お産の歴史

By , 2008年1月25日 7:20 AM

「お産の歴史-縄文時代から現代まで(杉立義一、集英社新書)」を読み終えました。

人類が始まったところから、お産はあったのに違いないのですが、我々は縄文時代の遺跡から、昔のお産文化をうかがい知ることが出来ます。土偶などです。縄文時代の遺跡を見ると、胎児から生後一年までの乳幼児の墓が、成人の墓の六倍存在するなどといった事実が本書に記されています。

次に、古事記の記載です。

伊耶那岐命 (イザナキノミコト) がその妻の伊耶那美命 (イザナミノミコト) に尋ねて「お前の身体はどのようにできているか」と言うと、答えて、「私の身体は成り整ってまだ合わないところが一か所あります」と申した。さらに伊耶那岐命が「私の身体は成り整って余ったところが一か所ある。だから、この私の身体の余分なところでお前の身体の足りないところをさし塞いで国を生もうと思う。生むことはどうか」と仰せになると、伊耶那美命は「はい、それでよい」と答えて言った。そして、伊耶那岐命は「それならば、私とお前でこの天の御柱のまわりをめぐって出会い、寝所で交わりをしよう」と仰せになった。こう約束して、すぐに「お前は右からめぐって私と出会え。私は左からめぐってお前と出会おう」と仰せになった。約束しおわって柱をめぐり出会った時に、まず伊耶那美命が「ああ、なんといとしい殿御でしょう」と言い、あとから伊耶那岐命が「ああ、なんといとしい乙女であろう」と言った。それぞれ言いおわったあとで、伊耶那岐命が妻に仰せになって「まず女の方から言ったのは良くなかった」と言った。そうは言いながらも、婚姻の場所でことを始めて、生んだ子は、水蛭子 (ひるこ) だった。この子は葦の船に乗せて流しやった。次に淡島を生んだ。これもまた、子の数には入れない。

そこで二柱の神は相談して「今私たちが生んだ子はよろしくない。やはり天つ神のもとに参上してこのことを申し上げよう」と言って、ただちに一緒に高天原に参上し、天つ神の指示を求めた。そこで、天つ神はふとまにで占い、「女が先に言葉を言ったのでよくないのだ。まだ降って帰り、言いなおしなさい」と仰せになった。こうして、二神は淤能碁呂島 (おのごろしま) へ帰り降って、ふたたびその天の御柱を前のようにめぐった。

そこで、まず伊耶那岐命が「ああ、なんといとしい乙女だろう」と言い、あとから妻の伊耶那美命が「ああ、なんといとしい殿御でしょう」と言った。こう言いおわって結婚され、生んだ子は、淡路之穂之狭別島 (あわじのほのさわけのしま)

古事記には、編纂された頃の思想が反映されていると思うのですが、男性から求婚することが、強く求められています。現代でも、男性からプロポーズすることが多いのは、何か植え付けられた意識があるのか、それとも別に要素があるからでしょうか?

本書では、古事記のその後の記載から、お産を考察しています。

時代が下って、奈良時代には「女医 (にょい)」という官職があり、主として助産婦のような仕事をしていたことがわかります。ただ、今の「女医 (じょい)」とは全く別のものだったようです。

平安時代のお産については、栄花物語での出産シーンを研究したものがあるそうです。

 産科史的にみて重要なことは、妊産婦の産後の死亡が多いことで、この点に関しては、佐藤千春の詳細な研究 (「栄花物語のお産」『日本医事新報』一九八九年八月) がある。それにもとづいて計算すると、四十七人の妊産婦のうち十一人の死亡例 (二三.四%) があり、出産回数でいえば、六十四回の出産に対し十七・二%の母体死亡となる。

びっくりするほどの数字ですね。当時は近親婚も多かったし、色々出産にマイナスとなる習慣もあったのでしょうが、何故縁起を担ぐ行事がそこまで発展したかわかるような気がします。

江戸時代の産婆は酒を飲んで仕事していた人がいたそうで、香月牛山著の『婦人寿草』の「産婆を選ぶ基準」に次のように書いてあると紹介されていて、笑ってしまいました。

産婆の多くはよく酒を飲み、性格も剛胆である。ただし、あまり多くの酒を飲ませるべきではない。気力の助けとなるくらいのわずかな量で充分であり、多いと眠気をさそい、酒臭い息が産婦にかかり、その息を嫌う産婦も多い。

