ユーディ・メニューイン

By , 2007年3月22日 11:45 PM

「ユーディ・メニューイン『コンサート・マジック』を語る」という番組をクラシカで放映していました。

メニューインは若くして完成された演奏で一世を風靡しましたが、20歳代からスランプに陥り、苦しみに満ちた演奏家人生を送りました。このような音楽家としての苦悩は、彼を哲学者として育てました。彼はいくつもの著書を残しています。

「コンサート・マジック」は、若き日のメニューインの演奏を記した映画で、今回の番組は、メニューイン自身がその演奏を振り返るという企画でした。いくつものメニューイン語録が登場します。

まずはマタイ受難曲のアリア「神よ 憐れみたまえ」について。

これほど心を動かされた音楽はありませんでした。個人の苦痛が表現されているからでも、それを劇的に描いているからでもありません。この曲は全人類の苦痛を描いているのです。キリストの十字架に象徴される人類の苦痛と罪です。安堵感を与えてくれる音楽でもあります。

続いて、バッハについても語っています。

  バッハから遠くなるほど彼の曲に価値が出てくる。現代社会はあまりにも傲慢で不遜です。伝統を軽んじ物事を深く考えない。暴力的で騒々しく残酷です。五感を苛み自然を破壊し、人間を攻撃します。じきにバッハの音楽が真価を発揮します。人々に癒しを与える解毒剤として。

彼の一言一言を聞いて、深い言葉だなと思いました。

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飲んだくれ

By , 2007年3月21日 7:50 PM

ここ1週間は非常にハードでした。当直が週の半分くらいあり、当直がない日は毎日明け方まで飲んでいたためですが、藤沢秀行翁がそんな精神状態を代弁してくれています。

 よく学びよく遊べ、という言葉は本当だと思う。人間というものは、人一倍勉強したり働いたりするためには、人一倍の精神の遊びが必要なようだ。集中の度合いが激しければ激しいほど、解放や発散も思い切ってしなければバランスが悪くなってしまう。
言い訳に聞こえるだろうか。私は碁にのめり込むほどに、ガラッと気分を転換することの必要性を強く感じるようになった。いっときでも碁を忘れるためには、張り詰めた神経をぐにゃぐにゃにほぐしてやらなければならなかった。
そこに、競輪や競馬という面白い博打があった。美味い酒があった。そういうことである。
(「野垂れ死に」藤沢秀行、新潮新書より引用)

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日本医師会の広告

By , 2007年3月21日 7:38 PM

2007年3月18日に日本医師会が打った新聞広告。いささか遅すぎた感もありますが・・・。

今、日本の産婦人科・産科の半分は、 お産を受け入れられない、という事実があります。
地域の産科が、次々と閉鎖に追い込まれています。
それにより、将来50万人の「お産難民」が発生する可能性があります。

「休日・夜間急患センター」を訪れる救急患者の50%以上は、 赤ちゃんや子どもたちです。
しかし、夜間に子どもを連れて行っても小児科医がいない、 という事態が今、全国各地で起きています。

こうした問題の要因として考えられるのは、
まず、地方と都市部において、
医師数に格差が生じていること。
さらに、日本は人口1,000人当たりの医師数が、
先進国中、最も少ない国であること、
などがあげられます。

国は、5年後の平成24年3月末までに、
全国に現在38万床ある「長期療養者のためのベッド」を、
半分以下の15万床まで削減する方針を打ち出しています。

それにより、退院を余儀なくされる「医療難民」が、2万人。
在宅や施設での受け入れすら困難な「介護難民」が、4万人。
計6万人の「難民」が発生するおそれがあります。

WHOから「健康達成度世界一」と評価されてきた日本の医療は、 今や、崩壊に向かっています。
この国の医療が抱える危機を、乗り越えるためのタイムリミットは、刻々と近づいています。
あなたとともに私たち日本医師会は、医療の崩壊を食い止めたい。
医療の未来を守っていきたいのです。
あなたの声を、ぜひ、私たちにください。
私たちは、みなさんのご意見を、国に訴えかけてまいります。

