Category: 東日本大震災

311

By , 2014年3月12日 6:05 AM

2011年3月11日の東日本大震災から 3年が経ちました。

昨夜は自宅で、2011年4月10日にメータと N響で演奏された第九の演奏 (販売されていませんが、NHKで放送されたのを知人が録画してくれました) を見て、震災当時のことを思い出しながら過ごしました。

亡くなられた方の御冥福をお祈り致します。また避難生活を余儀なくされている方が多くいると思いますが、一日でも早く元の落ち着いた生活に戻れるよう祈願致します。

Post to Twitter


震災と医学

By , 2013年12月8日 4:45 PM

東日本大震災の後、それに関連した科学論文が多く出版されています。Pubmedで “great east japan earthquake” として検索すると、2013年12月8日現在、224件がヒットします

2013年11月28日の New England Journal of Medicine (NEJM) には、”The Great East Japan Earthquake and Out-of-Hospital Cardiac Arrest” というタイトルの論文が掲載されていました。東日本大震災後、院外心停止は、数週間に渡って全体として増加したようです。ただし、年齢や性別により、増加の有無や時期などにばらつきがありました。天下の NEJMでもこういう論文を扱ってくれているんですね。

震災関連の論文としては、神経内科医としては、他に「震災後にてんかんが増える」「脳卒中が増える」「脳卒中は増えない」「認知症と震災時の行動ついて」なんかは押さえておきたいところ。

Post to Twitter


311

By , 2013年3月12日 6:59 AM

昨日で震災 2年目を迎えました。

Nature誌が、東日本大震災のオンライン特集を組んでおり、震災に関する過去の記事が日本語翻訳されています。

 オンライン特集:東日本大震災から2年

Post to Twitter


南相馬のクリニック

By , 2013年1月25日 6:57 AM

2012年8月に紹介した南相馬のクリニックの院長が、亡くなられたそうです。

「子育てのできる南相馬に」がん抱えつつ被災地支えた産婦人科医 高橋亨平さん死去

2013.1.23 23:04
「やり残したことがある」と被災地にとどまり、地域医療の屋台骨となった医師が亡くなった。東日本大震災で大きな被害を受けた福島県南相馬市で、末期がんのため「余命半年」と告げられながら診療を続けた「原町中央産婦人科医院」院長、高橋亨平(きょうへい)さんが22日午後、肝機能障害のため南相馬市内の病院で死去。74歳だった。

高橋さんは福島県立医科大を卒業後、昭和46年から原町市立病院(当時)で産婦人科医を務めた。55年に開業し、取り上げた赤ちゃんは1万人を超える。

「自分のやれることをやらなければ」。多くの市民が避難し、医師不足が顕著になった南相馬市。それでも地元に残り、診療を続けた。

強い意志の宿った体は病魔にむしばまれていた。平成23年5月に大腸がんが発覚。転移も判明し、「余命半年」の宣告を受けた。しかし、「子育てのできる南相馬に」との思いを胸に新しい生命を取り上げ、被災地の医療を支えた。

数週間に1回、福島市の病院で治療を受け、痛みや吐き気などの症状と闘いながら、「南相馬、そして日本の復興のため、まだまだやり残したことがある」と、昨年12月に入院するまで診療を続けた。

南相馬市のよつば保育園の副園長、近藤能之さん(46)は、高橋さんらと保育園の除染を行うなど、子供たちのための活動を展開。昨年12月17日に開かれた74歳の誕生会で会ったのが最後となった。

ご冥福をお祈りします。

Post to Twitter


自然災害とてんかん発作

By , 2013年1月24日 7:23 AM

気仙沼市立病院脳神経外科から非常に興味深い論文が発表されました。

Increase in the number of patients with seizures following the Great East-Japan Earthquake

In the afternoon of March 11, 2011, Kesennuma City was hit by the Great East-Japan Earthquake and a devastating tsunami. The purpose of this retrospective study is to document possible changes in the number of patients with distinct neurologic diseases seeking treatment following this disaster. Because of Kesennuma’s unique geographical location, the city was isolated by the disaster, allowing for a study with relatively limited population selection bias. Patients admitted for neurologic emergencies from January 14 to May 5 in 2011 (n = 117) were compared with patients in the corresponding 16-week periods in 2008–2010 (n = 323). The number of patients with unprovoked seizures was significantly higher during the 8-week period after the earthquake (n = 13) than during the same periods in 2008 (n = 6), 2009 (n = 3), and 2010 (no patients) (p = 0.0062). In contrast, the number of patients treated for other neurologic diseases such as stroke, trauma, and tumors remained unchanged. To our knowledge, this is the first report of an increase in the number of patients with seizures following a life-threatening natural disaster. We suggest that stress associated with life-threatening situations may enhance seizure generation.

