Category: 東日本大震災

震災ヴァイオリン

By , 2012年9月7日 8:35 AM

被災した木材で製作されたヴァイオリンが話題になっています。このヴァイオリンを用いて 8月30日に行われたジェラール・プーレ氏のコンサートは是非行きたかったのですが、予定が合わず・・・。

・Concert features violin made of wood from Iwate Prefecture

ニュース動画ではバッハのシャコンヌを演奏していますが、プログラムにはないのでアンコールでしょうか。

このヴァイオリンに関するニュースは様々なところで目にします。プーレ氏の演奏は逃しましたが、是非生で一度聴いてみたいです。

・【震災】「被災地のバイオリン」演奏 仏・パリ(12/06/21)

 

・希望発信!いわて-ヴァイオリン・プロジェクト『千の音色でつなぐ絆』

http://nettv.gov-online.go.jp/prg/prg6677.html

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夏休み

By , 2012年8月19日 5:58 PM

8月13~19日の 1週間、夏休みをいただきました。例によって、備忘録的な日記など。

8月13日 (月)

将棋の橋本八段(ハッシー)らと熱海の温泉「大観荘」へ。入り口には、横山大観や谷崎潤一郎の写真が飾ってありました。素晴らしい旅館で、部屋、及び温泉からは熱海の海が一望出来ました。宴会時の日本酒は「磯自慢」が用意してあり、みんなグビグビと飲んでいました。料理は、味は良かったですが、一般的な男性だと量的に物足りなさが残る感じでした。

部屋に戻ってから、持ち込んだ酒「日南娘」「日南娘黒麹」「佐藤(黒)」「北洋 雫の潤い 大吟醸」「残波」などを飲みながら、将棋を指しました (※持ち込みは別途 3000円かかります)。部屋に備え付けてあるマッサージ機が大人気で、将棋を指さずにマッサージばかり受けている人もいました。将棋に飽きて、みんながカードゲームを始めたところで、2日前の当直疲れが出て眠くなった私は、別室に移動して寝ました。

8月14日 (火)

一部の方たちは、早朝 5時の日の出の時刻に温泉に入ったらしいですが、私は朝食を摂ってから、温泉へ。温泉から出て支度を終えると、送迎バスで熱海駅に向かいました。

ところが、駅につくと、大雨の影響で新幹線が運休。ハッシーは「せっかく発売日の朝 5時に並んで乗車券を取ったのに・・・」と落ち込んでいました。駅前の喫茶店でコーヒーを飲んでいるうちに、新幹線が動き始めたとの報を入手し、「こだま」で大阪に向かいました。

大阪には夕方到着し、リーガロイヤルに荷物を預けて関西将棋会館へ。その後、「銀のて」に焼肉を食べに行きました。「銀のて」はハッシー推奨の焼肉屋で、大塚愛の歌「和牛塩タン680円」の舞台になったらしいです。塩焼きも、タレ焼きも、滅茶苦茶旨かったです。「指し過ぎ」との声をチラホラ聞きながら、キタにある饂飩屋「香川」に行きました。ハッシーおすすめのカレーうどんは、別腹にしっかりと収まりました。飲み会の後の締めには最高ですね。

8月15日 (水)

新幹線で帰京。みんな爆睡するかと思いきや、ビールを飲んだり、割と元気でした。

8月16日 (木)

午前中はさいたまで外来をしました。午後は往診のクリニックが休みだったので、ラボにふらりと顔を出して、細胞培養などをしていました。

8月17日 (金)

暇だったので、久々に大学の医局に顔を出しました。午後は上野の東京都美術館を訪れ、絵を鑑賞する綺麗な女性たちマウリッツハイス美術館展で来日したフェルメールの絵「真珠の耳飾りの少女」などを鑑賞しました。ものすごく混んでいたので、機会があればオランダを訪れた時にゆっくりと鑑賞したいと思いました。

絵を見てから、新幹線に乗って郡山へ。福島県で働く医師たちの近況を聞きながら飲みました。福島県立医大はだいぶ平静を取り戻しているみたいでした。雅山流、裏雅山流、愛宕の松、伯楽星といった日本酒がいつの間にか空き、”シャンデリアの君”の家に御邪魔して、さらに「獺祭」「人気一」を飲みました。私が持参した「千両男山 復興弐号 フェニックス」も少し口をつけました。震災復興支援のためファンドに出資した菱屋酒造の酒ということで、感慨ひとしおでした。

8月18日 (土)

午前 7時過ぎに家を出て、秋田の当直に向かいました。あまりに時間があったので、山形経由を選択。山形新幹線で新庄まで行って、奥羽本線で一路北へ。横手駅で途中下車して、食い道楽ゆうとハシゴして横手やきそばを食べました。駅前に温泉「ゆうゆうプラザ」があったので、そこでのんびり。疲れを癒してから当直に入りました。

