Category: 読書

動物に「うつ」はあるのか

By , 2015年1月11日 1:26 PM

動物に「うつ」はあるのか 「心の病」がなくなる日 (加藤忠文著, PHP新書)」を読み終えました。このようなタイトルがついていますが、著者は「動物にうつはあるのか」を議論するための土台として、「精神疾患とは何か」あるいは「どうやって動物が精神疾患であることを判断するのか」といった問いを投げかけつつ、ヒトの精神疾患に話を進めていきます。「精神疾患の診断はどのようにくだされているのか」「現在どのような戦略で研究が行なわれているのか」など知りたい方にとって、本書はお勧めだと思います。

著者は、臨床医でありかつ基礎研究者であり、臨床研究と基礎研究の違いをわかりやすく述べていました。広報についても両者は違うようで、これが基礎系の科学ニュースを見て「ちょっと盛りすぎだろ」と感じる私にとって、理解しやすい説明となっていたので、引用しておきます。

雑誌投稿だけではなく、一般向けの発表のときの説明のやり方も、臨床研究と基礎研究では違うと感じます。臨床研究の成果というのは、なにしろ直接、患者さんに関係があるだけに、とにかく過大なことをいわないよう、最大限の注意を払って発表することになります。

たとえば、臨床サンプルを使って、この分子がこの治療法の開発に役立ちそうだというときでも、「治療法解明に一歩前進」とか、「新たな治療法の開発のめどが立った」などというと、ひょっとしたら患者さんたちにありもしない希望をもたせてしまうかもしれない、何か迷惑がかかるかもしれない、とブレーキが強く働くのです。ですから、まだその手前だということを強調するなど、むしろ非常に自制的に発表します。

ところが、基礎研究の場合は、基本的にまだ患者さんから遠いというのが前提で、そのまま発表したのでは、一般の人にとっては世の中の何に関係があるのかすらまったくわからない、ということになります。そのため、その研究成果が将来的にどのように世の中の役に立っていくのかを、あえて発表に入れたほうがいいわけです。

これを臨床研究側から見ると、「まだまだ臨床には遠い完全な基礎研究なのに、いかにも患者さんにすぐ役立つような言い方をして、ひどいなぁ」となるときもあります。しかし、それも、お互いの立場を考えないといけないし、メディアの方々にも、臨床研究の発想と基礎研究の発想の違いを知ったうえで報道していただけるとありがたいと思います。

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新・戦争論

By , 2014年12月29日 10:44 AM

新・戦争論 僕らのインテリジェンスの磨き方 (池上彰・佐藤優, 文春新書)」を読み終えました。2014年は、ウクライナ、イスラム国、中国や北朝鮮との関係等、国際問題に注目が集まった一年です。こうした問題の背景が詳しく語られていて、とても勉強になりました。

目次

序章 日本は世界とズレている
第1章 地球は危険に満ちている
第2章 まず民族と宗教を勉強しよう
第3章 歴史で読み解く欧州の闇
第4章 「イスラム国」で中東大混乱
第5章 日本人が気づかない朝鮮問題
第6章 中国から尖閣を守る方法
第7章 弱いオバマと分裂するアメリカ
第8章 池上・佐藤流情報術5カ条
終章 なぜ戦争論が必要か

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蘭学事始

By , 2014年12月28日 8:13 AM

蘭学事始 (杉田玄白著, 片桐一男訳, 講談社学術文庫)」を読み終えました。

杉田玄白が日本の蘭学黎明期を綴った、あまりにも有名な本です。南蛮流、西流外科、栗崎流外科、桂川流といった、日本に存在する西洋医学の流派の解説から始まります。それは日本が鎖国する前に入ってきたものであったり、あるいは鎖国後に出島から入ってきたものであったりします。しかし、多くが口伝によるもので、西洋の本を読んで学んだ者は皆無でした。一つには、日本で横文字が禁止されていたことがあります。この辺りの事情について、杉田玄白は次のように綴っています。