仕事中に酒を飲むのはダメですよね。

江戸時代以前にも、変な風習は多かったのですが、江戸時代には徐々にそれらが正されていきます。近代産科学の創始者加賀玄悦は「産論」を著しました。

 当時上は后妃から下は庶民の妻にいたるまで、産後七日間は産椅という椅子に正坐させて、昼夜看視する人がついて眠らせず、横臥させないという風習があった。

「産論」などを通じて、こうした風習を加賀玄悦は正していくのですが、7日間寝かせないというのは、拷問にも等しいですね。加賀玄悦には、他にも多大な業績があり、例えば回生術といって死胎児を取り出す(胎児の頭蓋を砕いたり、手足を切断したりする)方法を広め、多くの母体を救いました。

玄悦の後を次いだのが、出羽国横堀出身の玄迪です。彼は「正常胎位を図示したわが国初めての妊娠図」を書いたのだそうです。そうこうして、加賀流産科術は日本で広まっていきました。会津にも山内謙瑞という医師が会津若松町で開業した記録が残っているそうです。玄悦の弟子の奥劣斎は、日本で初めて尿道カテーテルを行った医師なのだそうです。

ただ、加賀流は、鈎を用いるので、胎児に傷が付きやすかったそうで、陸奥国白川郡渡瀬出身の蛭田克明は、加賀流に対抗する蛭田流を作ったそうです。

会津若松で開業した山内謙瑞や、白川出身の蛭田克明など、福島県には産科史的に重要な役割を果たした医師の名前が見られる一方で、最近、大野病院事件のように産科医療崩壊の引き金になった事件も起こり、不思議な感覚がしました。

さて、興味深いのは帝王切開についてです。いつくらいからこのような方法が行われているのか興味があります。俗説では、カエサル・シーザーが帝王切開で生まれたというのがありますが、誤りのようです。Wikipediaからの引用です。

帝王切開

日本語訳の「帝王切開」はドイツ語の「Kaiserschnitt」の翻訳が最初と言われ、ドイツ語の「Kaiser=皇帝」、「Schnitt=手術」よりの訳語である。 語源として現在もっとも有力な説は、古代ローマにおいて妊婦を埋葬する際に胎児をとり出す事を定めた Lex Caesareaにあるとされている。

さらに「Kaiserschnitt」の語源であるラテン語の「sectio caesarea」は「切る」と言う意味の単語二つが、重複している。これが各言語に翻訳されるにあたり、「caesarea」を本来の「切る」という意味ではなく、カエサルと勘違いしたのが誤訳の原因であるという説もある。

そのほかの現在は誤っているとされる語源の説として

ガイウス・ユリウス・カエサルがこの方法によって誕生したということから。

中国の皇帝は占星術によって、母子の状態に関係なく誕生日を決められていたため、誕生日を守るために切開で出産していたとされることから。

シェークスピアの戯曲「マクベス」の主人公の帝王が、「女の股から生まれた男には帝王の座は奪われない」との占いを聞き、大いに喜び自分がこの世の帝王だと信じていたが、あまりの圧制に反乱を企てた反乱軍のリーダーとの決闘の際この占いの話をしたところ、「俺は母親の腹を割かれて生まれてきた」と返された上で殺され、その反乱軍のリーダーが新たな帝王になった。という話から。

本書で、帝王切開の歴史に触れていますので紹介しておきましょう。

 生きている産婦に対する世界ではじめての帝王切開は、ザクセン地方の外科医トラウトマンが一六一〇年四月二十一日におこなったのが最初といわれる。このとき、母親は二十五日間生きた。つぎの二世紀におこなわれた帝王切開は、直接の大量出血と感染によりすべて一週間以内に死亡した。そのためフランスでは一七九七年、反帝王切開協会が組織されるにいたったほど、当時の帝王切開術は危険を伴うものだった。アメリカ合衆国では、一七九四年にはじめて成功、以降、一八七八年まで八十例の帝王切開がおこなわれたが、ここでも母の死亡率は五三%と高かった。

わが国における伝承としては、一六四一 (寛永一八) 年、肥後 (現・熊本県) 人吉藩で、藩主相良頼喬の誕生の際に、生母周光院殿 (十九歳) に帝王切開をおこなった。母は死亡したが、胎児は救われた。ただし明確な証拠はない。

文献上、日本で最初に帝王切開が紹介されたのは、一七六二 (宝暦十二) 年に、長崎でオランダ外科を教えていた吉雄耕牛の講義を、門人の合田求吾が書き残した『紅毛医談』である。(略)

そうした状況のなかで、実際にこの手術をおこなった医師があらわれた。伊古田純道 (一八〇二~八六年) と岡部均平 (一八一五~九五年) の二人の医師で、一八五二 (嘉永五) 年四月二十五日 (陽暦六月十二日)、武州秩父郡我野村正丸 (現・埼玉県飯能市)、本橋常七の妻み登の出産の際に、帝王切開の手術をおこなった。(略)

