被災地 2013

By , 2013年1月11日 7:35 AM

2013年1月6~7日に、妹夫婦と被災地に行ってきました。震災から約 2年経って、かつて訪れた地がどのように変わったかを見たかったからです。

1月6日 (土)

秋田での当直を終えて、12時頃に仙台集合。牛たんを食べて、プリウスを借りて、いざ出発です。

まずは仙台東 ICから三陸自動車道を走り、石巻を目指しました。石巻市役所周辺では、被災地に来るのが初めての妹が、「ここは津浪が来なかったところでしょ?」と勘違いするくらい復興が進んでいました。しかし、少し走ると、まだ津浪で破壊された家屋が存在し、その周辺が津浪で大きな被害を受けたことを物語っていました。

そのまま石ノ森萬画館の脇にある橋を渡って女川街道に入ると、がれきは綺麗に撤去されており、新築の家が立ち並んでいました。また、すれ違う車も多くが新車でした。新築の家が多いのは、家を流された方が建て直したからで、車が新車なのは車を流された方が買い直したからでしょう。

女川街道を東に走り、渡波小学校付近で左折して、一本北の通りに出ると、かつて寝泊まりした診療所がありました。写真上段が 2011年4月11~13日にボランティアで訪れた時で、下段が今回訪れた時です。2011年の時は自民党の選挙事務所を借りてそのまま使っていたのですが、同じ場所に建て替え、随分綺麗になっていました。

渡波の診療所

ジャパンハート診療所

ここを訪れた後、女川街道を東に、女川を目指しました。少し走ると、イオンの大きなショッピングモールが出来ていて、豊富な生活必需品を供給すると同時に、雇用を創出しているようでした。

新築の建物が並ぶ石巻とは異なり、女川は倒れた建物が、いくつかまだそのままの形で残されていました。写真上段が、2011年に訪れた時で、下段が今回です。両方とも女川町立病院から撮った写真で、2011年の写真右側と、2013年中央は同じ建物です。

女川2011

女川2013

女川からは、ブルーラインを通って、海沿いを南三陸に走りました。雄勝小学校、中学校の脇を抜けて、外観から明らかに津波後に直したことがわかる橋を渡り、右折してしばらく進んで、戸倉を過ぎたところにホテル「観洋」がありました。非常に広々とした、綺麗で立派なホテルでした。

ホテルでは、温泉 (露天風呂) に入り、海の幸を頂きました。鮑の踊り焼きは絶品でした。東北の地酒の種類がもう少し揃っていたら、なお言うことはありません。

食事を終えてから、お土産物売り場で地酒を少し買って、部屋で飲み直しました。

1月7日 (日)

朝食は海の見える食堂でバイキング方式。種類が非常に豊富でした。その後温泉に入って、「語り部ツアー」へ。マイクロバスに乗って、1時間ほど南三陸を回るツアーです。

バスはまず戸倉へ向かいました。途中、高い鉄橋があったのですが、津浪はその上を超えていったそうです。

鉄橋

そこから、戸倉小学校跡地に行きました。ここには一つの奇跡がありました。

3月11日の地震の二日前、3月9日に大きな予震がありました。生徒たちは屋上へ避難したそうですが、ある教師が「ここで大丈夫だろうか?」と感じ、職員会議で問題にしたそうです。そして、学校近くの山に避難することにして、3月10日に避難訓練が行われました。そのおかげで、運命の 3月11日、生徒たちは訓練通りに避難することができました。避難後、高台から津浪を見ていたのですが、彼らはその場も危険であると感じ、更に高いところにある神社に避難しました。こうして津浪をやり過ごした訳ですが、問題になったのは夜の寒さでした。寝ると危険なので、控えた卒業式で歌う予定だった川嶋あいさんの曲を夜通し歌ったそうです。後日譚として、川嶋あいさんがこの学校を訪れて、その曲を歌ってくれたと聞きました。

戸倉小学校跡地を見学した後は、南三陸町の中心部、志津川に向かいました。バスの車窓からは、山々の杉が枯れているのが目立ちました。杉の木は塩害に弱いので、津浪がきた場所は枯れてしまうのだそうです。復興計画では、その場所に桜を植え、どこまで津浪が来たかをひと目でわかるようにするそうです。

戸倉から志津川の中間に丁度ホテル「観洋」があります。震災でホテルは 2階にある大浴場の天井まで津浪に浸かりました。ホテルは高台にありますが、最初はさらに高いところにある建物に避難したそうです。ホテルに避難してきた人達 350人を収容していたらしいですが、困ったのが水でした。そのことにいち早く気づいた女将が、機転をきかせてありとあらゆる入れ物に水を確保していたのが、後で役に立ちました。ホテルでは、被災者たちに客用の海の幸を振舞ったらしいですが、職員はおにぎり 1個+笹かまで我慢していたらしいです。

