弦が切れたとき

By , 2011年4月23日 11:10 AM

4月22日はラロの命日でした。ラロの「スペイン交響曲」は、小学生の頃発表会で演奏した思い出の曲です。まぁ、弾くのと弾けているのは違うのであって、あくまで「弾いた」だけです。ラロのヴァイオリン協奏曲第1番と、2番「スペイン交響曲」を初演したのはかの有名なサラサーテというのは知られた話です。

Youtubeでラロの「スペイン交響曲」を鑑賞していたら、面白い動画に出会いました。事件が起こったのは最後の動画ですが、せっかく良い曲なので、全曲通して聴いてみてください。

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論文捏造疑惑

By , 2011年4月20日 8:08 AM

獨協医科大学内分泌代謝内科の論文不正疑惑について追及したブログがあります。

この問題について、同大学の小鷹昌明神経内科準教授がコメントされています。小鷹教授は Guillain-Barre症候群など末梢神経の免疫疾患での世界的権威です。

良いとか悪いとかのみの問題ではなく、もっと深いところに根がある問題だというのが、文章からわかります。サイエンスに関わる人間には、是非読んでみて頂きたいと思います。

論文捏造疑惑

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モーツァルトを「造った」男 ケッヘルと同時代のウィーン

By , 2011年4月16日 9:55 AM

「モーツァルトを『造った』男 ケッヘルと同時代のウィーン (小宮正安著、講談社現代新書)」を読み終えました。モーツァルトを「造った」という表現がタイトルにありますが、モーツァルトが生きた時代にはモーツァルトよりハイドンの方が有名であり、モーツァルトは様々な政治的な要因があり、後世ウィーンの音楽の象徴となった訳です。もちろん音楽自体のすばらしさは言うまでもありませんが、ケッヘルがモーツァルトの楽譜を集め、散逸を防ぎ、ほとんどの作品を網羅した目録を作り上げていなければ、今日ここまでモーツァルトの楽曲は耳に出来なかったかもしれません。モーツァルトがいかにして今日の姿に造られたかは、是非本書を読んで頂ければと思います。

音楽の勉強をしていると、「時代背景を勉強しなさい」と言われますが、本書を読んでモーツァルトやケッヘルの置かれた時代の流れがとても勉強になりました。特にウィーン旅行を考えている方には、是非読んで頂きたい一冊です。

以下、備忘録。

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Happy birthday songs

By , 2011年4月16日 9:55 AM

以前、Happy birthday songの動画をいくつか紹介しました。Violin演奏で、超絶技巧を散りばめた Happy birthday songを見つけたので紹介します。

・Happy Birthday Violin Variations — Rachel Barton Pine

凄い技巧的な曲ですね。途中はパガニーニを聴いているようでした。それにしてもヴァイオリニストが上手です。

下の動画はおまけ。

・Happy Birthday / Chamber Orchestra Kremlin

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Rescue 311

By , 2011年4月16日 9:30 AM

医療機関にアクセス困難な被災地の患者さんからの医療相談に答えるメールサービス「Rescue 311」。私も参加していて「中の人」ですが、答える側のシステム操作に慣れるため、トレーニング中です。

Rescue 311

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再び被災地へ

By , 2011年4月11日 8:33 AM

4月11~13日、再び被災地にボランティアで行ってきます。前回同様、本吉地区を中心に活動する予定ですが、状況次第で別の場所になる可能性もあります。  2週間振りになりますが、復興のムードが感じられれば幸いです。大きなことは出来ませんが、コツコツとやってきます。  本日 13時にジャパンハート事務局に集合して、出発です。

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東北の日本酒

By , 2011年4月9日 12:17 PM

テレビで、気仙沼の酒蔵「男山本店」のことを放送していました。日本酒を醸造するときに熱が発生するので機械で温度管理をするのですが、震災によりそれが機能しなくなり、スタッフが泊まりこんで氷を使って温度管理したそうです。こうして今年の日本酒が完成しました。「蒼天伝」、是非飲んでみたいものです。

男山本店

また、東北地方の酒蔵は「自粛」による二次被害を心配していることが、下記の動画から伝わってきます。

・被災地岩手から「お花見」のお願い②【南部美人】

東北の日本酒を飲むことでも、現地を支援したいです。「東日本大震災の被災地の酒蔵リスト」「東日本大震災の被災地の酒蔵リスト」が、日本酒を買うときに参考になります。

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JR貨物

By , 2011年4月9日 11:37 AM

私が 3月 27日に宮城に着いたとき、ガソリンは徐々に手に入りやすくなってきていました。こうした流通にかける人たちのおかげだったのですね。感謝です。

 JR貨物、不屈の鉄道魂 被災地へ燃料、壁乗り越え達成

被災地の燃料不足が深刻化する中、ガソリンと軽油を積み込んだ「石油列車」が19日夜、盛岡貨物ターミナル駅(盛岡市)に滑り込んだ。震災後初めてとなる列車による燃料の大量輸送。輸送を担ったJR貨物には、被災によるルート変更、迅速なタンク貨車の手配などさまざまな課題がのしかかった。

