アルコールを愛する友へ

By , 2008年5月14日 10:22 PM

最近、非常に面白い論文を読んだので紹介します。

岩田誠.Alcohol as a good servant. 東京医学 94: 159-162, 1987

“アルコールと医学” というテーマで論ずる場合、アルコールの害が述べられることになるのは当然といえよう。実際、この bad masterに仕えることになった人間の辿った運命の悲惨さは、古今東西誰一人知らぬものはない。若山牧水、種田山頭火、Paul Verlaine、Stephen Foster・・・思いつくままにあげてみても、その限りなく気高い魂と溢れる才能を、永遠の暴君に献上してしまった人を数えることは容易である。

しかし、good servantとしてのアルコールの役割を忘れることはいささか不当といわざるをえまい。ここでは、このような good servantとしての系譜を博物誌的に辿ってみることにしたい。

酒飲みの興味を一気に引きつける冒頭です。心の中で快哉を叫びたくなります。

最初に紹介されるのが、消毒薬としてのアルコールの効能です。西洋では13世紀くらいから、ワインを消毒に使うことがあったようなのですが、細菌学の父 Kochによって否定的に評価され、一時的に使用されなくなりました。しかし、現在病棟で「酒精綿」など使いますから、アルコールの効能は明らかですね。

続いて、病理学におけるアルコールの役割です。

 アルコールは脳の解剖学においても大きく貢献したことに触れなければならない。マリー・アントワネットの侍医の一人であり、王立医学アカデミーの終身事務局長であった Vicq d’Azyr (1748~1794) は、今日の大脳解剖学における乳頭視床路、すなわち Vicq d’Azyr線条とも呼ばれている。これらの冠名の基となった彼の研究の独創的な点は、脳の固定にアルコールを用いたということにあった。

(中略)

しかし、なんといっても脳解剖とアルコールについての最も劇的な物語は、Franz Nissl  (1860~1919) による Nissl染色の発明である。若冠 24歳、まだミュンヘン大学の学生であったとき、神経細胞を特異的に染色する方法はあるかという懸賞論文に応募した Nisslの用いた染色法の秘訣は、微頭微尾アルコール固定を行うことにあった。筆者はかつて医科歯科大学解剖学教室に在職中、萬年 甫教授の指導の下に人脳の Nissl染色を行ったが、固定には最初からアルコールを用い、しかも毎日毎日 8lくらいは入ろうかという大きな容器一杯のアルコールを惜しみなくとり替えていくというはなはだ豪快な固定法にびっくりした記憶がある。”フンダンにアルコールをとり替えるのが、うまく染めるコツです” といわれながらも、いささか勿体ないなぁという表情を隠されなかった萬年教授の”複雑”なお気持ちの察せられるのが大変印象に残った。年の暮となり、毎朝とり替える純アルコールに白い濁りがなくなる頃”そろそろ交換しなくてよいでしょう”ということになったが、そのころにはアルコール固定で元の半分ほどに縮みあがり、コチコチに固くなった脳を前にして、萬年教授から、この染色法を考え出した Franz Nisslこそ無類の potatorであり、晩年の彼の脳は、”ほとんどそのまま Nissl染色ができるほどだった!!” という話をうかがい、なるほど、となんとなく納得したことを思い出す。かくして正月休みが明け、とり出した脳を眺めながら一句:酒びたりポンス (橋) の初夢固定され。

私は病理学には疎いのですが、病理学にこんな歴史が隠されていたなんて知りませんでした。ニッスル染色は、現在でも神経の染色で中心的な役割を果たしています。大酒飲みが開発した、固定の段階でアルコールをたっぷり使った染色法が、神経病理学の発展に欠かせないものだという事実を知ると、感慨深いものがあります。

それにしても、著者の俳句のオシャレなこと!

治療薬としてのアルコールの役割もまた、無視することができない。筆者らが医者としての最初の日々を病棟で過ごした頃、食欲の出ないやせ細った患者さんへの処方としてよく出したものに、Rotwein-Limo (すなわち赤ワイン 10ml, 希塩酸 0.5ml, 単シロップ  8.0mlに常水  ad 100 ml) があった。アペリチフとしてのアルコールの効用はもうすでに確立したものであり、ヨーロッパの病院ではワインのついた食事が出ることさえもあるのだが、わが国の保険診療ではアルコールは治療薬として認められないとのこともあり、今日の大学病院ではなかなかそこまでできないのは残念である。

論文では、アルコールの食欲増進作用の他に、本態性振戦、ミオクローヌスにおける効果、アルコール神経ブロックも紹介されています。是非読んでみてください。

治療薬としてのアルコールについて、私の個人的な経験を書きます。電子カルテやオーダーリングシステムは、薬の最初 3文字を入力すると、候補の薬剤が表示されるのが一般的ですが、研修医の頃、低血糖の患者に「ブドウ糖」を処方しようとしたことがありました。私が「ブドウ」と入力すると「ブドウ酒」「ブドウ糖」という選択肢が表示されたのです。本当にびっくりしました。この論文を読んで知りましたが、昔は酒を出すこともあった名残なのですね。私が入院したら是非ブドウ酒を出して頂きたいものです。しかし、それ以後、いろんな病院で勤務するたびに調べてみるのですが、「ブドウ酒」が選択肢として表示されることがなく、寂しい思いをします。

さて、それでは今からアルコールを飲んで、Nisslら過去の偉人達を偲ぶこととします。

Post to Twitter


Leave a Reply

Panorama Theme by Themocracy