8月19日 (日)

当直を終えて東京へ。そのままラボに直行し、翌日以降の実験の仕込みなどをしました。長かった夏休みが終わりました。

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南相馬市のクリニックより

By , 2012年8月17日 9:32 AM

南相馬市医師会長の先生のサイトを最近知りました。

原町中央婦人科医院

サイトの右側に震災以降の状況が、不定期に綴られています。

2012年7月12日に、かなり深刻な文章が掲載されました。

停滞する復興
平成24年7月12日
原町中央産婦人科医院院長
高 橋 亨 平
東日本大震災及び原発事故後、1年4カ月になるが、除染も、復興らしき事
も、何も進展はしていない。前に進むべき法律が微妙に邪魔して、役人の権限、
解釈を複雑化し、前に進めない仕組になっている。予算が決まっても、縛りが
強く、何も出来ない地方自治体、結局、国に再度、まる投げ、待ってましたと
ばかりに、国と自治体は自信を持って、原発を作る企業側に又、 まる投げす
る。こんな事を繰り返しながら、いつの間にか、大きな予算が動き、検証しな
いまま消えていっている。地域住民は全く、相手にはされていないし、相変わ
らず、仕事もない。

現地での閉塞感は如何許と思っていたら、さらに深刻な文章が、8月12日に掲載されました。

私の体の現状と医師募集のお願い
平成24年8月12日
医療法人誠愛会
原町中央産婦人科医院
理事長 高橋 亨平
外なる敵と戦っている間にも、癌という内部の敵は決して手加減はしてくれ
なかった。そして又、抗がん剤の副作用に耐えられなく、もう治療はやめよう
と思い、やめてしまった人もたくさんいると聴いた。確かにその理由も分かっ
た。自分でも、何のためにこんな苦しみに耐える必要があるのかと、ふと思う
時がある。しかし、この地域に生まれてくる子供達は、賢く生きるならば絶対
に安全であり、危険だと大騒ぎしている馬鹿者どもから守ってやらなければな
らない。そんな事を思いながら、もう少しと思い、原発巣付近の痛み、出血、
の緩和のため、7月25日から、毎日放射線治療を開始、通院している。午前
9時から12時まで自医院の外来診療、その後、直ちに車に乗り1時間20分
かけて、福島医科大学放射線治療科へ、そこでリニアック照射を受け、直ちに
帰り、3時から再び自医院の外来診療を6時まで、しかし、遅れる事が多かっ
たので、最近は3時から4時に変更した。そんな私の我侭に対しても、患者さ
ん達は何も言わずに、ちゃんと待っていてくれた。それでも、多い日は100
人以上、少ない日でも70人は下らない。(略)

癌との闘いながら、頑張ってきたが、あまくは無いなと感じることが多くなっ
てきた。何時まで生かられるか分からない・・神の思し召すままに・・と覚悟
は決めていても、苦しみが増すたびに、もし、後継者がいてくれればと願って
やみません。私の最後のお願い、どうか宜しくお願い致します。

胸が張り裂けそうになる文章です。言葉がありません。

(追記)

8月17日夜、このことが CBニュースで報道されたようです。また、8月21日、読売新聞でも報道されたという情報を知りました。

勇気ある医師よ 南相馬の開業医が後継募集-原町中央産婦人科の高橋氏

医療介護CBニュース 8月17日(金)20時34分配信

東京電力福島第1原子力発電所の事故が起きた直後から、がんと闘いながら浜通り地域の産婦人科医療を支えてきた開業医が、後継者を募集している。現在では、午前と午後の診療をこなしながら、自身も放射線治療を受けているといい、「もし後継者がいてくれればと願ってやみません」と、全国のドクターに呼び掛けている。

後継者を募集しているのは、南相馬市で「原町中央産婦人科医院」を運営する医療法人誠愛会の高橋亨平理事長。
原発から近い県浜通り地域では事故の後、一時はお産のための場所がなくなったが、高橋氏はすぐに現場に戻り、診療を再開。地域の産婦人科医療を支えてきた。ところが昨年6月、高橋氏に大腸がんが見つかり、現在では、がん治療のため遠方の大学病院に通いながら診療を続けている。多い日には100人以上の患者を診療するという。
東日本大震災の発生から1年を機に、キャリアブレインが3月に行った取材では、診療に追われる合間に地域の現状を語ってくれた。

現在では、地域の複数の医療機関がお産の受け入れを再開しているが、高橋氏は今月12日付のブログの中で、「私の役割は終わったと思ったが、どうしてもという患者さんは断れない。もういいかなと、ふと頭をよぎる誘惑に、頑張っている20名の職員の笑顔がよぎる」と綴り、「全国のドクターにお願いがしたい。こんな診療所ですが、勤務していただける勇気あるドクターを募集します」と呼び掛けている。

