかっていた者のように。

我々は一夜を過ごした。アッラーから見れば、我々は極悪人。

我々がひきずっているのは堕落であって、誇りではない。

なお、本書の解説を読むと、当時のイスラムの歴史を理解するのに役立ちます。まず、661年にウマイヤ朝が創始されました。ウマイヤ朝はアラブ人優位の統治を行い、非アラブ人はイスラムに改宗してもマワーリー (被保護民) としてアラブ人よりも下位に扱われていました。ウマイヤ朝の下で発達した文化もアラブ的、部族的伝統を残したものでした。しかし、750年にウマイヤ朝が倒され、アッバース朝が創設されました。アッバース朝はイラクを中心に、西は北アフリカから東は中央アジアに至る広大な地域をモンゴル軍に滅ぼされるまでの 500年間支配しました。アッバース朝はペルシャ人の力を借りてウマイヤ朝を倒した経緯があるだけに、ペルシャ人を中心に多くの才能ある非アラブ人が国家の要職に登用され、文化に大きな影響を与えました。そして文化が爛熟し、生活が奢侈になると、道徳の退廃がみられます。飲酒の習慣のある異民族との接触が増えるにつれ、イスラムの下では飲酒が禁止されているにも関わらず酒は半ば公然と飲まれました。時にはカリフ (君主) ですら飲酒をし、イスラム教ハナフィー派では一部のアルコール飲料を合法としていました。こういう時代に活躍したのがアブー・ヌワースでした。

ちなみに、アッバース朝の後半はカリフの力が弱まり、ペルシャ系のブワイフ朝、トルコ系のセルジュク朝などが実権を握るようになります。詩集「ルバイヤード」で知られるオマル・ハイヤームは、11~12世紀にセルジュク朝の時代に活躍しました。同じく酒の詩を詠んだ李白が中国で活躍したのは 8世紀のことです。


「科学者の楽園」をつくった男

By , 2014年9月7日 10:14 AM

『科学者の楽園』をつくった男 大河内正敏と理化学研究所 (宮田親平著, 河出文庫)」を読み得ました。今話題の理化学研究所の創設期の話が中心です。この研究所を「科学者の自由な楽園」と表現したのは、ノーベル賞を受賞した朝永振一郎です。

理化学研究所は、日本に基礎科学を根付かせようという目的で、大正 5年に設立されました。応用科学は基礎科学の上に成り立つもので、基礎科学が疎かであっては限界があるからです。これには、高峰譲吉や、彼を認める渋沢栄一が尽力しました。こうして設立された理化学研究所でしたが、資金難が続きました。そこで理化学研究所で開発されたものを商業化する流れが出来、ずいぶん研究費の助けとなりました。当初の主力商品はビタミンAであり、合成酒でした。やがて、商品が増えるに従い、さまざまな会社が設立され、コンツェルンとなっていきました。軍との取引も増え、太平洋戦争末期には原子力爆弾の開発研究もしていたようですが、必要な量のウランを入手できるための技術はなかったようです。戦後は新しい研究所として出直すことになりました。

本書を読んでいてとにかくワクワクするのは、有名な科学者がたくさん登場し、彼らの顔が見えるような描写がたくさんあることです。高峰譲吉、池田菊苗、長岡半太郎、寺田寅彦、鈴木梅太郎、仁科茂雄、朝永振一郎、湯川秀樹・・・。その他、田中角栄や武見太郎といった有名人もたくさん登場します。

STAP細胞の問題で揺れている理化学研究所ですが、綺羅星のごとく活躍した科学者達にとってどれほど素晴らしい研究所であったのか、是非一度読んでみて頂きたいです。

以下備忘録。

・グルタミン酸が「うまみ」の素であることを明らかにした池田菊苗は、ロンドン時代、夏目漱石の下宿先にお世話になったことがあった。

・池田菊苗は「研究の先鋒になって指導していく力がおとろえてきたと感じたら、新進気鋭の人に席をゆずって、自分のできることをするべきである」といい、定年の一年前に大学を退いた。