幕府創業の前後、西洋のことについては、いろいろなことがあって、すべて厳しい御禁制が出されていた。そのため、渡来を許されていたオランダでさえも、通用している横書きの文字を読み書きすることは禁止されていた。それで、通詞 (通訳官) たちも、ただオランダ語を片仮名で書き留めておく程度で、口で覚えて通弁の用を足すくらいで年月を経てしまった。そんなことで、誰一人として、横書きの文字を読み習いたいという人もいなかったということである。

しかるに、万事その時がくれば、おのずから開け整うものであろうか。有徳廟 (八代将軍吉宗) の御時、長崎の阿蘭陀通詞西善三郎、吉雄幸左衛門、もう一人名を忘れてしまったが、なにがしという人びとが寄り合って相談したところでは、「これまで通詞の家で、一切の御用向きを取り扱うのに、あちらの文字というものを知らないで、ただ暗記していることばだけで通弁して、入り組んだ多くの御用を、どうにかこうにか 弁じつとめてはいるものの、これではあまりにも不十分な状態である。どうかわれわれだけでも横文字を習い、あちらの国の書物を読んでもよい許可をいただいたらどうだろうか。そのようになれば、今後は万事につけ、あちらの事情も明白にわかり、御用も弁じよくなるはずである。これまでのようでは、あちらの国の人にいつわりだまされるようなことがあっても、これを問いただす手段もないことである」と、三人は相談して、このことを申し出て、「なにとぞ御許可をいただきたい」と幕府へお願いしたところ、聞きとどけられ、「至極もっともな願いの筋である」ということで、すぐに許可をいただいたということである。これこそ、オランダ人が渡来するようになってから百年あまりして、横文字を学ぶことのはじめであるということである。

これを読むと、江戸時代中期までの蘭学が、どういう状況であったかがよくわかります。杉田玄白が、ターヘル・アナトミアを手に入れた直後に骨が原で腑分けがあり、そこで見たものは、「ターヘル・アナトミア」に描かれた図と全く同じでした。その翌日から、前野良沢や中川淳庵らと、ターヘル・アナトミアを翻訳した「解体新書」の執筆に取り掛かったのは、あまりにも有名な話です。

本書には、「解体新書」執筆にあたるエピソードが多数登場します。有名な逸話が多いのですが、その中で私が知らなかったのは、前野良沢が執筆に専念するあまり、本務を怠って、主君に告げ口されていたことです。ところが主君の奥平昌鹿公は、「毎日の治療に精勤するのも勤務である。また、その医療のため役立つことにつとめ、ついには天下後世の人民のために有益となるようなことをしようとするのも、とりもなおさず、その仕事を勤めるということである。彼はなにかしたいと思うところがあるように見うけられるから、好きなようにさせておくべきである」と答えたそうです。懐の広い主君だったのですね。その他、杉田玄白が「諸君が事業の完成をみる日には、わたしは地下に眠る人になって、草葉の蔭からその成果を見ていることだろう」と語ったことをきっかけに、桂川甫周が杉田玄白に「草葉の蔭」というあだ名をつけたというエピソードには笑いました。凄いあだ名ですね。

横文字の許可、「解体新書」の出版などを経て、蘭学が日本全国に広まっていきました。本書には、こうして生まれた蘭学者たちの人物評も多数載っています。私の地元津山出身の宇田川玄真、宇田川玄随なども評されていました。

さて、最後にお願いがあります。私は、杉田玄白が書いた別の本も読みたいと思っています。解体新書は昔読みましたが、まだ読んでいないのが「形影夜話」という本です。杉田玄白が、行灯の光で出来た自分の影との対話を記しています。現在絶版であるものの、希望する方が多ければ、復刊される可能性があります。下記のリンクより、リクエストを出して頂ければ嬉しいです。

杉田玄白 形影夜話

 