純道は右側に立って、左下腹部を縦に切開し、ついで子宮を約一〇センチ切開して、胎児および付属物と汚物をすっかり取り除いて (子宮の切開創はそのままにして)、腹壁を縫合して無事手術を終えた。その間半刻 (一時間) ばかりであった。(略)

その後、み登は九十二歳の天寿をまっとうした。

日本は、欧米に遅れて成功していますが、長崎から学問が入って来たことが、大きな役割を果たしています。学問に関しては、情報の伝達が非常に大切であることが痛感されます。それにしても、初めて帝王切開受けた女性はどんな思いだったでしょう。それを受けないと死ぬという状況でしたし、ものを考えられる状況にはなかったかもしれませんが。

最後に、「産経」というのは、中国最古の産科専門書といいます。産経新聞とは関係がないようです。


D. C. Dounis

By , 2008年1月23日 10:21 PM

D. C. Dounisという名前を聞いたことがありますか?

あったとしたら、相当なマニアですね。ヴァイオリンの上級者向けテクニックの本を書いている方です。しかも医師です。

Demetrius_Constantine_Dounis

Demetrius Constantine Dounis (1886 – 1954) was an influential teacher of violin and string instrument technique. A trained physician, Dounis focused his early medical career on treating professional musicians from the world’s major symphonies. He would work with a musician for at least six months, observing the musician’s technique, asking questions, and devising new exercises to indirectly address the problem.

Dounis also wrote several instructional books. In his 1921 volume The Artist’s Technique of Violin Playing, Dounis emphasized the importance of shifting and finger exercises. These were to develop the musician’s mental map at the beginning of practice, after which scale drills would be more effective.

Dounis’ first name is variously spelled Demetrios or Demetrius.

昔、ヴァイオリンの師と、「医師兼音楽家」の話題となり、「お医者さんでヴァイオリンの教本書いた人いたわね。」と教えて頂いたのが最初です。

早速、彼の「The Artist’s technique of Violin Playing」を買って練習してみたのですが、メカニックな練習が延々とあり、すぐに飽きて挫折しました。ただ、非常に合理的で、意図はわかりやすいと思います。根気さえあれば、ある程度の効果は期待できるでしょう。ただ、内容はかーなり難しいですよ。パガニーニのカプリスさらうより大変かもしれません。

最近、彼の事を調べていて、「The Dounis collection」という本もあるのを知り、amazonで購入しました。ところが、本の最初は以前買った本と一緒。

実は、最初に買った本は、作品番号12を収録したもので、後から買った方は、作品番号12, 15, 16, 18, 20, 21, 27, 28, 29, 30が収録されているのです。購入するなら後者ですな。

最後に、「The Dounis collection」の序文を引用します。ウィーン大学医学部卒業であることはわかりますが、医師としての業績は書かれていませんでした。医学部卒業後はヴァイオリニスト、ヴァイオリン教育者として活動されていたようで、そちらの業績はかなりのものと思います。

Demetrius Constantine Dounis (1886-1954) was one of the most prominent violin pedagogues of the twentieth century. He studied violin privately in Vienna with Frantisek Ondricek, a much-sought-after teacher who no doubt impressed Dounis with significance of pedagogy, and simultaneously enrolled as a medical student at the University of Vienna. Following his graduation, he made several tours as a violinist in Europe and Russia. After World War I, he was appointed professor of violin a the Salonika Conservatory in Greece, and it was at this time that he devoted much of his energy to violin pedagogy and publication of pedagogical treatises. He then settled in England and, facing the threat of World War II, relocated to the United States, first New York City, then Los Angeles, where he died soon afterwards. (“The Dounis collection” より)

 


訃報

By , 2008年1月22日 10:08 PM

今日、ヴァイオリニストの江藤俊哉氏が亡くなられました。

今、手元の「The Art of Toshiya Eto」という 4枚組の CDを聴いています。自分の解釈を説得力を持って演奏出来るのって、良いですよね。独りよがりの演奏なら簡単ですが、必然性があり、説得力を生み出せるのが凄いと思います。久しぶりに震えています。CDの半分以上の曲は、私が演奏経験がある曲。聴きながら、演奏している気分になります。

 バイオリニストで元桐朋学園大学長の江藤俊哉さん死去
2008年01月22日12時13分

戦後日本を代表するバイオリニストで、教育者として多くの演奏家を育てた元桐朋学園大学長の江藤俊哉(えとう・としや)さんが22日午前6時36分、肺炎による心不全で死去した。80歳だった。葬儀は近親者のみで行う。後日お別れの会を開く予定。