・明治時代、大学の予算には研究費はなく、教員たちは学生のための実験費をかすめて研究をするほかなかった。

・当時の日本では基礎科学が極めて疎かにされていた。これを改善しようと、1913年6月23日、築地精養軒に渋沢栄一らが集まった。そこで高峰譲吉が「国民科学研究所設立について」という大演説をぶち、研究所設立に向けて運動を始めた。

・高峰譲吉はアメリカでウイスキーの効率的な醸造法を開発して特許をとった。それがモルト業者に脅威を与え、彼の製法を取り入れた工場は放火され、会社は突然解散した。その頃、高峰は肝臓病で死線を彷徨っていた。妻カロラインはみずから奔走して列車を自宅前に停車させ、瀕死の夫をシカゴにともなって手術を受けさせた。

・理化学研究所は、当初「化学研究所」となる予定だったが、カテゴリーが小さすぎるため物理も加えて「理化学研究所」となった。

・理化学研究所の初代所長は菊池大麓が就任した。しかし、彼は就任後五ヶ月で急逝した。次は古市公威がその任についた。ところが物理部と化学部の対立により、物理部長の長岡半太郎と化学部長の池田菊苗が辞表を提出し、古市も健康上の問題を理由に辞任した。渋沢栄一は山川健次郎を三代目所長にしようとし、原敬首相までのりだして山川を説得したが、山川は固辞した。山川が代わりに推薦したのが、貴族院議員の大河内正敏だった。大河内正敏は寺田寅彦と親交があった。

・大河内正敏は、大正天皇の皇太子時代の御学友で、明治天皇に可愛がられ、膝の上に乗せられたことがあった。

・大河内正敏は、漱石の『坊っちゃん』の主人公が学んだことになっている東京物理学校の校長をしていた。

・大河内正敏が三代目所長に就任したとき、物理部と化学部は対立していた。そこで彼は化学部と物理部を解消し、部長という職制もとりはずし、主任研究員制度を設立した。予算は研究室ごとに割り当てられ、主任はその予算内で室員の給与と研究物件費をまかなったが、配分をどのようにするかは裁量にまかされた。初代主任研究員は、長岡半太郎、池田菊苗、鈴木梅太郎、本多光太郎、真島利幸、和田猪三郎、片山正夫、大河内正敏、田丸節郎、喜多源逸、鯨井恒太郎、高嶺俊夫、飯盛里安、西川正治であった。

・喜多源逸が京都大学に転出した後、福井謙一がその門下に加わった。

・朝永振一郎が所属していた仁科芳雄の研究室では、全員にアダ名をつけて呼び合っていた。仁科は「親方」もしくは「パイパン (顔が白いため)」、朝永は「シャコ」と呼ばれていた。

・朝永振一郎の下宿には、彼の父が親友の西田幾多郎に「古人刻苦光明必盛大」と揮毫してもらった掛け軸があったが、朝永は終始叱られている気がするとして返してしまった。

・朝永振一郎の友人小川秀樹は、湯川家に婿入りして湯川秀樹となった。妻は、夏目漱石が胃潰瘍で入院した胃腸病院長である湯川玄洋の娘スミだった。彼女は漱石の『行人』の中でモデルとして描かれている。

・田中角栄は 1934年3月27日に、新潟県柏崎駅から上京してきて、翌日に大河内正敏の家を尋ねたが、会うことができなかった。しかし、その後設計士となって仕事を続けていたある日、エレベーターの中で大河内正敏と会ったことがきっかけで、交流が生まれた。

・理研の三太郎 (3人の太郎) の一人、本多光太郎は、冶金学の権威だった。彼は昭和 6年に東北帝大総長となったが、教育勅語を読むと誤読だらけだった。誤字が多く、昭和を照和と書くこともあった。一方で理財感覚はあり、太平洋戦争で仙台が火の海になったとき、「すぐ大学周辺の土地を買い占めよ」と指示したと伝えられている。