正規ルートは壊滅

新宿駅近くにあるJR貨物本社。1カ月前に移転したばかりの真新しいオフィスは、震災以来、沈痛な空気に包まれていた。首都圏と東北を結ぶ東北線、迂回路(うかいろ)の常磐線が深刻なダメージを受け、東日本がほぼ機能不全の状態に陥っていたのだ。

テレビに映る被災地の惨状に社員は声を失った。さらにガソリンスタンドは長蛇の列、ストーブの燃料もない避難所には雪が積もっていた。燃料を早期に大量輸送できるルートが求められているのは明らかだった。

14日夕、4階の会議室に各部署の主要メンバー30人が集まった。狭い室内に沈黙が続く中、誰かが声を上げた。「石油を運ぶぞ。日本海側から」。応じる声がすぐに上がった。社員の“鉄道魂”に火がついた瞬間だった。

「思いは同じだ」

盛岡貨物ターミナル駅には、タンク貨車からタンクローリーに石油を移す施設がある。かろうじて“生きている”日本海側の線路を使い盛岡まで運ぶ。そこからタンクローリーで、被害の少ない内陸部の道路を南下、東に方向転換し、ピンポイントで最大の被災地、三陸沿岸集落に輸送する案が持ち上がった。

昼夜を問わずに断続的に開かれた対策会議で、いくつもの課題が浮き彫りになった。運行管理の担当者は「日本海ルートで石油を運んだ実績がない」と天を仰いだ。

重いタンク貨車に、レールや橋脚が耐えられないかもしれない。技術担当者がすぐに線路の管理者であるJR東日本に電話を入れた。「タンク貨車が通れるか、至急シミュレーションしてほしい」

こうした試算は通常、長期間かかるが、JR東から返事が来たのは翌日だった。「大丈夫だ。いける」。答えを聞いたJR貨物の担当者はJR東の迅速な対応に「輸送にかける思いは同じだ」と胸が熱くなった。

発送前倒し 応えたJX

次は積み荷の手配だ。15日、営業担当者は、恐る恐る連絡を入れた。相手は元売り最大手のJX日鉱日石エネルギー。どの元売りも製油所が停止するなど、大打撃を受けていた。「輸送できます。いつから(石油を)出せますか」。相手は待っていたかのように応えた。「19日に出せる」

その夜のJR貨物の会議で、ある幹部が思わぬことを口にした。「18日に出せないか」。その場に居合わせたある営業担当の男性社員は「政府の意向だ」と感じ取った。JXもあらゆる手を打ち、18日に間に合わせた。

横浜市の根岸製油所で燃料を積み、丸1日かけて盛岡に運ぶ。青写真はできた。しかし、技術担当者は「できるだけ軽いタンク貨車を使うべきだ」と主張した。線路の耐性への疑念が消えなかったのだ。

コンテナリース会社、日本石油輸送には40年以上前から使われ、退役間近のタンク貨車「タキ38000型」が36両残っていた。積載量は少ないが、一番軽い。「できるだけかき集めてほしい」。JR貨物の要請で、17日までに18両が集まった。

18日午後7時44分、電気機関車「EF210型」に牽引(けんいん)され、ガソリン、軽油合計792キロリットル、タンクローリー40台分を積んだタンク貨車18両が、根岸駅を出発した。列車には8人のベテラン乗務員が交代で乗り込んだ。「乗務員は担当区間では踏切や信号はもとより、レールの状況も正確に記憶している」(同社広報)。不測の事態に備え、短い距離で運転を代わる万全の体制を敷いた。

タンク貨車が盛岡駅に到着したのは19日午後10時過ぎ。待ちわびた多くのタンクローリーに石油が次々に充填(じゅうてん)され被災地へ向け走り出す。バトンは確かに引き継がれた。21日からは1日2便に増便しており、25日からは根岸→郡山(福島県郡山市)への輸送も始める。

収益悪化や設備の老朽化などをたびたび指摘されてきたJR貨物だが、日本の非常時に鉄道輸送の存在感を見せつけている。(高山豊司)


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2時50分

By , 2011年4月9日 11:19 AM

芸人の江頭2:50がボランティアでいわきに物資を運んできた話がネットで話題になっています。震災は2時46分でしたが、「多くの人が3月11日の2:46で時が止まってる中、この漢が4分、時を進めた」という書き込みもありました。

この件で、本人がニコニコ動画で真相を語っています (最初~18分までの部分)。最後は江頭2:50らしい収束w

「江頭2:50のピーピーピーするぞ!」第135回

感動的な動画なので是非見てみてください。動画ほどは伝わりませんが、見る暇がない方は、テキスト版をどうぞ。

江頭2:50が物資支援の真相激白「お金ないからさ。体で払ってきただけ」。

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Google

By , 2011年4月9日 10:55 AM

熱い会社ですね。何故、世界をリードする IT企業であり続けるのか、わかるような気がしました。

「自動車・通行実績情報マップ」には御世話になりました。

地震、その時Googleは 「1秒でも惜しい」と怒涛の開発、海外にもバトンつないで

ITmedia News 4月5日(火)10時4分配信

3月11日金曜日。東日本大震災の直後から、六本木ヒルズ(東京都港区)26階にあるGoogle日本法人のオフィスの一角に、技術者など十数人のスタッフが集まっていた。小さなこたつ机を囲み、ひざを突き合わせる。「われわれに何ができるのか」――真剣な議論と開発の日々が始まっていた。

