神経学の源流1 ババンスキーとともに-(1)

By , 2008年12月23日 10:04 AM

「神経学の源流1 ババンスキーとともに-(萬年甫訳編、東京大学出版会)」を読み終えました。

本書の第一章は「ババンスキーとシャルコー」と題されています。冒頭部分を紹介します。

 第1章 ババンスキーとシャルコー

「ババンスキーの研究がなかっったなら今日の神経症候学はどうなっているだろう。」ギラン・バレ・ストロール症候群で知られるジョルジュ・ギラン  G. Guillainはババンスキーに対する追悼の辞の中でふかい感慨をこめてこう語っている。神経学史上それほど大きな存在であったその人がどのような生涯を過ごしたかをまずふりかえって見よう。

ジョゼフ・フランソワ・フェリックス・ババンスキー  Joseph Francois Felix Babinskiは、1857年 11月 2日パリに生まれた。そこに生まれ、そこで死んだので生粋のフランス人と思う人もあるかもしれないが、実はポーランド系である。ポーランド系で、フランスで不滅の業績をあげたものに、音楽家のショパン  F. Chopin、物理学者のマリー・キュリー  Marie Curie、哲学者のベルグソン  H. Bergson等があるが、このババンスキーも当然これらの人々と同列に加えられるべき巨匠である。

彼の父アレクサンダー  Aleksanderは科学的素養をゆたかに積んだ技師であったが、1848年ロシアの圧政に対するポーランド人の反乱の際にこれに加わった。利あらずして戦に敗れ、シベリアに流されるのを避けてパリに亡命した。1855年にはアンリ  Henriが、2年後の 1857年には弟のジョゼフ  Josephが生まれた。しかし、ポーランドで新たな反乱がおこったときくや、愛国者アレクサンダーは家族を残してポーランドに向かった。1864年決定的に敗北し、ほうほうの態で家族のもとに戻ったが、落ち着く間もなく翌年彼はペルーに職を求めて海を渡っている。そこでも運悪く内乱が渦をまいていた。任務を終えてパリに帰ると、またもや戦乱が彼をまっていた。その後彼は鉱山学校の図書司の地位を得たが、後年パルキンソン病にかかり、1899年に世を去っている。

Babinskiの父が Parkinson病だったというのは、何か奇遇な気がします。Babinskiが神経学を志すのに、何か影響はあったのでしょうか?

Babinskiの兄は技師となって兄の後を継ぎましたが、Babinskiは医学の道を志すこととなり、1879年アンテルヌとなりました。アンテルヌはインターンに相当し、実に狭き門であったらしいです。というのは、競争率が 10倍前後あり、生涯 5回までしか受験が許されないからです。彼は 22歳という異例の若さでした。1855年に Babinskiはパリ大学医学部の病理解剖学の助手として、ヴュルピアン E. F. Vulpianの指導の元に「多発性硬化症の解剖臨床的研究」と題する学位論文を纏めました。Vulpianと言うと、Vulpian拘縮を思い出します。その頃、J. M. Charcotのところで外来医長の席が空き、Charcotの元で勉強することになりました。1890年、パリ病院医師の資格を得て、ピチエ病院の神経内科の長となりましたが、教授資格試験には落ちました。これには、地位を巡る争いがあったためと云われています。

Babinskiは以後長きにわたりピチエ病院に勤務しました。また、ブリッソー Brissaud、ピエール・マリー Pierre Marie、デジェリーヌ J. J. Dejerine、スーク A. A. Souque等とともにパリ神経学会を立ち上げました。研究にも熱心に取り組み、Babinski徴候、脳脊髄梅毒患者におけるアーガイル・ロバートソン瞳孔、小脳の症候学 (特に AsynergyとAdiadochocinesis)、深部及び表在反射、大腿躯幹連合運動、一側延髄障害などに業績があります。これらは、現在でも神経学的診察の中心となる概念です。また、筋萎縮の際して筋紡錘は特に抵抗があることを突き止め、ミオパチーでは筋の成長速度と侵されやすさに関係がある、則ち「病理学と発生学は密接に関係している」見解をいだくに至りました。多発性硬化症において、軸索が破壊されず、髄鞘が変性することを証明しました。これは「古典」として揺るぎない事実となっています。ヒステリーと器質的疾患の鑑別でも多大な貢献をしました。

彼はオペラ好きでもあり、その逸話が紹介されています。

第1章 ババンスキーとシャルコー

その生活態度も研究態度と同様に非常に厳格であったというが、しかし夜は好んでオペラに足を運び、バレーや芝居を楽しむ余裕をもっていた。その故もあってか、かれはオペラハウス付の医師も兼ねていたのであるが、このことはあまり知られていない。オペラがはねたあと、ステッキをふりふり、歌の一節を口ずさみながら大通りを歩くババンスキーの姿がよく見られたという。

何だか想像してしまいますね。魔笛のパパゲーノの歌でも口ずさんでいたんでしょうかね。

1931年に兄が亡くなり、1932年 1月 29日 Babinskiは兄の後を追うように亡くなりました。74歳でした。

本書の第2章は、Charcotの「神経疾患講義」での筋萎縮性側索硬化症 (ALS) の講義録です。発生学から切り込んでいく講義は、迫力があります。ALSは 1849年にドゥシェンヌ・ド・ブーローニュが進行性の筋萎縮症として記載したのが最初です。ドゥシェンヌはシャルコーが庇護した才人で、電気生理学的検査の祖とも言える人物かもしれません。Charcotは筋萎縮性側索硬化症を独立した疾患概念として独立させました。講義では、疾患の全体像を述べた後、症例を呈示し、病理所見を交えて解説しています。

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