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野垂れ死に

By , 2007年3月21日 7:00 PM

「野垂れ死に (藤沢秀行著、新潮新書)」を読み終えました。囲碁界の巨匠ですが、とてもスケールの大きな人物であったそうです。愛すべき方です。私は仕事で著者にお目にかかる機会があり、「君はなかなか見込みがあるなぁ」と名刺を頂きました。何の見込みだったのかは聞けずじまいでしたが。

以下、面白かった部分をいくつか紹介します。一番最初に紹介するのは、本書の冒頭部です。彼の死生観が表れています。

 こんなに生きるはずではなかった。
野垂れ死にするつもりだったのだ。
碁を打って打って打ちまくり、好きな酒を気が済むまで飲んで、ふらっと出かけた競輪場あたりである日コトッと死んでいる。
そんな最期を、もって早くに迎えてしかるべきだった。
それが、くたばり損なった。何度もチャンスはあったのだが、そのたびに間違って生き延びてしまい、何の因果か、今年二〇〇五年六月で八十歳になる。

続いて、彼の複雑な生い立ちについて。凄く特殊な環境で育ってきたことがよくわかります。

私は誕生日が三回変わった。母親に確かめた正しい誕生日は六月十九日なのに、どういうわけだか、引っ越すたびに、新しく交付された保険証には違う誕生日が書いてある。

(中略)

私の兄弟の数も、正確に言えば、戸籍は間違っている。私は四人兄弟の長男ということになっているが、わかっているだけで一九人兄弟なのだ。本当はもっと多いかもしれない。
ただし、それは私の親父の都合でそうなったのであって、戸籍を作ったお役人に罪はない。母親の違う子を十九人も作って、子供の戸籍を分けたのは親父の仕業である。

彼の扱い方は周りもよくわかっていたようですが、下記に示す結婚式でのエピソードは「えーっ、ここまで徹底しているの?」と思いました。

考えてみると、三男も四男も、その結婚式にすら私は出ていない。三男のときなどは、「どうせ来ないから」と呼ばれもしなかったのだ。
怠け者の私は、冠婚葬祭が大の苦手である。決まりきった形式に沿って、心にもないことを言ったりやったりするセレモニーが、面倒で仕方がない。

彼の伝説については、他にも色々とあり、本書にたくさん載っています。

(参考)

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レッスン

By , 2007年3月18日 8:30 AM

昨日、19時くらいから、バイオリンのレッスンを受けて来ました。持って行ったのは、ベートーヴェンのヴァイオリン協奏曲。ツィンマーマンのコンサートを聴きに行く前に予習しておこうと考えたからです。

テクニック的な点では、右手の使い方を工夫して音色の種類を増やすことを教わりました。

音楽的な面では、和声からの音楽のとらえ方を教わりました。古典派のドイツ音楽は、ドミナント(Ⅴ)→トニカ(Ⅰ)の和声進行が多く使用されます。ベートーヴェンでは特にそれが顕著です。ドミナントはトニカに向かう性質を持ち、トニカは解決するという性格を持つことが、ドイツ音楽の持つ雰囲気に多く影響しています。

フランス音楽は、これ以外の和声を多様することで、簡単に終止に向かわず、移ろいやすさが表現されます。

このようなことを教わって、最後に、このコンチェルトでどのカデンツァを用いるかという話になり、「いろいろな版のカデンツァをまとめて一つの本にしてくれたら、好きなカデンツァが弾けるのに・・・」と言ったところ、「出版社に聞いてみようか?」となりました。