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コーマルタン界隈

By , 2014年12月27日 9:37 AM

コーマルタン界隈 (山田稔著、編集工房ノア)」を読み終えました。著者が、コーマルタン界隈で日常起こったことを綴った本です。ベランダに出たら扉に鍵が掛かって閉め出されてしまい大騒ぎになったエピソードには、思わず笑ってしまいました。

本書の冒頭は「マドレーヌ寺院からオペラ座の前を通って東へ延びる大きな通りがいわゆるグラン・ブルヴァールで、そのマドレーヌとオペラの中間、正確にいうなら、日本でもシャンソンで名高いオランピア劇場の角から始まり北へ、オスマン大通りを横切ってサン=ラザール通りに達するかなり長い通り、それがコーマルタンである」と始まります。地図で調べてみました。オペラ・ガルニエのやや西にある通りですね。

コーマルタン通り

コーマルタン通り

昨年某棋士とパリを訪れた時、この界隈を歩いたことに今になって気付いたのですが、その前にこの本を読んでいればもっと感じるものが違っただろうなと思いました。またパリに行く機会があれば、この辺りを散策しようと思います。

 

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華岡青洲と麻沸散

By , 2014年12月3日 8:18 AM

華岡青洲と麻沸散 麻沸散をめぐる謎 (松木明知著, 真興交易医書出版部)」を読み終えました。華岡青洲が麻酔薬を用いて乳癌の手術を行ったことは有名ですが、詳しい話を知らなかったのでとても勉強になりました。麻沸散は、曼陀羅華と烏頭の絶妙な組み合わせによる部分が大きいのですね。また、呉秀三先生が、学問上のミスをいくつか犯していたことにびっくりしました。

本書を読むと、華岡青洲は、一過性の下肢の麻痺を患ったことがあるようです。1年弱で改善し、その後は症状の出現がなかったようなので、急性散在性脳脊髄炎 (ADEM) や Guillain-Barre症候群などの可能性を考えてみたいです。華岡青洲と会って診察ができれば診断できると思うのですが。

華岡青洲は最も知名度の高い日本の偉人の一人です。彼についてここまで詳細に調べた報告を私は知りません。一方で、とても読みやすい本です。興味のある方は是非読んでみてください。

以下、備忘録です。

・呉秀三は、華岡青洲が初めて全身麻酔を用いて乳癌を治療した日を 1年間違えて著書に記載した。これが世に広まってしまった。さらに、呉秀三は「乳癌治験録」原文の 18字を欠落して活字化したばかりでなく、注釈なく原文の誤りの一部を訂正するという、好ましくない行為を行った。また、呉秀三が用いた「乳癌治験録」の写真は、実際と異なる合成写真が含まれていたという。(p.12)

・鎖肛、鎖陰は華岡青洲による命名である。(p.32, p.180)

・矢数道明は、華岡青洲の妻加恵の失明について、曼陀羅華の他に附子による眼内圧の上昇が原因になっていることを動物実験の結果から推察した。(p.42) (※ただし、華岡青洲が麻沸散を妻に用いたという信頼できる証拠は残されていないらしい (p.109~110))

・18世紀半ば頃から、西欧では気体の研究が盛んになった。1757年ジョセフ・ブラックによる二酸化炭素の分離、1771年ジョセフ・プリーストリーやカール・シェーレによる酸素の発見、1777年アントワーヌ・ラヴォアジェによる酸素の命名。この頃から新発見の気体を病気の治療に応用しようとする動きが出てきた。1799年にハンフリー・デービーは亜酸化窒素の鎮痛効果を発見し、翌年出版。1824年にヘンリー・ヒックマンは二酸化炭素吸入させて動物に手術を行い、吸入麻酔法の原理を確立した (CO2ナルコーゼ)。西欧で最初に全身麻酔法の概念が示された。(p.90~91) (※亜酸化窒素による麻酔が行なわれるようになったのは 1840年代)

・華岡青洲の「麻沸散」の命名は、中国の三国志時代の名医華佗による「麻沸散」からの仮借である。(p.97)