専門の診療科は問わず、「広く学ぼうとする意思と実践があれば充分」としている。【兼松昭夫】

 

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南相馬にて

By , 2012年8月12日 12:15 PM

大学病院の職を辞して南相馬市立総合病院での勤務を始めた神経内科医小鷹先生の近況が、医療ガバナンス学会に寄稿されていました。考えさせられた言葉、心を動かされる言葉が多くありました。一部引用しますが、是非リンク先を読んでいただきたいと思います。

Vol.507 福島の医療現場から見えてきたもの

離職する看護師の夫は末期癌であった。そして、多発性硬化症の患者の母親は、震災後に自ら命を絶っていた。現状を目の当たりして、私は考えを是正せざるを得なかった。「何かを始めたい」と意気込んでは来たものの、”医療復興”というのは、システムを創造したり、パラダイムを変換したりすることではなかった。

むしろ丁寧に修繕するとか、再度緻密化するとか、改めて体系化するとか、有機的に規模を拡大するとか、人を集めてそれらを繋ぐとか、そういうことが医療の復興であった。

 

Vol.517 福島での意味

そういうことを考えると、世の中というものも「偶然その場に遭遇し、意外にも手を差し伸べることになり、行きがかり上そうなった」という行為の集まりで成 り立って欲しいと願う。「たまたまそこに出くわしてしまったが故に、巻き込まれて、なんだか知らないけどいろいろやってしまった」という、言ってみれば、 そういう合理的でないものに人は動かされるし、意味付けは後からなされるものである。

“意味”とは、ある価値に則った合理性のことだが、意味があることの方が正しくて、そうした価値観でしか物事が動かない世の中よりも、偶然居合わせてしまった状況で、意味を度外視して行動できる世の中の方が、ずっと暮らしやすいような気がする。(略)

医師の私が言うのも気が引けるが、人助けや人命救助なんてものに、さしたる意味など考えない方がいいのかもしれない。意味を超えた行為だから、人はどんな現場でも、それを実行することができるし、理由など考えずに仕事に没頭できるのである。

 

Vol.541 福島で足りないもの

離職する看護師の夫は末期癌であった。そして、多発性硬化症の患者の母親は、震災後に自ら命を絶っていた。
私の想像を遙かに凌駕する凄まじい、あまりにも壮絶な現実があった。苦悩を表に出さない態度の一方で、自暴自棄や抑うつ状態を理解して余りある圧倒的惨劇が、この地には横たわっていた。
私は想いを修正せざるを得なかった。不運に直面する人たちを前に、他人任せで悠長なことを言っていられるのか。この地で起こり得る心身の衰弱に対して、どう反応していけばいいのか。

 

Vol.556 福島での暮らし

勝手な言い方をすれば、福島に限らず社会というものは、そもそも劣悪である。しかし、どれほど劣悪であれ、私たちはその中で生き延びていかなくてはなら ず、その中で社会を再生・構築していくしかない。できることなら誠実に、前向きに、着実に。重要な真実や意義は、むしろそこにある。

 

Vol.565 福島の病院が、初めての研修医を迎えて

私たちの医療には解答がない。だから、正解を学ぶことはできないし、規範を教える術もない。
ここで学ぶことは、もちろん、医療技術を向上させるとか、医学的知識を増幅させるとか、そういうことを目指すことに異論はないが、それよりも”自分は何が できないか”を理解し、自分にできないことは、誰にどのように支援されればそれが達成できるのか。「そういう人に支持されなければ、有効に自分の学びが活 かされることはない」ということを体感することなのである。
一手先、二手先を見据えて「自分にできないこと」と、「自分にできること」とを、きちんとリンケージすることなのである。

 

(関連記事)

被災地の病院へ

 

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猿橋勝子という生き方

By , 2012年8月10日 8:55 AM

猿橋勝子という生き方 (米沢富美子著、岩波書店)」を読み終えました。猿橋勝子氏は日本の女性科学者の草分けで、「猿橋賞」の創設者としても名を残しています。

猿橋氏の時代は女性のアカデミックへの道は限りなく狭いものだったそうです。

 猿橋が第六高等女学校を卒業した一九三七年には、高女卒業後に正規の高等教育機関に進学した女性は、同年代の女性の約0.6%に過ぎなかった。

そのような時代に、猿橋氏は、当初医師になることを志し、東京女子医専 (現・東京女子医科大学) を受験しました。1941年、21歳であった猿橋氏は東京女子医専の創始者、 70歳の吉岡彌生の面接を受けました。その時の様子を彼女は後に繰り返し人に語っています。