自然災害は精神的、身体的健康に影響を与えます。ノースリッジ地震では心臓突然死が増加し、阪神大震災では血糖コントロールが悪化したとの報告があります。ストレスでてんかん発作が増えるとの報告はありますが、自然災害がてんかんのような神経疾患にどう影響を与えるかはよくわかっていません。

著者らは、2011年 3月 11日の東日本大震災の前後 8週間の期間、すなわち 1月 14日~5月 5日までに気仙沼市立病院脳神経外科に入院した患者について調べ、2008~2010年と比較しました。患者はてんかん、脳卒中、外傷、腫瘍、その他に分類しました。その結果、震災後てんかん患者は有意に増加していましたが、脳卒中患者数に変化はありませんでした (下記 Figure 2)。

figure2

Figure 2

2011年3月11日以降に入院したてんかん患者 13例のうち、11例はもともと脳の疾患を持っていました (特発性/症候性てんかん 5例, 外傷後 4例, 髄膜腫術後 1例, 陳旧性脳梗塞 1例)。てんかんの発作型は、13名中 9名が単純部分発作でした (9例のうち 8例が全般化しました)。 3例は複雑部分発作で、1例は診療録から発作型は不明でした。

その他、採血結果で 2008-2010年と 2011年で違いがあったのは、総タンパク質でしたが、パンやコメ食を余儀なくされたからかもしれません。実際、この大震災の後に行われた別の研究では、不適切な食事によって糖尿病患者の血糖値や血圧が悪化したとされています (Ogawa et al., 2012)。

著者らは、自然災害によるストレスがてんかんに影響を与えたのではないかとしています。ただし、こうしたストレスは誰にでもてんかんのリスクを高めるのではなく、もともと脳病変がある人でリスクを高めるのかもしれません。また、おそらく震災により抗てんかん薬を入手できなかったせいで、てんかん発作を起こした人が一人いました。

今後、近いうちに関東や東南海で大地震が起こると予測されていますが、その際てんかん発作を起こす患者が増えるだろうというのは、頭に入れておいた方が良さそうです。そして、抗てんかん薬の供給をどうするかも考える必要があります (抗てんかん薬を内服している患者さんは、手元にある程度予備の薬を持っておいた方が良いでしょう)。

Post to Twitter


被災地 2013

By , 2013年1月11日 7:35 AM

2013年1月6~7日に、妹夫婦と被災地に行ってきました。震災から約 2年経って、かつて訪れた地がどのように変わったかを見たかったからです。

Continue reading '被災地 2013'»

Post to Twitter


東日本大震災復興祈念「会津第九演奏会2011」

By , 2012年12月31日 10:49 AM

Youtubeで第九の演奏を漁っていたら「東日本大震災復興祈念『会津第九演奏会2011』」という動画を見つけました。会津市民オーケストラによる演奏で、ちょっとアマチュアっぽさが漂う箇所はありますが、音楽的に自然な演奏です。私が郡山に住んでいた頃なら、足を伸ばして弾きに行ったかもしれません。

・東日本大震災復興祈念「会津第九演奏会2011」 第1・2楽章

・東日本大震災復興祈念「会津第九演奏会2011」 第3・4楽章

ちなみに、会津と第九の縁について、会津第九の会のサイトに載っていました。これは初耳でした。第九が初演された捕虜収容所の松江豊寿所長は会津出身だったんですね。

会津第九の会

今でこそ年末のシーズンによく耳にするこの交響曲第9番であるが、1918年6月1日に徳島県板東町(現・鳴門市)にあった板東俘虜収容所でドイツ兵捕虜により演奏されたのが日本での初演である。
このとき収容所所長を務めたのが会津出身の松江豊寿(1872年-1956年)であり、第9代若松市長である。

豊寿は1872年6月に現在の会津若松市で会津藩士、松江久平の長男として生まれ、明治政府によって朝敵の汚名を着せられた会津藩士の悲哀を味わいながら育つ。
仙台陸軍地方幼年学校、士官学校を経て陸軍に入った豊寿は、1914年徳島俘虜収容所の所長に任命される。
時は第一次世界大戦、中国山東半島の青島(チンタオ)を攻略した日本軍は、駐留していたドイツ兵を捕虜として日本に護送した。1917年に12ヶ所の収容所が6ヶ所にまとめられ、豊寿は板東俘虜収容所の所長に就く。
この当時、捕虜に対する非人道的な扱いが一般的ななか、豊寿は武士の情けをもって接した。