・華岡青洲の麻沸散の処方は、京都の花井仙蔵、大西晴信の処方を改変したものであり、中国の元時代の「世医得效方」まで遡ることができるという。(p.101)

・華岡青洲の麻沸散には、曼陀羅華、烏頭などが含まれる (p.102に成分表あり)。主な作用は曼陀羅華に含まれるスコポラミンの中枢作用である。烏頭に含まれるアコチニンの徐脈作用は、曼陀羅華による頻脈に拮抗するばかりでなく、それ自体強い鎮痛効果を持つ (p.113)。

・著者は動物実験で麻沸散の効果を確認したが期待した効果は確認できなかった。ボランティアに用いたところ、40分~1時間で効果が発現して意識を失った。ICU管理し、胃内の麻沸散を吸引して輸液するなどの処置をしたところ、約8時間で麻酔はとけた。(p.114)

・1803年、43~44歳にかけて華岡青洲は両下肢の麻痺で歩行困難になった。(p.127)

・華岡青洲は麻酔のことを「終身」と呼んでいたようだ。1810年に各務文献は「整骨新書」のなかで「麻睡散」という名称を用いた。「ますい」と発音する言葉の初見である。1813年杉田立卿の手術録には「麻睡之剤」という表現が登場する。1857年の緒方洪庵が翻訳した本の中に、「麻痺薬」「麻薬」「麻睡薬」「麻酔薬」などの語があり、「麻酔薬」は鎮痛薬の意味で用いられている。1849年、杉田立卿の子杉田成卿はエーテルによってもたらされる状態を「麻酔」と表現した。明治時代に催眠術が日本に紹介されたとき、「魔睡術」「麻睡術」と訳された。これらは麻酔と発音がややこしかったので、これらは催眠術という語に置き換わった。しかし、「魔睡をかける」「麻睡術をかける」と混同されて、「麻酔をかける」という語が広まった。本来、麻酔はかけるものでなく行うものである。(p.129~132)

・著者による調査では、華岡青洲が手術した乳癌患者 33名の平均術後生存期間は 47ヶ月であった。(p.165)

・華岡青洲の弟子たちは各地で「麻沸散」を用いた手術を行った。高名な福井藩士橋本左内は 1852年に陰茎切断術や乳癌手術を行っている。(p.194)

・杉田玄白は華岡青洲に手紙を書き、偉業を褒め称えたが、書簡の後半は技術を教えて欲しいという依頼であったようだ。華岡青洲は杉田一門であった宮川順達に秘法を伝授した。

・華岡青洲は臨機応変な医療を行っていた。男児が釣り針を喉の奥に引っ掛けた時、どの医者も釣り針についた針を引っ張るだけで抜くことはできなかった。華岡青洲は弟子にそろばんを割らせて、そろばんの玉をいくつも糸に通した。それが竿状になったところで糸の端を掴み玉を押しこむようにすると、力が針に伝わり抜くことができた。(p.226)

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アラブ飲酒詩選

By , 2014年11月5日 6:07 AM

アラブ飲酒詩選 (アブー・ヌワース著、塙治夫編訳、岩波文庫)」を読み終えました。以前、オマル・ハイヤームの詩集「ルバイヤート」のことを書きましたが、アブー・ヌワースはオマル・ハイヤームと同じく中東の詩人で、酒をテーマにした詩を多く残しました。

アブー・ヌワースは、イラク国境に近いイランに生まれ、8~9世紀頃に活躍しました。イスラム教は飲酒を禁じていましたが、それにも関わらず彼は堂々と飲酒についての詩を詠みました。そればかりでなく、同性愛を告白したり (※例えば “小屋” という詩には「私は彼の腰あたりで望みを果たした」という表現があります)、断食を揶揄したりもしています。”若さ” という詩では、「私は亭主からその妻を寝とった」という背徳的な出来事が詠まれています。彼はイスラム教的道徳から解放された詩を多く書いた一方で、晩年はアッラーに罪の許しを乞う詩を残しました。