面接試験は二つの部屋で行なわれた。私は当時校長であった吉岡彌生先生のいらっしゃる部屋に入る順番となった。吉岡にお会いするのは、はじめてであった。かねて尊敬する先生とお会いすることに、私はうれしくもあったが、面接試験ということに、多少の不安もあった。

先生の前の椅子に腰をおろした私に、先生は「どうしてこの学校を受験しましたか」とおっしゃるので、私は「一生懸命勉強して、先生のような立派な女医になりたいと思います」とお答えした。すると先生は、天井の方を見上げながら、カラカラと笑われた。そして、「私のようになりたいですって。とんでもない。私のようになりたいといったって、そうたやすくなれるもんじゃありませんよ」とおっしゃったのである。私は、びっくりして、先生の顔を見つめていた。そして先生への尊敬の念がしだいに後退し、女子医専に入学することへの期待は、大きな失望に変わっていった。

このようなことがあり、彼女は合格した東京女子医専を辞退し、開校したばかりの帝国女子理学専門学校 (現・東邦大学理学部) に一期生として入学しました。そして戦争に協力していった吉岡彌生とは対照的に反戦の姿勢を貫きました。

大学在学中、猿橋氏は生涯の付き合いとなる三宅泰雄氏の研究室を訪れ、ポロニウムの研究を行いました。卒業後は「戦争に協力するのは嫌」という理由で、中央気象台に就職しました。中央気象台では当初オゾン層について研究していたそうですが、1950年頃からは水中に溶解した炭酸物質の研究を始めました。彼女は「微量拡散分析装置」を開発し、塩素量・水温・pHに対する炭酸物質の存在比を表にしました。この「サルハシの表」は国際的に高く評価され、数十年に渡って使われたそうです。

1954年3月1日、ビキニ環礁でのアメリカの核実験で第五福竜丸が被曝したことで、彼女に転機が訪れます。

炭酸物質の研究に加えて、第五福竜丸の死の灰被災事件を機に、私は死の灰の地球化学研究にもたずさわることになった。核兵器爆発によって大気中に放出された死の灰が、大気、海洋の中をどのように行動するかを追跡する仕事である。アメリカのネバダで核爆発すると、その影響は、日本に約三週間で達し、また中国の核爆発の影響は二、三日で日本に到達することが明らかになったのは、私たちの研究室の成果の一つである。

「海洋上に落ちた死の灰が、表面から深海に拡散していく速さが予想以上に速く、わずかの五、六年で六千メートルの深海に到達することも、私たちの研究からわかった」

彼女達は海水や雨水中のストロンチウム九〇やセシウム一三七を測定しました。ところが、これらの結果 (例えば、1960年の日本近海のセシウム一三七の濃度は、海水 1Lあたり、 0.8~4.8×1012キュリーだった) を発表して核実験による大気汚染の深刻さを警鐘を鳴らしたところ、アメリカの研究者から「日本側の分析の不備」を指摘され、データは信用されませんでした。この問題に決着をつけるため、猿橋氏は単身アメリカに乗り込みました。

1962年、猿橋氏はサンディエゴにあるカリフォルニア大学スクリップス海洋研究所で、フォルサム博士らとセシウム一三四の回収実験で雌雄を決することになります。そして、より難度の高い方のサンプルを用いた上で、より高い回収率を上げ、分析競争に勝利しました。この分析競争の結果により、アメリカの原子力委員会も日本のデータを認めざるを得なくなり、「核実験は安全」だというアメリカの主張の根拠が崩れました。地上核実験廃止にも影響を与えたそうです。

この本は、歴史に影響を与えた日本人科学者「猿橋勝子」のことを知ることのできる素晴らしい本ですので、興味のある方は読んでみてください。

(追記)

日本近海のセシウム 137について、1959年の Natureにこのような論文を見つけましたが、私が所属する研究所からだと有料でした。どこか無料でアクセスできる研究所に行く事があれば読んでみたいと思います。

Concentration of Cæsium-137 in the Coastal Waters of Japan (1959)

NOBORU YAMAGATA

Institute of Public Health, Tokyo. Aug. 14.

I HAVE analysed bittern and carnallite of industrial origin and deduced the concentration of cæsium-137 in the coastal waters in early 1958 of Japan as 70–150 µµc. kgm./l.1 Recently, by application of a low-level β-counting equipment, cæsium-137 has been successfully determined by direct treatment of 6–20 litres of sea-water.