・保険外交員であった市村清は、理研感光紙の販売代理業の契約を理研に求めたが、ケンもホロロにされた。そこで理研コンツェルンのトップである大河内正敏に直談判し、認められた。市村は大河内のもとで数社の役員を務めるとともに、カメラ会社の旭光学を合併して理研光学という会社の社長になった。理研光学が、のちのリコーである。

・後に日本医師会会長となる武見太郎は、寺田寅彦を愛読していた。慶応大学の内科では、煙たがられ干されていたが、北大や東大などで診断がつかず苦しんでいた中谷宇吉郎の病気が肝臓ジストマ (肝吸虫) だと診断をつけ、アンチモン療法で全快させた。中谷宇吉郎を武見太郎に紹介した岩波書店社長の岩波茂雄らも後に肝臓ジストマであることが判明したが、これはある料亭で寒ブナを食べたメンバーだった。この件を契機に、武見は仁科茂雄に紹介された。最終的には仁科に誘われて、慶応大学をやめて理研に就職した。

・仁科研究室では放射性物質を扱っていたため、白血球減少症を呈する研究者がおり、武見は豚の肝臓から抽出したペントースヌクレオチドを治療に用いた。後に、広島、長崎に米軍医療団が持ち込んだのも、ペントースヌクレオチドだった。

・武見太郎は、昭和 12年の支那事変のときから世界戦争を予測し、水の心配のない疎開地を求め、そこに本を送り母を住まわせていた。太平洋戦争では、それが役に立った。

・武見太郎は、高峰譲吉の弟の家に出入りをしていて、その紹介で枢密顧問官南弘を治療した。南弘の人脈から牧野伸顕の次女の娘と見合い結婚した。そこで、吉田茂と姻戚関係が生じた。

・広島に原爆が落とされた後、仁科は現場に調査に赴いた。赤十字病院にあった写真乾板が現像の結果黒くなったことから、放射線が照射されたことは間違いなく、原子爆弾と推測した。

・戦後、大河内正敏は戦犯として、科学者では最初に逮捕命令を受けたが、昭和 26年に追放指定解除を受けた。

・戦後、朝永振一郎は弾道試験用の細長いトンネル中に住んでいた。「長多時間理論」で朝日文化賞を受け、賞金のおかげで畳を敷くことが出来た。

・昭和 21年に理系コンツェルンの解体命令が出された。昭和 23年3月に、理研は株式会社科学研究所と名前を変えて発足した。資金を稼ぐ必要があり、仁科はペニシリンの生産を目指した。昭和 30年には、科研を半官半民の特殊会社にすべく、「株式会社科学研究所法」が提出された。しかし収支が悪く、「理化学研究所法」を成立させて、昭和 33年10月に特殊法人理化学研究所が誕生した。初代理事長は長岡半太郎の長男長岡治男だった。昭和 38年に理化学研究所は和光市に移転した。


実証分析入門

By , 2014年7月17日 7:30 AM

実証分析入門 (森田果著, 日本評論社)」を読み終えました。法律家向けに書かれた、因果推論や実証分析の本です。この本を読もうと思った理由は、下記のリンクにあるように、目次が面白そうだったからです。

【東北大学】森田果准教授が書いた本の目次がヤバいことになっていると話題にwwwwwwwwwwwww

内容はかなりに高度でしたが、目次に釣られる形で通読できました。目次だけではなく、本文や注釈もおもしろく、例えば第 9章の「きのこの山とたけのこの里と、どちらが好きですか?」というアンケートの回答を変数とした解析の脚注は、「ちなみに筆者の好みはきのこの山。たけのこの里のぼそぼそ感は許し難い」となっていて(p.95)、思わず「お前の好みはどうでも良い」とツッコミを入れてしまいました。

第12章は、「飛ばない豚はただの豚」を例に取り、「豚が飛ぶことを選ぶ (=ただの豚でなくなる) のは、どのような要因によって決まるのか」を、線形確率モデル (LPM), 非線形モデルで解析しています。そのネタだけでも十分面白いのに、さらに「なお、『飛べない豚は・・・』だと誤解している人が多いけれども、正確には『飛ばない豚は・・・』だ」と、無駄に丁寧な解説がされています (P.128)。