有意義なレッスンでした。理論的な面ももう少し勉強していきたいと感じました。

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わが真実

By , 2007年3月12日 8:23 PM

「ミッシャ・マイスキー『わが真実』、伊熊よし子著、小学館」を読み終えました。

ミッシャ・マイスキーについてのドキュメンタリー番組を見たときから、誠実な演奏家だなとの感想を持っていました。録画したビデオを何度も繰り返し見た記憶があります。

彼は、全ロシアコンクールで優勝しながら、KGBによって無実のまま牢獄に入れられます。強制労働の合間、独房の窓の間から、一枚の葉っぱが舞い込んでいたことで「生」を感じ、その葉っぱを大事にしていたエピソードが残っています。

彼がドキュメンタリーで語る言葉から、演奏が聴きたくなり、CDを買いました。バッハの無伴奏チェロ組曲ですが、1984年と1999年の録音両方聴き比べました。どちらも胸を打つ演奏でした。

本書の中で、知らない彼のことをたくさん知りましたが、過去に見たドキュメンタリーでのイメージ通りでした。苦難のいくつかに、読んでいて泣きそうになりました。

最近、乾いている人には、お薦めの一冊です。

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梅毒の歴史

By , 2007年3月11日 10:59 AM

「梅毒の歴史 (C. ケテル著, 寺田光徳訳, 藤原出版)」を読み終えました。量、内容ともに重い本でした。

梅毒は、その激烈な症状と、周囲の偏見により患者を苦しめてきました。また、予防についても、貧しさから売春を生活の手段とする売春婦や無知な若者、ストレスにさらされる兵隊から性をとりあげることは、人権を含めて困難でした。そして、発見のための方法や、家庭内に入り込んで配偶者に移された梅毒の治療についてなど問題は山積みでした。

梅毒は Treponema pallidumによって起こります。Pallidumは蒼いという意味で、例えば脳の淡蒼球という部位は、ラテン語で globus pallidusと言います。トレポネーマ自体は、Treponema pertenue, Treponema carateumとして紀元前1000年代にユーラシア大陸に存在し、ゴム腫に侵された骨-骨膜障害が示されています。

コロンブスは 1493年3月31日にアメリカからスペインに帰国しました。彼は 4月20日にバルセロナに入り、6人のインディアンを披露しました。このためか、梅毒の起源について、コロンブスがアメリカから持ち帰ったとまことしやかに言われています。

ところが、彼らの誰かが梅毒に感染していたという記録はありません。そして第2回目の航海は 1496年なので、コロンブスが新大陸から梅毒を持ち帰ったとは言えないのかもしれません。むしろ、その間にアントニオ・デ・トレスが 1494年に 26人、1495年春に 300人の男女をアメリカからスペインに持ち帰っています。

梅毒の最初の記載は、フォルノヴォの戦い (1495年7月5日) の記録にあり、いずれにしても流行は 1495年以降と言えそうです。筆者の立場は、むしろアントニオ・デ・トレスらの艦隊がアメリカから持ち帰った女性が、スペイン人らに「利用」されて、梅毒が広まったというもののようです。

フランスのシャルル 8世のイタリア遠征で、大量のフランス人兵士が梅毒に感染したと言われています。フランス人は「ナポリ病」、イタリア人は「フランス病」と呼びました。

このことについての文章が面白いので引用します。

病に最近襲われたばかりの国では伝染病だとの疑いをかけた-たいていは正しい-隣国の名をそれぞれの病に付与することとなった。そのため呼称は瞠目すべき多様さを示している。モスクワの人々はポーランド病、ポーランド人はドイツ病、ドイツ人はフランス病と言う-フランス病という名はイギリス人にも、イタリア人にも (このことが問題を難しくしている) 歓迎された。フランドル人やオランダ人は「スペイン病」と言い、マグレブ人の呼び方と同じである。ポルトガル人は、「カスティリヤ病」と名付けているのに対して、日本人や東インドの住民は「ポルトガル病」と呼ぶ。スペイン人だけが黙して語らない。奇妙なことだが・・・。