 

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河北新報のいちばん長い日

By , 2012年8月2日 9:21 PM

「河北新報のいちばん長い日 震災下の地元紙 (河北新報社、文藝春秋刊)」を読み終えました。新聞社の出した本だけあって、さすがに文章は上手でした。

被災直後の社内の状況が手に取るようにわかりましたし、極限の状況の中、皆が必死に新聞を発行している様子が目に浮かぶようでした。何よりも心に響いたのは、生々しい記者たちの本音が伝わってきたことです。例えば、ある記者は原発事故の時福島にいましたが、一時的に新潟に避難した後、福島に戻って取材を続けました。しかし、結局記者を辞めることにしたそうです。心境が綴られています。

今回福島を離れた私の姿は、自分がこれまで追い求めた理想の記者像とあまりに懸け離れ、その落差に言いようのない絶望感を覚えました。自分の中の弱さ、報道の使命、会社の立場・・・それらいろいろな因子の折り合いをつけて前に進むのが記者なのかもしれません。

でも、一度福島を去った私にはそう割り切ることができなかった。震災後をどう生きていけばいいのか、記者の立場を離れた一人の人間として考えようと思いました。

被災した新聞社に印税を支援する意味でも、”買い” の一冊ですね。

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津浪と人間

By , 2012年7月28日 1:56 PM

寺田寅彦の随筆が好きでよく読みます。最近、あっと思う随筆を見つけたので紹介したいと思います。

津浪と人間

昭和八年三月三日の早朝に、東北日本の太平洋岸に津浪が襲来して、沿岸の小都市村落を片端から薙なぎ倒し洗い流し、そうして多数の人命と多額の財物を奪い去った。明治二十九年六月十五日の同地方に起ったいわゆる「三陸大津浪」とほぼ同様な自然現象が、約満三十七年後の今日再び繰返されたのである。
同じような現象は、歴史に残っているだけでも、過去において何遍となく繰返されている。歴史に記録されていないものがおそらくそれ以上に多数にあったであろうと思われる。現在の地震学上から判断される限り、同じ事は未来においても何度となく繰返されるであろうということである。
こんなに度々繰返される自然現象ならば、当該地方の住民は、とうの昔に何かしら相当な対策を考えてこれに備え、災害を未然に防ぐことが出来ていてもよさそうに思われる。これは、この際誰しもそう思うことであろうが、それが実際はなかなかそうならないというのがこの人間界の人間的自然現象であるように見える。
学者の立場からは通例次のように云われるらしい。「この地方に数年あるいは数十年ごとに津浪の起るのは既定の事実である。それだのにこれに備うる事もせず、また強い地震の後には津浪の来る恐れがあるというくらいの見やすい道理もわきまえずに、うかうかしているというのはそもそも不用意千万なことである。」
しかしまた、罹災者の側に云わせれば、また次のような申し分がある。「それほど分かっている事なら、何故津浪の前に間に合うように警告を与えてくれないのか。正確な時日に予報出来ないまでも、もうそろそろ危ないと思ったら、もう少し前にそう云ってくれてもいいではないか、今まで黙っていて、災害のあった後に急にそんなことを云うのはひどい。」
すると、学者の方では「それはもう十年も二十年も前にとうに警告を与えてあるのに、それに注意しないからいけない」という。するとまた、罹災民は「二十年も前のことなどこのせち辛い世の中でとても覚えてはいられない」という。これはどちらの云い分にも道理がある。つまり、これが人間界の「現象」なのである。
災害直後時を移さず政府各方面の官吏、各新聞記者、各方面の学者が駆付けて詳細な調査をする。そうして周到な津浪災害予防案が考究され、発表され、その実行が奨励されるであろう。
さて、それから更に三十七年経ったとする。その時には、今度の津浪を調べた役人、学者、新聞記者は大抵もう故人となっているか、さもなくとも世間からは隠退している。そうして、今回の津浪の時に働き盛り分別盛りであった当該地方の人々も同様である。そうして災害当時まだ物心のつくか付かぬであった人達が、その今から三十七年後の地方の中堅人士となっているのである。三十七年と云えば大して長くも聞こえないが、日数にすれば一万三千五百五日である。その間に朝日夕日は一万三千五百五回ずつ平和な浜辺の平均水準線に近い波打際を照らすのである。津浪に懲りて、はじめは高い処だけに住居を移していても、五年たち、十年たち、十五年二十年とたつ間には、やはりいつともなく低い処を求めて人口は移って行くであろう。そうして運命の一万数千日の終りの日が忍びやかに近づくのである。(以下略:リンク先で全文読めます)

繰り返す津波被害について、本質を突いていると思いました。

ただ、現代は寺田寅彦の時代と比べ、映像を残せるなど情報技術は格段に進歩していますし、先日の震災を機に予測技術の開発も進んでいるようです。この不幸な繰り返しを何とか防いで、この文章を過去のものにしたいものです。

 