東京都出身。4歳から早期音楽教育「スズキ・メソード」で知られる故鈴木鎮一氏のもとで学び、12歳で音楽コンクール(現日本音楽コンクール)で優勝した。

東京音楽学校(現東京芸大)卒業後に渡米。カーチス音楽学校で名教育者としても知られるジンバリストに学び、24歳でニューヨークのカーネギーホールでデビュー。日本人離れした大胆な弓使いと深みのある音色で世界に認められた。

演奏活動の傍ら、桐朋学園大や上野学園大で堀米ゆず子さん、矢部達哉さん、諏訪内晶子さんらを育てた。エリザベート国際コンクールなど海外コンクールの審査員も歴任。71年にモービル音楽賞、79年に日本芸術院賞、00年に渡辺暁雄音楽賞特別賞を受賞。97年から04年まで桐朋学園大の学長を務めた。

指揮者、ビオラ奏者としても活躍。音楽家の地位向上を求める社会的発言も多かった。「違いがわかる」というインスタントコーヒーのテレビCMに出演、茶の間でも知られていた。


ヴァイオリン制作者と皮膚炎

By , 2008年1月20日 8:17 AM

以前、ヴァイオリン製作と喘息について書きました。ヴァイオリン制作者を襲う疾患として、今回は「アレルギー性接触性皮膚炎」を取り上げます。

Lieberman HD, et al. Allergic contact dermatitis to propolis in a violin maker. J Am Acad Dermatol. 46: S30-31, 2002

以下、学会の症例報告風に紹介します。論文タイトルの邦訳は、「ヴァイオリン制作者におけるプロポリスに対するアレルギー性接触性皮膚炎」です。プロポリスは、ミツバチが産生する蜜蝋です。

症例:69歳男性
既往歴:10年前 mycosis fungoides (菌状息肉症), 発症時期不詳 気道過敏性疾患。前者の治療に mechlorethamine HCL (nitrogen mustard), PUVA療法、UVB療法、局所ステロイド投与が行われたが、著変なかった。
家族歴:アトピーなし
生活歴:楽器修理工。木工やニス(ニスはプロポリスを含む)などを用いて仕上げる。また、弓の修理も行う。自分でもヴァイオリンを演奏する。
現病歴: 5年前から灼熱感、掻痒感のある皮疹が、眼瞼、左耳、前腕、手に出現した。ニューヨーク大学医療センターの皮膚科アレルギー部門に紹介される 1ヶ月前に皮膚炎の再燃に気づいた。局所ステロイド塗布や抗ヒスタミン薬内服での改善は認めなかった。
身体所見:上眼瞼、下眼瞼に鱗屑を伴った紅斑あり。前腕と手に境界明瞭で軽度の紅斑状、鱗状パッチあり。
検査所見:一般的なアレルゲン、その他(紫檀、黒檀、ペルナンブーコ、馬の毛)に対するパッチテストを施行し、コロホニウム、アビエチン酸、プロポリスで陽性。RAST法では、ラテックスと種々の樹は陰性。
診断:アレルギー性接触性皮膚炎
経過:抗原の隔離と cetirizine内服、中力価ステロイド局所投与にて軽快した。
考察
・コロホニウム (アビエチン酸の酸化物を含み、ニス、松のおがくず、ワニス、弓の毛に塗る松ヤニなどに存在する) に対するアレルギー性接触性皮膚炎の報告は良く知られているが、音楽家でプロポリスに対して発症した報告はほとんどない。
・従来、プロポリスに対するアレルギー性接触性皮膚炎は、養蜂家で見られることが多かったが、バイオ化粧品使用者で見られることが増えている。また、HIV陽性患者で、プロポリスを含むサプリメントを摂取していて、口唇炎、口内炎を起こした症例も報告されている。
・ヴァイオリニストや弦楽器制作者で難治性の慢性湿疹性皮膚炎を認める時は、プロポリスに対するアレルギー性接触性皮膚炎を鑑別に考える必要がある。

要約すると、上記の如くになります。弦楽器製作の工程を考えると、木の削りカスによる喘息症状も起こりますし、ニスなど化学物質に対するアレルギーも起こりますね。今回は、ニスに含まれるプロポリスに対するアレルギーが指摘されています (コロホニウムに対するアレルギーも検査では陽性)。指摘されると「なるほど」と思いますが、なかなか普通思い至らないものだと思います。

プロポリスに関しては、楽器演奏者以外にも、アレルギーの報告があることを初めて知りました。極めて稀なことなので、まずそういう患者を診ることはないでしょうが、知っておいて損はないかもしれませんね。まぁ、アレルギーなんて、何ででも起こるとも言えるのですが。