梅毒は瞬く間に世界中に広まりました。1607年に死亡した戦国武将の結城秀康も梅毒 (シナ潰瘍) だったと言われています。

当時は治療法がありませんでした。水銀療法かグアイヤックによる治療が主体で、いずれにしても大量に発汗させて毒素を出すのが治療とされていました。サウナのようなところに閉じこめられて、治療のせいで死亡した人もたくさんいたそうです。最終的には、水銀治療が中心となりましたが、今日ではあまり効果がないとされています。詐欺まがいの治療が横行した時代でした (この点は、現在の日本の新聞の広告欄で宣伝される健康食品と変わりません)。

罹患予防にコンドームが開発されましたが、性行為後にかぶせるのが使用方法でした。

乞食を閉じこめるための政策として、1656年パリ総合救貧院が建設され、男性用はビセートル、女性用はサルペトリエールとして知られるようになりましたが、梅毒患者が多く収容され、人体実験のようなものも行われていました。

こうした暗黒時代は 1800年前後まで続きました。

19世紀に入ると、リコールが登場します。彼はデュピュイトランの弟子で、ナポレオン 3世付きの医者でしたが、様々な業績を残しました。例えば、囚人に淋病を移植し、梅毒が発生しなかったことから、梅毒と淋病は違う疾患であることを示しました。

19世紀後半には、リコールの弟子であるフルニエらにより、統計学的、理論的考察がされるようになります。梅毒の原因探しが始まります。

1877年にパストゥールにより伝染病の性質が明らかにされたことにより、伝染病の研究が加速します。1878年にクレープスが下疳の中に梅毒螺旋虫 (エリコモナス) を発見したと主張しました。1905年ジーゲルが梅毒患者の血液と病変部に原生動物を発見し、シトリクテズ・ルイス (梅毒封入体) と命名しました。シャウディンとホフマンが諸臓器にそれを追認しました。このスピロヘータはトレポネーマ (ねじれた) ・パリドゥム (蒼白い) と命名されました。

1906年には、ボルデが非トレポネーマ抗原反応、その後ワッセルマンやナイサー、ブルックらが溶血反応による診断を開発し、ボルデ=ワッセルマン反応と呼ばれることになります。そして、野口英世らは、つかの間の培養に成功します (長期の培養は現代でも不可能とされています)。

治療の面では、1905年にアトキシルという砒酸剤が生まれますが、毒性のため放棄されます。一方、エールリッヒは、梅毒の病原体のみを排除する「魔法の弾丸」を求め、5価の砒素を3価とし、1909年に日本人秦左八郎の協力で、606回目の化合物を作るに至り、サルヴァルサン、通称「606」が誕生しました。さらにエールリヒはネオ-サルヴァルサン、通称「914」を開発しました。梅毒に大打撃を与えることは出来ず、水銀に対してすら優位性を示せませんでしたが、明るい兆しが出始めました。

1877年にパストゥールがカビと細菌の関係から抗生剤の登場を予感し、1928年にアレクサンダー・フレミングがペニシリウム・ノタトゥムを発見しました。そして 1939年にオクスフォード大学の研究チームが精製に成功しました。1943年にマホネー、アーノルド、ハリスが梅毒治療を成功させ、「奇跡の砲弾」が見つかりました。

梅毒は一旦激減しましたが、その後それ以上減ることはありませんでした。性病の恐怖が去り、若者の間で感染者が増加し始めたからです。

ちなみに、benzathine Penicillin G 240万単位一回筋注で梅毒の治療は終わりですが、日本では手に入りません。アジスロマイシン 2g 1回内服で良いとする報告もありますが、耐性菌の問題があるようです。日本で梅毒の治療をするには、認可されている薬の問題などで、ちょっとした工夫が必要です (「抗菌薬の使い方,考え方」岩田健太郎, 宮入烈著, 中外医学社, 参照)。