–関連記事 (寺田寅彦の別の随筆)–

物理学者の心

科学者と芸術家

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神経学会総会

By , 2012年5月27日 11:14 AM

以前お伝えしたとおり、5月22~25日に神経学会総会があり、行ってきました。なかなか有意義な数日間が過ごせました。この数日間を簡単にお伝えしようと思います。

5月22日

神経学会生涯教育セミナー Hands-on 6 「高次脳機能」に参加しました。WAIS-IIIは自分で検査したこともされたこともあったので、検査の初歩的説明は私にはあまり面白くなかったです。しかし、次期 WAIS-IVから評価項目の記載が代わると話など、いくつか新しい知識が得られました。聞き終わってからラボに実験に行きました。

5月23日

8時から「ビデオで見る不随意運動の基礎」という講演を聞きました。不随意運動は見る機会があっても、最初は「これが○○だよ」と誰かに教えて貰わないと、なかなか正しく学習出来ません。教科書を読んでも、文字からでは想像しにくいものが多いのが事実です。そういった意味で、得難い勉強の機会でした (とはいえ、10年も神経内科医をやっていれば、ビデオで見た不随意運動のほとんどは既に経験したものですが・・・)。

9時からは絞扼性末梢神経障害の手術についての講演でした。亀田総合病院の整形外科の先生が、講演してくださいました。内容は、carpal tunnel syndrome (手根管症候群), ulnar neuropathy at elbow (昔、肘部管症候群と言われていたもの), Guyon’s canal syndrome, tarsal tunnel syndrome, T.O.S. (胸郭出口症候群), piriphormis syndrome (梨状筋症候群), meralgia parestheticaについてでした。我々は診断をつけたら整形外科に患者さんを紹介することが多い訳ですが、整形外科の先生がどのような基準でどのように治療するかがわかって、非常に勉強になりました。また、手根管症候群の一部で、Palmar cutaneous branchが障害されると非典型的な症状 (母指の障害) を出し、Tinel’s signの部位が通常と異なることは初めて知りました。こんなに面白い話なのに、非常に参加者が少なかったのが残念でした。

10時頃からポスターをみて、ラボに行き、実験をしました。そして、15時の講演に合わせて会場に戻りました。15時からの「小脳症状とは何か」という講演は、期待はずれでした。あまり「小脳症状とは何か」という問に答えていない演者が多かった気がします。

5月24日

8時から「てんかん発作を診て勉強しよう」の講演を聞きました。基本的な話が中心で、新しく勉強になったことは少なかったですが、入院でビデオ+脳波同時期録ができる施設が羨ましいと思いました。なかなかそういう環境でないと、ヒステリー (偽発作) と本当のてんかん発作の鑑別が難しいことがあるからです。

9時からは「感覚情報と大脳基底核」の講演を聞きました。内容としては、「Motor」「Oculomotor」「Prefrontal」「Limbic」の系は (細かいことを別にすれば) 閉じている、一方感覚系は閉鎖ループではなく、一種の open loopとして大脳基底核に関わっている、という話でした (一部閉鎖ループはあるかもしれないが、その影響は小さい)。つまり、運動の実行、プラン時に感覚野は大脳基底核の機能に影響を与え、この障害は基底核で運動症状を作ると言うことです。また、Sensory trickは、大脳基底核障害で回らない基底核ループの感覚情報の修飾、paradoxical gaitは感覚情報を用いた小脳による運動の補正 (大脳基底核:internal triggerな運動を制御、小脳:external triggerな運動を制御) と説明するとわかりやすいのではないかと提案されました。なんとなくわかった気がしたのですが、いつも話がわかりやすい宇川先生を以てしても難しい話でした。

10時からはポスターを見ました。紀伊半島古座川 ALSに 3名の C9ORF72変異が見つかった話、Parkinson disease with dementiaでは MMSEより HDS-Rの方が鋭敏であること、筋萎縮性側索硬化症 (ALS) のレスパイト入院では年間医療費はほとんど増えないという話などが面白かったです。ポスターを見てからラボに実験に行きました。

5月25日

前日、将棋の橋本八段達と午前 1時過ぎまで飲んでいて朝辛かったですが、何とか遅刻せずに間に合いました。

8時からの「てんかんと運転免許」は今トピックの話でした。てんかんの方に運転免許が与えられるようになってきた経緯、それを規定する法律内容について説明がありましたが、詳しく書くと長くなってしまうので、いくつかに絞って紹介します。

・医師の責任について。てんかん患者が運転免許を取るときに必要な診断書は、虚偽の記載をすれば虚偽公文書作製罪に問われます。しかし、適合と判断したのに非適合あったケースでは、医師の刑事責任は問われません。

・事故件数について。日本での運転免許保持者は 8101万人、総人身事故は 72.6万件/年、うちてんかん発作によると思われる事故は 71件 (そのうち免許取得/更新時に申請していたのは 5名) と、有病率を考えれば決して多くありません。

・ヨーロッパでは欧州連合指令による規定があります。自家用運転での発作抑制期間 (この期間発作がなければ免許がとれる) は、てんかん 1年、初回発作 6ヶ月、薬物調整時 6ヶ月、てんかん手術後 1年、職業運転での発作抑制期間は、てんかんの場合内服なしで 10年、初回発作 5年です。今後これが global standardになっていくのではないかと考えられています。ちなみに、発作抑制期間の長さにより、あまり事故率は変わらないというデータがあるそうです。

・運転適性 がない (発作の恐れがある) のに運転していた人のうち、35%が仕事や生活の必要性のため免許がどうしても必要なので申告していなかったそうです。

講演後、フロアから、いくつか良い質問がありました。

①初回発作のときどうするか?