新型インフルエンザ

By , 2008年1月19日 11:34 AM

methyl先生に教えて頂いて、NHKの新型インフルエンザ特集を見ました。

シリーズ 最強ウイルス 第1夜 ドラマ 感染爆発~パンデミック・フルー 
シリーズ 最強ウイルス 第2夜 調査報告 新型インフルエンザの恐怖

新型インフルエンザ H5N1型を扱った番組でした。非常に良くできた番組でした。以前 SARSの特集をした時、番組は見ずに書籍化されたものを読んだのですが、この手の NHKの特集は考証がしっかりしていて、変にバラエティ化していないので、好感が持てます。

第 1話は、感染爆発のシナリオをドラマとして紹介していましたが、役者の演技力も許容範囲内で、他の医療ドラマを見る時のような、白々とした感じなく見ることが出来ました。緊迫感が上手く生み出せていたように思います。

第 2話は、過去の感染爆発の危機と、今後の対応についてでした。新型インフルエンザは、鳥インフルエンウイルス H5N1からのウイルスの変異によって発生すると考えられています。鳥インフルエンザ自体も恐い病気で、過去の感染者 348人に対して、死者は 216人に上るといいます。

実は、インドネシアで新型インフルエンザのヒト-ヒト感染がありました。感染者 7人、うち 6人が死亡。その後の調査で、このウイルスは世界的感染爆発パンデミックを起こす力を持っていないことが明らかとなりましたが、ヒト-ヒト感染を起こすことや、その致死率は驚異です。専門家の見方では、感染爆発は起こるかどうかではなく、起こることは確実で、「いつ起こるか」なのだそうです。

「タミフルがけしからん」と叩いている方が視聴率がとれるのかもしれませんが、新型インフルエンザの方が問題は深刻です。国民に危機意識がないことが最も深刻なのかもしれません。自分も第一線で働く身である以上、こうした疾患の情報を集めておかないといけないなと感じました。


潜水服は蝶の夢を見る

By , 2008年1月14日 5:37 PM

久しぶりに本を読んで泣きました。

本のタイトルは「潜水服は蝶の夢を見る (ジャン=ドミニック・ボービー著、河野万里子訳、講談社)」です。

著者は、フランスのファッション誌「ELLE」の編集長です。彼は、「Rocked in syndrome」に罹患し、左眼と首をわずかに動かせる程度の「寝たきり」になってしまいました。「Rocked in syndrome」は脳幹部 (中脳・橋・延髄の総称) の障害で起こり、日本語では「閉じこめ症候群」と呼ばれます。脳からの運動の命令は、通常脳幹部を通って四肢に伝わるのですが、脳幹部が障害されることによって、伝わらなくなってしまうのです。従って、彼は知的機能はクリアに保たれつつも、四肢を動かすことが全くできなくなってしまいました。ただし、頭頸部への運動神経の一部がスペアされ、左眼と首をわずかに動かすことができました。

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テンポ

By , 2008年1月12日 8:51 PM

String」という雑誌があり、定期購読をしています。弦楽器を中心とした音楽雑誌です。他の音楽雑誌と違うのは、楽器演奏者を読者としてターゲットにしていることです。

これまでヒロ・クロサキ、アーロンロザンドやアルバン・ベルク弦楽四重奏団のメンバーなどへの興味深いインタビューに加え、シモン・ゴールドベルクの誌上レッスン、N響永峰氏のユーモアたっぷりの裏話など、楽しませて頂いていました。

昔に比べると、引きつける記事が減ったように感じますが、最近また興味深い特集が組まれていました。

早川正昭氏への「”テンポ”が遅くなっている」というインタビューです。早川氏は同誌に「アンサンブルの泉」という連載を毎月されています。

今回は、テンポについての話です。色々とネタは尽きないのですが、ベートーヴェンのテンポについて解説した部分を紹介してみましょう。

まず、ベートーヴェンのシンフォニーのLPと放送されたものを録音したりして、とにかくベートーヴェンのシンフォニーの録音をできるだけたくさん集めたんです。そして、演奏時代順にテンポを比べてみたんです。そうしてグラフにしてみたんです。そうすると、現代に近づくほど、だんだんテンポが遅くなるんですね。

それで、そのグラフを点でつなぎ、ワインガルトナーの『提言』で書かれているベートーヴェンのテンポの値とつなぎ、ずっと過去にまっすぐ伸ばしていくと、ベートーヴェンの時代の時点で、彼が書いたメトロノームのテンポとぴったり合ったんです。逆算してぴったり合ったので、これは大変なことだと思ったんです。それまでは、そういう意識が私にはまったくなかったんです。

