猿橋勝子という生き方

By , 2012年8月10日 8:55 AM

猿橋勝子という生き方 (米沢富美子著、岩波書店)」を読み終えました。猿橋勝子氏は日本の女性科学者の草分けで、「猿橋賞」の創設者としても名を残しています。

猿橋氏の時代は女性のアカデミックへの道は限りなく狭いものだったそうです。

 猿橋が第六高等女学校を卒業した一九三七年には、高女卒業後に正規の高等教育機関に進学した女性は、同年代の女性の約0.6%に過ぎなかった。

そのような時代に、猿橋氏は、当初医師になることを志し、東京女子医専 (現・東京女子医科大学) を受験しました。1941年、21歳であった猿橋氏は東京女子医専の創始者、 70歳の吉岡彌生の面接を受けました。その時の様子を彼女は後に繰り返し人に語っています。

面接試験は二つの部屋で行なわれた。私は当時校長であった吉岡彌生先生のいらっしゃる部屋に入る順番となった。吉岡にお会いするのは、はじめてであった。かねて尊敬する先生とお会いすることに、私はうれしくもあったが、面接試験ということに、多少の不安もあった。

先生の前の椅子に腰をおろした私に、先生は「どうしてこの学校を受験しましたか」とおっしゃるので、私は「一生懸命勉強して、先生のような立派な女医になりたいと思います」とお答えした。すると先生は、天井の方を見上げながら、カラカラと笑われた。そして、「私のようになりたいですって。とんでもない。私のようになりたいといったって、そうたやすくなれるもんじゃありませんよ」とおっしゃったのである。私は、びっくりして、先生の顔を見つめていた。そして先生への尊敬の念がしだいに後退し、女子医専に入学することへの期待は、大きな失望に変わっていった。

このようなことがあり、彼女は合格した東京女子医専を辞退し、開校したばかりの帝国女子理学専門学校 (現・東邦大学理学部) に一期生として入学しました。そして戦争に協力していった吉岡彌生とは対照的に反戦の姿勢を貫きました。

大学在学中、猿橋氏は生涯の付き合いとなる三宅泰雄氏の研究室を訪れ、ポロニウムの研究を行いました。卒業後は「戦争に協力するのは嫌」という理由で、中央気象台に就職しました。中央気象台では当初オゾン層について研究していたそうですが、1950年頃からは水中に溶解した炭酸物質の研究を始めました。彼女は「微量拡散分析装置」を開発し、塩素量・水温・pHに対する炭酸物質の存在比を表にしました。この「サルハシの表」は国際的に高く評価され、数十年に渡って使われたそうです。

1954年3月1日、ビキニ環礁でのアメリカの核実験で第五福竜丸が被曝したことで、彼女に転機が訪れます。

炭酸物質の研究に加えて、第五福竜丸の死の灰被災事件を機に、私は死の灰の地球化学研究にもたずさわることになった。核兵器爆発によって大気中に放出された死の灰が、大気、海洋の中をどのように行動するかを追跡する仕事である。アメリカのネバダで核爆発すると、その影響は、日本に約三週間で達し、また中国の核爆発の影響は二、三日で日本に到達することが明らかになったのは、私たちの研究室の成果の一つである。

「海洋上に落ちた死の灰が、表面から深海に拡散していく速さが予想以上に速く、わずかの五、六年で六千メートルの深海に到達することも、私たちの研究からわかった」

彼女達は海水や雨水中のストロンチウム九〇やセシウム一三七を測定しました。ところが、これらの結果 (例えば、1960年の日本近海のセシウム一三七の濃度は、海水 1Lあたり、 0.8~4.8×1012キュリーだった) を発表して核実験による大気汚染の深刻さを警鐘を鳴らしたところ、アメリカの研究者から「日本側の分析の不備」を指摘され、データは信用されませんでした。この問題に決着をつけるため、猿橋氏は単身アメリカに乗り込みました。

1962年、猿橋氏はサンディエゴにあるカリフォルニア大学スクリップス海洋研究所で、フォルサム博士らとセシウム一三四の回収実験で雌雄を決することになります。そして、より難度の高い方のサンプルを用いた上で、より高い回収率を上げ、分析競争に勝利しました。この分析競争の結果により、アメリカの原子力委員会も日本のデータを認めざるを得なくなり、「核実験は安全」だというアメリカの主張の根拠が崩れました。地上核実験廃止にも影響を与えたそうです。

この本は、歴史に影響を与えた日本人科学者「猿橋勝子」のことを知ることのできる素晴らしい本ですので、興味のある方は読んでみてください。

(追記)

日本近海のセシウム 137について、1959年の Natureにこのような論文を見つけましたが、私が所属する研究所からだと有料でした。どこか無料でアクセスできる研究所に行く事があれば読んでみたいと思います。

Concentration of Cæsium-137 in the Coastal Waters of Japan (1959)

NOBORU YAMAGATA

Institute of Public Health, Tokyo. Aug. 14.

I HAVE analysed bittern and carnallite of industrial origin and deduced the concentration of cæsium-137 in the coastal waters in early 1958 of Japan as 70–150 µµc. kgm./l.1 Recently, by application of a low-level β-counting equipment, cæsium-137 has been successfully determined by direct treatment of 6–20 litres of sea-water.

 

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