●「いかに早くリリースするか」 オフィスを小走りで移動、リポDの山も

こたつ机を囲んだメンバーの1人が牧田信弘プロダクトマネージャーだ。普段はモバイル向けGoogleマップを担当しているが、地震後はすぐに米国オフィスと連絡を取った同僚とともに、人の消息情報を登録・検索できる「Person Finder」の準備に取り掛かった。

Person Finderは、昨年1月のハイチ地震の際にGoogleが公開したシステム。昨年2月のチリ地震や今年2月のニュージーランド地震でも利用されている。牧田さんらはPerson Finderのユーザインタフェースを日本語化し、地震から2時間足らずで公開した。

被災地からも手軽にアクセスできるよう、すぐに携帯電話版の開発にも着手。その日のうちにリリースした。口頭で伝えやすいよう、Person Finderの短縮URL「http://goo.gl/sagas」も準備したほか、災害情報をまとめた特設ページも用意した。

牧田さんらはオフィスに泊まりこみ、睡眠もほとんどとらず、開発を続けていた。「いかに早く(サービスを)立ち上げるか」に注力。「1分1秒でも惜しい」と、オフィスで10メートルほどの距離を移動するにも小走りだった。「直接話したほうが早い」と、打ち合わせはチャットを使わず、顔を見ながら進めた。「ベース(基地)だった」というこたつ机には、栄養ドリンク剤「リポビタンD」の山ができた。

●海外オフィスのスタッフも協力 丸い地球でバトン渡して

その後もGoogleは震災対応のサービスを立て続けに公開していく。計画停電情報をまとめたGoogle マップ、翻訳アプリ「Google Translate」の日本語向け機能強化など、2週間のうちに30件ほどリリース&アップデートした。

本田技研工業からデータ提供を受けて始めた「自動車・通行実績情報マップ」や、TBSやテレビ朝日などが撮影した被災者からのメッセージ動画を集めたYouTubeの特設チャンネルのように、他社との連携も積極的に進めた。

震災関連のプロジェクトリストを作って社内で公開すると、手の空いている技術者がすかさず協力を申し出る――そんな状況だったという。米国やオーストラリア、韓国などGoogleの海外オフィスのスタッフも開発に加わっていった。

日本のスタッフが寝ている間に海外のスタッフが代わりに開発し、朝起きたら完成している――というケースもあった。「Googleはグローバル企業なので、時差のあるところに誰かがいてサポートできる。丸い地球でバトンを渡しながら開発が進んでいた」。

●Googleがボランティア募集、5000人協力

3月14日に公開した避難所名簿共有サービスは、技術者ではないスタッフの発案だった。Google日本Blogは「未曾有の大地震と津波の被害に遭われた皆さまのために私たちができることができないか、ずっと考えています。その中で、ひとつのアイデアを実行に移すことにしました」と紹介した。

避難所名簿を写真に撮ってメールで送ると、自動でPicasaウェブアルバムにアップロードし、全体公開する仕組み。さらにGoogleの約200人のスタッフが手作業で写真の情報をテキストに起こし、Person Finderに入力していった。走り書きのメモなど不鮮明な写真も多い中、間違いは許されない根気のいる作業。「みんな血眼になっていた」。

投稿写真が増えるにつれ、Person Finderへの入力作業が追いつかなくなったため、ユーザーにも協力を呼びかけた。集まったボランティアは5000人。入力作業の手順をまとめたWikiページを自発的に作ったユーザーもいた。

PicasaからPerson Finderへ登録した情報は3月29日時点で14万件にのぼった。Person Finderには警察やマスメディアが提供した情報も加わり、現在は60万件以上が登録されている。「Person Finderのおかげで親戚の無事が分かった」と、感謝を伝えるはがきもGoogleに届いた。ネットなどで見かける「ありがとうGoogle」という言葉を励みにしていたと、牧田さんは語る。

震災後、必要とされる情報は日々変化している。Googleが提供するサービスの中心も、Person Finderなどの安否情報から、今後は生活情報へシフトしていく予定だ。「インターネットにアクセス不可能な地域の方に、どのように情報をお届けできるかについては、引き続き模索していく」――Google日本ブログにはこんな宣言も載っている。

現在、Google日本法人のスタッフは以前と変わらず主に東京のオフィスで仕事を続けている。一部の社員は震災後、普段の業務そっちのけで、震災関連のサービス運営にあたってきた。「20%ルールどころか100%フル稼働」と明かす。

「我々のミッションは、情報を整理していかに早く見やすく届けるかということに尽きる。散らばった情報を1つにするのはわれわれにしかできない。疲れていても元気です」と牧田さん。Googleの挑戦は続いている。【宮本真希,ITmedia】

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