それから、いろいろ調べ始めました。かつては、ベートーヴェンの書いたメトロノームのテンポはおかしい、という意見が大勢を占めていましたよね。演奏が不可能だということもあって、テンポ設定はおかしい、と言われていました。現在でもその意見はあります。その上、昔は今よりテンポが遅かったはずだ、ということを言う人も沢山いました。

でも、その統計を取ったときに、ベートーヴェンのテンポ設定は正しいのではないか、と思ったのです。そして、調べれば調べるほど、ベートーヴェンの時代の方が演奏テンポが速くて、ベートーヴェンの書いたテンポ設定は正にそのとおりだということにならざるを得ないんです。

(中略)

しかし、バロック時代、一番速く弾く場合、器楽も声楽も同じなんですが、一秒間に十六個の音を演奏したそうです。

そのデータをもとに計算すると、ベートーヴェンの八番の四楽章のテンポ設定は全音符が84とベートーヴェンは書いていますが、80ならばバロック時代の演奏家は演奏できるはずなんです。

ベートーヴェンが84と書いたのは、バロック時代の演奏が進歩して84でも弾けるようになったから、そのように書いたのか、あるいは、ベートーヴェンが将来もっと演奏家が進歩して、それくらいのテンポでも弾けるだろうと考えて書いたのか、そのどちらかだと思うんです。

古い録音として、フルトベングラーの第九などを聴くと「あー、遅いなぁ」と感じるので、中には例外もあるのでしょうけれども、一般的には、時代と共にテンポは遅くなる傾向にあるようです。早川氏は、別のところで、「テンポは 100年間で 7%ずつ遅くなっていっている」と指摘していました。ただし、最近は古楽器ブームの影響を受けてか、特にバロック~古典派の音楽はテンポが速くなった印象があります。

何故テンポが速くなっていくかについてはですが、私は「大指揮者が年を取って反射神経が鈍くなって、テンポがゆっくりになっていき、周りがその影響を受けるのでは・・・」などと考えてみたのですが、早川氏は「一つ一つの音を大切にし、この音は良い音だから、しっかり聴いてほしい、ということで演奏していくと、テンポは自然と遅くなっていきますよね。」と述べています。

ベートーヴェンが、実際にどう考えていたかを、早川氏が推測しています。

 ベートーヴェンというのは、テンポというのは、だんだん速くなる、と思っていた節があるんです。

というのは、皆上手くなってくるだろう。だいたい誰でも個人的に上手くなっていくから、社会全体もだんだん伸びるだろう、と思っていた節があるんです。

それは、現代でもそうで、演奏というのはどんどん進化していくと皆、思っていますよ。

ベートーヴェンは晩年のハンマークラヴィーアの作品で、テンポをメトロノーム設定で書いて、自分でも弾いて、『このテンポで弾ける人はあと五十年くらい出てこないだろう』と言っているんです。

ということは、やはり彼は時代と共に演奏家は上手くなっていくだろうと思っていたんですね。だから、先読みしてテンポ設定をした可能性があるんです。

なるほどという感じです。確かに、昔と比べて、器楽演奏のレベルは上がっていると思います。「巨匠」といわれるレベルは別としてです。一般的には、メソッドの発達も大きいのでしょう。ヴァイオリンでは、パガニーニのカプリスやコンチェルトを音大生が弾く時代ですからね。

ベートーヴェン以外の作曲家についても、彼は語っています。

その頃の文献を調べると、とにかくテンポは皆速い。ベートーヴェンより少し後の時代を見ても、チェルニーやシューマンのテンポ設定は速くて弾けそうにないと思うものがあるんです。でも、当時は弾いていたと思うんです。

シューマンのトロイメライ、これは四分音符が 100なんです。これは勿論弾けないことはないテンポですが、現代で弾かれるようなテンポからすると相当に速く感じます。夢という雰囲気を出せるかどうか。

でも、シューマンはそのテンポでいいと思ったんでしょうね。ただ、クララが五十年くらい経ってから校訂版を出していますが、そこでは 80になっています。この 80のテンポだと雰囲気が出せないこともない、現代では 50か 60位のテンポが普通ですけどね。

我々の感覚からすると、80まではなんとか理解できますが、100になると納得できない、という感じですよね。でも当時はそのテンポだったわけです。トロイメライは組曲の中の一曲ですが、他の曲はもっと速いので、その中でテンポ100のトロイメライが出てくると、夢のような感じが出てくるのかもしれない。