豊寿の計らいにより所内での音楽活動は盛んに行われ、収容されているドイツ人捕虜たちが松江所長や地域住民との温かい交流に感謝して演奏したのが「交響曲第9番」である。

Wikipediaで板東俘虜収容所を調べると、日本での第九初演までを描いた「バルトの楽園」という映画があるそうです。是非見てみたいと思います。

板東俘虜収容所

1917年に丸亀、松山、徳島の俘虜収容所から、続いて1918年には久留米俘虜収容所から90名が加わり、合計約1000名の捕虜が収容された。収容所長は松江豊寿陸軍中佐(1917年以後同大佐)。松江は捕虜らの自主活動を奨励した。今日に至るまで日本で最も有名な俘虜収容所であり、捕虜に対する公正で人道的かつ寛大で友好的な処置を行ったとして知られている。板東俘虜収容所を通じてなされたドイツ人捕虜と日本人との交流が、文化的、学問的、さらには食文化に至るまであらゆる分野で両国の発展を促したとも評価されている。板東俘虜収容所の生み出した“神話”は、その後20年余りの日独関係の友好化に寄与した。

板東俘虜収容所は、多数の運動施設、酪農場を含む農園、ウイスキー蒸留生成工場も有し、農園では野菜を栽培。また捕虜の多くが志願兵となった元民間人で、彼らの職業は家具職人や時計職人、楽器職人、写真家、印刷工、製本工、鍛冶屋、床屋、靴職人、仕立屋、肉屋、パン屋など様々であった。彼らは自らの技術を生かし製作した“作品”を近隣住民に販売するなど経済活動も行い、ヨーロッパの優れた手工業や芸術活動を披露した。また、建築の知識を生かして捕虜らが建てた小さな橋(ドイツ橋)は、今でも現地に保存されている(現在では保存のため通行は不可)。文化活動も盛んで、同収容所内のオーケストラは高い評価を受けた。今日でも日本で大晦日に決まって演奏される、ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンの交響曲第9番が日本で初めて全曲演奏されたのも、板東収容所である。このエピソードは「バルトの楽園」として2006年映画化された。

Post to Twitter


イトーヨーカ堂

By , 2012年11月10日 7:50 AM

東洋経済 2012年11月3日号の「自然災害 M9のマネジメント」という記事を読みました。噂には聞いていたけれど、ここまで迅速な対応がなされていたとは知りませんでした。このイトーヨーカ堂の対応は、お手本になりますね。記事によると、阪神・淡路大震災から長年かけてブラッシュアップしてきたそうです。

果たして自分が勤務する病院だと、どれだけのことが出来るだろうかと思いながら読みました。こうした企業を見習っていかないといけません。

東洋経済誌

東日本大震災発生直後のイトーヨーカ堂の対応

Post to Twitter


避難ママ

By , 2012年11月6日 8:54 PM

郡山時代の同僚の奥様が、震災について手記を残しています。

同僚から、奥様のことについて聞いたことが無かったから、「こんなことがあったのか」というのを初めて知りました。

その同僚と奥様は、郡山と大阪で未だに二重生活をしています。是非読んでみてください。

 避難ママのお茶べり会 手記その6

Post to Twitter


ベストの出来

By , 2012年9月22日 7:34 AM

ベートーヴェンの交響曲第九番 (第九) で、私が最も感動したのは、東京・春・音楽祭2011で「東北関東大震災 被災者支援チャリティー・コンサート」として、2011年4月10日に行われた演奏会です。生演奏で聴けなかったのは残念ですが、東京・春・音楽祭のサイトにアップされた動画を何度も見ました。

しかし、残念ながら、東京・春・音楽祭のサイトでの配信は終了し、その後削除されてしまいました。この演奏会は 2011年4月17日の N響アワー (NHK Eテレ) でも放送されましたが、オンデマンド配信にはならず、現在では見ることができません。貴重な演奏なので、何とか DVDで販売してほしいと願っている次第です。

さて、実際に演奏された永峰さんが、「ベストの出来」と評していたのを最近知りました。

楽員インタビュー

黒崎

N響で印象に残っている演奏はありますか?

永峰

今年 (※2011年) 4月のメータさんとの震災チャリティー・コンサート。30年間N響に在籍して、《第9》もずっと弾いていますが、私にとってはベストの出来でした。被災地の方に直接聴いていただくことはできなかったですけれど、私たちにできることは演奏することですし、思いは通じたと思います。

彼らが使命感を胸に強い気持ちで演奏に臨んだことが名演奏につながった訳で、音楽にとって、演奏者のモチベーションが如何に大切かというのを強く感じました。

(参考)

ズービン・メータ N響 第九 チャリティー2011.4.10 神々しいメータ

実際に生で聴かれた方の感想。

Post to Twitter


Panorama Theme by Themocracy