志津川はマスコミで大きく取り上げられた地域です。公立志津川病院は、現在は更地になっていました。

公立志津川病院跡地

その近くにあったビルは、屋上まで津浪が来たそうです。

ビル

ここから、山の方に周り、「ベイサイドアリーナ」に行きました。現在、町の中心的機能を担っています。診療所もありましたが、まだ入院機能はないとのことでした。ここにはかつてイスラエル軍が駐在していた場所でもあります。イスラエル軍は戦争を日常的に経験しているため、このような医療支援に長けているのです。しかし、退去するにあたって、軍がレントゲンその他診療に必要なものを残していこうとしたところ、日本政府が「法的に問題がある」としてやめさせました。そこで、彼らは一計を案じ、わざと忘れていきました。被災者たちは、それを拾得したという形で、使用することができました。日本の役人たちの頭の固さにはイラッとしますが、痛快な逸話です。

この「ベイサイドアリーナ」の周辺の空地には、テントがいくつか立っていました。ボランティアの人達が寝泊まりしており、震災後にはテントでいっぱいだったそうです。また、仮設住宅も多くみかけました。語り部の方は、まだ町内に 55箇所あるとおっしゃっていました。語り部の方も仮設住宅に暮らしています。復興計画では、住民は今後 3つの山に分かれて住むことになっているそうです。

バスは山を一周して、志津川の中心部に戻りました。その途中の高台にある家は、「ここなら絶対に津浪が来ないから」ということで、立派に建てたそうですが、写真に見える通り、かなり高い位置まで被害を受けたことがわかります。

民家

バスが最後に着いたのは、防災対策庁舎でした。最後まで避難を呼びかけ命を落とした遠藤未希さんの逸話が全国の方々の胸を打ったのは記憶に新しいところです。しかし、その後の調査で明らかになったことがありました。遠藤未希さんは結婚を控えており、それを心配した上司の三浦さんが、最後に放送を替わったらしいのです。したがって、残されたテープは、三浦さんの声で切れています。三浦さんの御遺体はまだ見つかっていません。

防災対策庁舎は、この街での唯一の祈りの場になっています。今後この建物をどうするのかは、意見がわかれているところです。

防災対策庁舎

帰りのバスの中で、語り部の方は、「みんなに今日見てきたことを是非伝えて欲しい。そして数年後に、また見に来て欲しい」とおっしゃっていました。数年後に、またこの地を訪れたいです。

ホテルに戻ってから、志津川中心部よりやや奥まったところにある「さんさん商店街」に行きました。プレハブが 30件くらい集まって、商店街として機能しています。地酒や海産物を大量に買い込んで、職場や親友、実家や自宅に送りました。商店街には JR志津川駅の建物が併設されていました。気仙沼線は、現在は BRTとなっているため、線路はありません。

JR志津川駅

志津川では、コンビニを 2件みつけましたが、いずれもプレハブでの経営でした。そこで売られていた河北新報は、いまだに震災の記事が多くを占めていました。

その後、東浜街道を北東に走りました。まだまだ復興の進んでいない地域が多く、道路すら不通で迂回しなければいけないところがありました。そんな中、道路沿いの斜面に大量の千羽鶴が吊るされ、「世界中のみなさんありがとう」と書いてあったのには胸が熱くなりました。

2011年3月27~30日にボランティアに行った本吉 (補足) には昼前に着きました。まず、清涼院に行って外から眺めました。ボランティアに行った時に泊めて頂くとともに、診療所として使用したお寺です。墓地に新しい墓石がたくさん増えていたのが印象的でした。清涼院近くの大谷海岸駅は、当時は瓦礫だらけで、隣のコンビニや郵便局も廃墟と化していたのですが、現在では大きく様変わりしていました。写真上が 2011年3月、下 2つが今回撮影した駅の写真です。

大谷海岸駅2011

大谷海岸駅2013

大谷海岸駅BRT 2013

大谷海岸駅から気仙沼に向かう途中、大量の瓦礫が海沿いに積み上げられ、何かの土台のようになっていました。堤防を作るのか、土地自体を高く盛りあげてその上に何か建てるのか、数年後に訪れてみればわかると思います。

土台?

気仙沼の市街地は、だいぶ復興が進んでいました。しかし、港付近では液状化の影響が強く、いまだにマンホールが車が通れない高さまで道路から浮かび上がっていました。

昼からは、一心という非常に美味しい寿司屋で、防災活動をしているエムピーディーの秋山真理氏と食事をしました。彼女は陸前高田や遠野市、気仙沼を拠点に活動しており、震災にまつわる様々な話を聞くことができました。

帰りは、石巻にある「日高見」でお馴染みの平孝酒造に寄り、日高見を 2升買いました。店内は普通の事務所で、入り口に下記の写真のような棚があります (許可を貰って撮影しました)。時期的に、日高見の多くの種類が品切れだったのが残念でした。

平孝酒造

 

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