ただ、そういうことが、現代の人にとって想像がつかないのは、無理がないことかもしれません。

そう聞くと、「トロイ・メライ」をテンポ別に聴き比べてみたい気がします。

私は、ベートーヴェンのヴァイオリン・ソナタを色々な演奏家のCDで聴き比べることがあります。例えばスプリングソナタを例にとると、どうもテンポが遅い演奏は好きになれません。自分でも演奏してみて、「昔はもっとテンポが速かったはずだ」と一人で思っていたのですが、本当に今よりテンポが速かったかもしれませんね。


「北欧」はここまでやる。

By , 2008年1月7日 11:21 PM

今週号の雑誌「東洋経済」は、「『北欧』はここまでやる」という特集でした。特集には、冒頭から引きつけられます。

 医療、年金、介護問題など、日本は今、社会保障にかかわるさまざまな難問に直面している。いずれも有効な解決策が見当たらない。

その背景にあるのは、社会の活力低下。つまり少子高齢化と格差社会の出現だ。OECD(経済協力開発機構)の調査では、日本は平均より半分以下の収入しかない国民の割合(貧困率)が、先進諸国の中でアメリカに次ぐワースト2位なのだ。「一億総中流」の時代はとうの昔に終わってしまった。

日本だけではない。市場経済を重視して規制緩和を求める「新自由主義」が世界に成長と反映をもたらす一方、貧富の格差は世界的な課題になりつつある。1990年代終わりから「第3の道」を標榜し、新自由主義と福祉政策を融合させようとした英国は、確かに福祉政策で一定の成果を上げた。だが、その水準は決して高くない。世界中が福祉政策とどう向き合うか、模索を続けているのだ。

経済成長を望むなら、”平等”は犠牲にしなければならないのか。

95年から2006年までの1人当たりのGDP伸び率と、平等性を図る指数であるジニ計数との相関を調べると、興味深い事実が浮かび上がる。GDPの高い伸びを示しているのは、むしろ所得の平等性が高い国々(ジニ係数の低い国)が多いのだ。少なくとも、ここからは成長と平等がトレードオフの関係にあるとはいえない。やはり、健全な中間層の存在こそが、経済社会を成立させる前提ではないのか。

格差社会の問題は、実は GDP成長率と大きく関わっていることが示唆されています。上記の文章の後に続くのは、経済開放が進んだ中国などを除くと、英国、北欧諸国など福祉政策に積極な国に GDP成長率が高い国が多いのだという事実です。

北欧諸国の社会保障政策は、高福祉、高負担として知られていますが、何故経済成長が可能なのかを、その後で論じています。その答えは、「産業構造が国内の需要と一致しやすい構造となっている」ためなのだそうです。日本の産業構造の象徴として、需要に乏しい道路を作り続けることなどが思い浮かぶことを考えると、説得力がありますね(少なくとも高度経済成長の頃には、それは需要の中心でした)。これからは、産業構造を国内の需要に合わせてシフトしていくことが大事なのではないかと考えさせられます。そうすると、介護とか、福祉は需要が多いのではないでしょうか。力を入れるべき方向性が見えてくる気がします。

そんな北欧の国、スウェーデンでも、医療問題は深刻なのだそうです。最大の問題はアクセス制限で、2006年には国民の 40%が医療へのアクセスが問題だとしています。そもそも、日本での年間受診回数 13.8回に比べて、スウェーデンでは 2.8回 (!) なのだそうです。また、「2006年 4月時点で、3ヶ月以上の専門医の診断を待つ患者はおよそ 5.7万人、手術を待っている患者は 2.3万人にも上る」のだそうですから、医療については、どの国も苦労してますね。

ここからは余談ですが、冒頭で述べた格差社会については、東洋経済の「日本人の未来給料」という特集で、面白い記事があります。年収 2000万円超の人はバブル以降 1.9倍に増えているとか、純金融資産 1億円以上のミリオネアが日本には 80万世帯以上存在するという一方で、生活保護を受ける世帯が急増(全世帯の 2%)しているとか、3人に 1人が非正社員だとか、二極化が進んでいるのがわかります。


歩を「と金」に変える人材活用術

By , 2008年1月5日 9:45 PM

「歩を「と金」に変える人材活用術(羽生善治、二宮清純、日本経済新聞出版社)」を読み終えました。

棋士の羽生善治氏とスポーツジャーナリストの二宮清純氏の対談集です。

羽生氏の着眼点にはいつもはっとさせられます。着想が豊かです。本人にしては自然な発想でも、周囲から見ると新鮮に感じさせるのは、将棋の羽生マジックと通じるところがあるのでしょうか。