1980年に天然痘撲滅宣言がされましたが、翌年、1981年にロサンジェルスでカリニ肺炎が同性愛者に多発しました。1983年にパリのパストゥール研究所で新種のレトルウイルスが検出され「LAV: Lymphadenopathy associated virus」と名付けられました。これはHTLV-Ⅲとも呼ばれますが、現在ではHIVと呼ばれています。感染症の制圧に近づきつつあった人類は、新たな敵に会いました。このウイルスに罹患すると、免疫が破綻するため、これまで制圧したはずの感染症も重篤化するのです。

人類が梅毒制圧に要したのは約 450年。本書の結びの言葉はこうです。「エイズ・ウイルスについてもこれと同様なことを言えるようになるのに五世紀の期間を必要とすることがないよう祈ろう。」

追記:本書には、多くの文学小説が登場しますが、梅毒であったシューベルトやパガニーニのことは書かれておらず、少しがっかりましした。しかし、彼らの置かれた時代のことはわかり、満足でした。

(参考)
進行麻痺

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ヤマモトコウジ

By , 2007年3月10日 7:43 AM

先日のバイト当直で、看護師から、「先生ってヤマモトコウジに似ているって言われたことないですか?」と聞かれました。

広島の監督ですか?」と聞くと、「違う、新撰組の!」と言われました。

極楽とんぼの人ですか・・・。女性襲いそうに見えますか・・・」と話したところ、「違う!先生知らないの?」と怒られました。

家に帰って、ネットで、「ヤマモトコウジ」を調べると、「誰だよ、このイケメン」という美男子がそこにはいました。

お世辞だったのでしょうが・・・。

(追記)
後日、私のこの日記をみた同僚から、「いくらなんでも、無理ありすぎです。」苦情のメールが来ました。

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第1回抄読会

By , 2007年3月8日 8:12 AM

有志で文献を持ち寄って、抄読会を開きました。いざ始めようと思ったところで、病棟急変。3人でベッドサイドに飛んでいき、主治医の手伝いをしました。その後仕切なおして、やっと開始。

私が選んだ論文は、「Ge S, et al. Where is the Blood-Brain Barrier…Really?. J Neurosci Res 79: 421-427, 2005」です。これはBlood-Brain Barrier (BBB: 血液脳関門) について記したMini-Reviewでした。「細動脈、毛細血管、細静脈はそれぞれ血管の形態も、transporterも違い、通す物質が違うことを考えると、BBBはどこにあると言えるのだろうか?」という趣旨でした。

末梢神経障害に興味を持つK先生は、「Hughes BW, et al. Molecular architecture of the neuromuscular junction. Muscle Nerve 33: 445-461, 2006」を紹介しました。Nuromuscular junction (NMJ) について、知らなかったことをたくさん教えて頂きました。例えば、ACh受容体のサブユニットの話、脱神経を起こした筋肉が未熟型 (小児期に発現しているγサブユニットを持つAChR) を再発現することが自発放電の病態原理であり、線維性収縮に相当するなどというのは、電気生理学とも結びついた話で、興味を持ちました。

電気生理専門の I先生は、「Salzman KL, et al. Giant tumefactive perivascular space. AJNR 26: 298-305, 2005」を紹介しました。ただただ、画像の迫力に圧倒されました。Perivascular spaceは Neurological deficitをほとんど伴わないことを考えると、発生の段階で何か原因があるのかもしれません。見つかるきっかけも頭痛などで、一般の外来受診の症状の内訳と変わりません。また、加齢によって大きさが変わらないとする報告もあるようです。

22時半くらいに抄読会が終わってから、楽しい酒を飲みに行きました。

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インフルエンザ?

By , 2007年3月5日 9:46 PM

発熱してしまいました。埼玉で外来終わって、大学病院戻ったとき、何となくだるいなとは思っていたけど。

でも、明日は抄読会だから、今から英語の論文読まないと。だるー。

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