てんかんは、 2回以上の発作があって初めて確定診断されることが多いです (初回発作があっても、半分の患者さんはその後発作を起こさない)。なので、初回発作のみでは診断できない場合があります。このとき運転免許をどうするかに関しては、明確な決まりはないそうです。

②仕事がなくなるのが怖いから、患者さんは申請できないのでは?

現行ルールを守って貰うため、世間を巻き込んだ議論をする必要があります。現行ルールで良いのかは学会で方針を出したい、とのことでした。

③減薬をどうプランニングするか?

成人に成る前にトライすべきで、成人になってからは極めて慎重であるべき、とのことでした。

(2012年 10月11日16:00-18:00に日本てんかん学会のワークショップ「てんかんと運転」があり、そこで様々な事が決まる見込みなのだそうです)

9時からは、「実地に役立つ神経遺伝学」の講義でした。家族性 ALSと診断されていた MJD, MERFF, Friedrich ataxia with retained reflexes, Posterior column ataxia, hereditary spastic palarysisが症例としてあげられました。遺伝形式などにより使う手法が違うので臨床診断がしっかりしていないと無駄が多くなってしまう、という話でした。どのような場合にどのような解析法を使うかなど、勉強になりました。参加者が少なかったのが残念でした。

10時からポスターを見に行きました。京都からの報告で、 ALS/Paget病の患者さんで VCP変異が見つかった話などが興味深かったです。日本ではその変異はないかと思っていたのですが、実際にはあったのですね。

13時 30分から、「東日本大震災:あれから一年」というシンポジウムに参加しました。まず岩手医大、東北大学の先生が、震災により生じる健康被害についてどう研究をするか、どうデザインを組むかを話されました。私は「そういう話は学会誌の読み物にまとめて、こういう場じゃないと聞けない話をすればよいのに」と思いました。

3人目の演者、福島県立医大の宇川教授は「調査する側とされる側の思いは違う」とチクリと言って、講演を始めました。福島県は、浜通り、中通り、会津と 3地域にわけられますが、それぞれの震災後の状況、現状を話されました。放射能汚染についても触れました。現在、福島市の放射線量はローマと同じくらいですが、雨樋など一部高い場所もあるようです。どの程度怖がるかは、科学じゃなくて価値観の問題なので難しいようです。考えさせられました。

4人目の演者は斎藤病院の斎藤先生でした。石巻の民間病院の院長です。周囲が全て津波に飲まれ、1個のおにぎりを半分にして、それを 1日 2回にして飢えを凌いだとおっしゃっていました。斎藤病院では、震災後救急患者が 2-3倍になりすぐに満床になりました。DMATは石巻赤十字病院には来ましたが、斎藤病院には来ず、その後東北大学が様々な支援をしたそうです。支援物資の分配も上手くいっていなかったそうで、民間病院や在宅の方へは届くのが遅れました。石巻では 3ヶ月で 70%, 6ヶ月で 86.8%の病院が再開しました。民間病院には、建物に半分の補助がでましたが、医療機器は補償されず、官民格差を感じたとのことでした。最後のまとめで斎藤先生がおっしゃっていたのは、①震災時に拠点病院以外の病院をどうするのか?②卸売り業者が被災して薬が手に入らなくなった場合、メーカーから直接買えるようにならないか?③支援物資をどう届けるのか?④予算案が国会を通るのに何故 8ヶ月も空白が生じたのか?ということでした。

5人目の演者はいわき病院の先生でした。いわきは揺れ、津波、原発事故のトリプルパンチをくらいました。原発事故後、1週間は外を車が走っていなかったと証言されていました。いわき病院では、津波時に寝たきりの患者さんを院内の高いところに避難させ、その後全ての患者さんを他院に搬送し、そして戻ってきて診療を再開しました。講演では、被災後の ALSの患者さんの動向などについて話されました。現在のいわきでは、流出した人はいるものの相双地区から流入した人がいて、若干人が増えたそうです。転勤してくる方の住む家がないほどだとおっしゃっていました。

まだシンポジウムは続いていたのですが、被災地の先生の話が終わったため、別のシンポジウムに出るため、途中で抜けました。このシンポジウムで残念だったのは、参加者が非常に少なかったことです。他に勉強しなきゃいけないことがたくさんあるのはわかりますが、1年経つと人の関心は移ろうものだなぁ・・・と。まだ引きずっている私の方がおかしいのでしょうか?