羽生:私、思うんですけど、能力ってきっちした普遍的なものがあるわけじゃなくて、その時代時代の社会から求められてるものを能力と呼ぶんじゃないかと。ある社会、ある組織から求められる能力って、つねに変化し続けている。だから、ある組織から別の組織に移った人が活躍できるかどうかって、「いかにマッチングさせるか」というマネジメント次第だと思うんですよ。決して本人だけの問題じゃない。成功するかどうかは、組織を運営する人のマネジメント能力にかかってる気がしますね。

私は、異動の多い大学勤務医ですので、マネジメントの問題については凄く理解できます。医師の力を最大限に引き出すか、能力の発揮出来ない状況に置くか、マネジメントの部分は大きいですね。

対談者の二宮氏も、様々なスポーツ業界の内情に精通しているのみならず、独自の視点を持っています。対談中、日本人の哲学について、はっとさせられる部分がありました。

羽生:新しいアイデアが出てもすぐ共有されて、創造した人のアドバンテージは失われる。それはスポーツでもまったく同じだと思うんです。でも、真似されやすいものと、されにくいものがあるでしょう。例えばスキーの萩原健司がV字ジャンプで一世を風靡したけれど、すぐ真似されちゃった。一方、野茂のトルネード投法はあれだけ騒がれても、誰も真似しないじゃないですか。その違いは何なのでしょう?

二宮:いや、V字ジャンプというのは萩原が発明したんじゃなく、実はヨーロッパで生まれたものなんですよ。

羽生:あっ、そうだったんですか。

二宮:ヨーロッパで生まれたものを、萩原ら日本人選手が研究してマスターした。それをヨーロッパが逆輸入した感じなんですよ。やっぱりそういう改良型のイノベーションというのは、日本人の得意分野なんですね。

羽生:じゃあ、その後、日本のスキー界がいまひとつふるわないのは、テクニックを盗まれたのが原因じゃないと。やっぱりルール変更の影響なんでしょうか。たしかスキー板の長さを・・・。

二宮:身長の一.四六倍に変更されましたよね。現在ではさらに体重も加味して長さを決めますが、あれで圧倒的に不利になった。日本人は身長が低いぶん短い板を使わなきゃいけないから、浮力が得られない。長野オリンピックのジャンプ競技では、ラージヒル個人で金と銅、ノーマルヒル個人で銀。団体でも「日の丸飛行隊」と呼ばれた原田雅彦、岡部孝信、船木和喜、斉藤浩哉のチームで金。もう圧倒的な強さでした。ところが、次のソルトレーク大会以降はさっぱりです。

羽生:ルール変更は長野とソルトレークのあいだの話ですよね。

二宮:だから、ルール変更の影響がはっきり出た形です。ただ、当時、「日本人はいじめられている」みたいな反応が多かったけれど、それはちょっと短絡的なんです。ヨーロッパ人に聞くと、「長野では日本に花をもたせてやったんじゃないか。日本が勝たなきゃ客が入らない。メダルをあれだけとれたから、長野は大成功したんだろう」と。

羽生:ああ、興行の観点から・・・。

二宮:そうなんです。アマチュアとはいってもオリンピックはビジネスですから、興行の論理で考える。「だから、今度はルールを変えて、うちが勝つようにしてくれよ」と。お客さんが入らないスポーツはダメだという哲学が根底にある。でも、日本人はルール変更に負けたんじゃないと僕は思うんです。「ルールは変えられないものだ」と日本人が思い込んでいるところに最大の問題がある。

羽生:たしかにそういうところがありますね。学校教育の影響なんでしょうか。

二宮:子供の頃から「ルールを守れ」とは言われても、「ルールを作れ」とは言われませんからね。ルールは守るもんだと思って育っちゃう。一方、欧米人にとってのルールというのは、「人間がよりよく生きるため、人生を面白くするための手段」にすぎない。競技を面白くするためにルールを変えるのは、彼らにとっては当然の話なんですね。

羽生:日本人の感覚だと、なかなかルールに手をつけるというのは・・・。

二宮:ルールって、「指一本ふれちゃいけない神聖なものだ」と思っていますよね。だから、ルール改正の会議とかでは欧米人に比べて日本人の発言は消極的です。終わってから文句を言うことが多い。やっぱり小さなときからルールを作る感覚、そして「自分が作ったから守るべきなんだ」という感覚を育てていかなきゃいけないと思います。

確かに、ルールを作るという意識は普段持っていませんでした。今後は少し意識してみたいと思いました。


神経内科病棟

By , 2008年1月4日 4:00 PM

「神経内科病棟(小長谷正明著、ゆみる出版)」を読み終えました。

小長谷先生の本は、これまでに「ヒトラーの震え 毛沢東の摺り足」や「神経内科-頭痛からパーキンソン病まで- 」を紹介したことがあります。文章が上手ですし、内容がしっかりしていて読みやすいです。

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