また第 14章、目的変数が 3択以上の解析では、Perfumeという音楽グループを例にしているのですが、「しかしたとえば、のっちは髪がショートなのに対し、あ~ちゃんとかしゆかは髪が (セミ) ロングだから、同じ票を食い合うことにより、のっちは 50%のまま、あ~ちゃんとかしゆかは 25%ずつ、という確率になることも十分現実的だ」という文章 (p.156) があり、これを見て学術書だと思う人はいないでしょう。

このように読者を引き込むために遊びの部分が多いとはいえ、学問的には極めて真面目な本です。法律家向けの本でありながら、生物統計に生きる部分もたくさんありました。例えば、統計学の基礎や、バイアス、重回帰分析、サバイバル分析、ベイジアン統計学などです。

簡単な統計学の入門書などを一冊こなしてから本書を読むと、楽しめると思います。


あなたのプレゼン誰も聞いてませんよ!

By , 2014年6月21日 12:12 PM

あなたのプレゼン誰も聞いてませんよ! ―シンプルに伝える魔法のテクニック (渡部欣忍著, 南江堂)」を読み終えました。

学会発表の時、予演会などで「スライドは 10行まで」と口を酸っぱくして指摘されて育ってきたので、それなりにスライドはシンプルに作っているつもりでした。

しかし、この本を読んで目から鱗でした。ここまで見やすいスライドが作れるとは思いませんでした。

おかげで講演予定のスライドを全部作り直す羽目になりましたが、この本を読む前よりは圧倒的に文字が減ったし、インパクトを与えるものになったと思います。

学会などプレゼンする機会のある多くの方に読んで頂きたい本です。


クマムシ博士の「最強生物」学講座ー私が愛した生きものたち

By , 2014年3月22日 5:49 AM

クマムシ博士の「最強生物」学講座ー私が愛した生きものたち (堀川大樹著、新潮社)」を読み終えました。著者はクマムシの研究者です。クマムシは乾眠という仮死状態をとることができ、マイナス273℃、プラス100℃、ヒトの致死量の 1000倍の放射線、水深 1万メートルの 75倍の圧力、真空などに耐えることが可能です。宇宙空間に 10日晒しても一部生存していた個体がいたそうです。このようなスーパー生物のクマムシですが、なかなか研究するための環境は大変で、著者は海外にポストを得て、有料メルマガやクマムシをキャラクター化したグッズのオンライン販売などで研究費を捻出しています。

本書には、クマムシの紹介、クマムシの探し方・飼い方の解説、他の「最強生物」について、研究全般について広く書かれています。下記の著者ブログで目次等が紹介されているので、興味のある方は御覧ください。

クマムシ博士の「最強生物」学講座ー私が愛した生きものたち

この本を読んで、生物の多様性を強く感じました。生物によっては、本当にさまざまな環境で生きられるんですね。それと、「博士生態学講座」の項に書かれた、「理系的『ジョジョの奇妙な英語学習法』」はとても面白かったです。好きな漫画の日本語版のセリフを暗記してから英語版を読んで、言い回しを学ぶというものですが、有名な「ジョジョの奇妙な冒険」のセリフを例にとるとこうなります。「ありのまま、起こったことを話すぜ→ I’ll just explain what happened!」

また、「オタクと変態はモテる」には、ハッとさせられました。私がモテないのは、変態であることを隠していたからなんですね。

結論からいうと、研究者、いや、オタクと変態はモテる。ただし、オタクや変態がモテるためにはひとつ気をつけなければならないことがある。彼らがモテるためには、自らの歪んだ性癖を隠さずに誇りをもってアピールする必要があるのだ。(略) 世の中にはマジョリティから逸れた尖った人間、つまり、変わった性癖を持つ人たちを好む男女が一定数いる。だから、このニッチを占める人々をターゲットにするのだ。 (p166~167)

「私は変態です (`・∀・´)エッヘン!!」、変態好きの女性募集中です!


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