さて、15時 15分からは「神経学と精神」というシンポジウムに出ました。まずは神経疾患で見られる精神症状について。急性自律性感覚性ニューロパチーでは半数以上に精神症状が見られる、片頭痛で遁走が見られることがある、post stroke depressionでは中前頭回の血流が低下している、CADASILではアパシーが見られる、パーキンソン病では性欲亢進が見られることがある、抗 NMDA受容体抗体脳炎では意識・自我の障害がみられる、拒食症では insulaとの関係が指摘されている、視床梗塞では personality障害が出る・・・という話でした。その後、精神科の先生からの話を聴き、神経内科とは違った立場からの見方に新鮮さを感じました。

これで私が聴講した全ての講演が終わりました。参加できた講演はこれでもごく一部で、神経学の幅広さを実感しました。

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第53回神経学会総会

By , 2012年5月22日 8:52 AM

本日から日本神経学会総会です。今のところ、下記の演題を聴きに行くつもりでいます。しかし早朝の演題は、起きられない可能性があるので微妙なところです (^^;

 

第53回日本神経学会 (2012年)

東京国際フォーラム 有楽町線有楽町駅徒歩1分

 

5月22日(火)

11:00 神経学会生涯教育セミナー Hands-on 6 「高次脳機能」第13会場 (ガラス棟7階)

5月23日(水)

8:00 教育講演 E(1)-1 ビデオでみる不随意運動の基礎 第3会場 (ホール棟B 7階)

9:00 教育講演E (1)-4 絞扼性末梢神経障害の手術 第4会場 (ホール棟B 7階)

10:00 ポスター発表 第16会場 (展示ホール地下2階)

パーキンソン病①画像、パーキンソン病④姿勢異常、筋疾患③筋ジストロフィー

16:00 教育講演E(1)-5 ALSの遺伝学 第3会場 (ホール棟B 7階)

or シンポジウムS(1)-9 小脳症状とは何か 第6会場 (ホール棟5階)

5月24日 (木)

8:00 教育講演 E(2)-1 てんかん発作を診て勉強しよう 第3会場 (ホール棟B 7階)

9:00教育講演 E(2)-3 感覚情報と大脳基底核 第3会場 (ホール棟B 7階)

10:00 ポスター発表第16会場 (展示ホール地下2階)

認知症⑧検査、パーキンソン病⑫ DBS、運動ニューロン疾患⑨社会医学、HIV, HTLV1、その他の機能性疾患②RLSなど

5月25日 (金)

8:00 ホットトピックス H(3)-1 てんかんと運転免許 第2会場 (ホール棟C 4階)

9:00 教育講演 E(3)-3 実地に役立つ神経遺伝学 (脊髄小脳変性症を中心に) (ホール棟B 4階)

10:00 ポスター発表第16会場 (展示ホール地下2階)

パーキンソン病⑭病態生理、パーキンソン病⑮基礎研究、パーキンソン病⑯病理・遺伝、脊髄小脳変性症④分子病態、脊髄小脳変性症⑤遺伝子異常、運動ニューロン疾患⑩神経病理、運動ニューロン疾患⑪遺伝、運動ニューロン疾患⑫分子病態、てんかん③画像検査・治療など、末梢神経疾患⑤CMTなど、筋疾患⑥ポンペ病その他

13:30 シンポジウムS(3)-12 東日本大震災:あれから一年 第8会場 (ホール棟D 5階)

15:15 シンポジウム S(3)-16 神経学と精神 医学の境界を再度考える 第3会場 (ホール棟B 7階)

今回の総会で面白いのは、「てんかんと運転免許」「東日本大震災:あれから一年」といった、時事的問題を扱った演題が多いことですね。神経内科医が社会で果たす役割を考えましょうということでしょう。楽しみです。

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大町病院から

By , 2012年5月20日 5:27 PM

以前、「南相馬市立総合病院の記録」という記事をお伝えしました。

同じく医療ガバナンス学会で、大町病院からいくつかの報告がなされています。記事へのリンクを貼っておきます。現場の人たちの思いが伝わってきます。

Vol.323 わだかまりを越えて 2011年11月23日
Vol.347 福島県南相馬市・大町病院から(2) 2011年12月23日
Vol.366 福島県南相馬市・大町病院から(3) 2012年1月15日
Vol.411 福島県南相馬市・大町病院から(4) 2012年2月22日
Vol.446 福島県南相馬市・大町病院から(5) 2012年3月29日
Vol.489 福島県南相馬市・大町病院から(6) 2012年5月16日

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