彼の詩を一つ引用します。快楽をとことんまで追い求め、奔放であった彼の性格が良く表現されています。

秘密を注がないでくれ

私に酒を注いでくれないか、そしてそれは酒だと言ってくれ。

私に秘密を注がないでくれ、はっきり言うことができるなら。

人生は酔ってまた酔うだけのこと。

酔いが長ければ、憂き世は短くなるだろう。

私が醒めているのを見られるぐらいつらいことはなく、

私が酔いにふらついていることぐらい結構なものはない。

好きな人の名は打ち明けよ、あだ名で呼ぶのはよしてくれ。

快楽だってつまらない、それを隠してするならば。

悪事も淫楽なしではつまらなく、

淫楽も背教を伴わなければつまらない。

私の友は皆悪漢で、顔は新月のように輝き、

きらめく星のような仲間連れ。

私は寝入っている酒家の女将を起こした。

双子座は既に消え、鷲座が昇っていた。

彼女は「戸を叩くのは誰?」と尋ねた。我々は「ならず者達さ、

酒器が軽くなったので、酒が欲しい連中さ」と答えた。

「あんたとも寝なけりゃね」と続けると、「それとも身代わりに、

色白で、あだっぽい目の美少年はいかが」と応じた。

我々は言った。「是非連れてきておくれ、

俺達のような者は辛抱強くないのだから」

連れてこられたのは十五夜の満月か、

妖術を使っているように見えるが、妖術者ではない。

我々は一人、また一人と彼に近よった。

断食して食物から遠ざかっていた者のように。

我々は一夜を過ごした。アッラーから見れば、我々は極悪人。

我々がひきずっているのは堕落であって、誇りではない。

なお、本書の解説を読むと、当時のイスラムの歴史を理解するのに役立ちます。まず、661年にウマイヤ朝が創始されました。ウマイヤ朝はアラブ人優位の統治を行い、非アラブ人はイスラムに改宗してもマワーリー (被保護民) としてアラブ人よりも下位に扱われていました。ウマイヤ朝の下で発達した文化もアラブ的、部族的伝統を残したものでした。しかし、750年にウマイヤ朝が倒され、アッバース朝が創設されました。アッバース朝はイラクを中心に、西は北アフリカから東は中央アジアに至る広大な地域をモンゴル軍に滅ぼされるまでの 500年間支配しました。アッバース朝はペルシャ人の力を借りてウマイヤ朝を倒した経緯があるだけに、ペルシャ人を中心に多くの才能ある非アラブ人が国家の要職に登用され、文化に大きな影響を与えました。そして文化が爛熟し、生活が奢侈になると、道徳の退廃がみられます。飲酒の習慣のある異民族との接触が増えるにつれ、イスラムの下では飲酒が禁止されているにも関わらず酒は半ば公然と飲まれました。時にはカリフ (君主) ですら飲酒をし、イスラム教ハナフィー派では一部のアルコール飲料を合法としていました。こういう時代に活躍したのがアブー・ヌワースでした。

ちなみに、アッバース朝の後半はカリフの力が弱まり、ペルシャ系のブワイフ朝、トルコ系のセルジュク朝などが実権を握るようになります。詩集「ルバイヤード」で知られるオマル・ハイヤームは、11~12世紀にセルジュク朝の時代に活躍しました。同じく酒の詩を詠んだ李白が中国で活躍したのは 8世紀のことです。

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解剖医ジョン・ハンターの数奇な生涯

By , 2014年10月21日 5:53 AM

解剖医ジョン・ハンターの数奇な生涯 (ウェンディ・ムーア著、矢野真千子訳)」を読み終えました。

ジョン・ハンターについては、医学史関連の本に頻繁に登場する割には、「外科医の父」「無駄な手術をしたがらなかった」「死体泥棒としての影の部分」等の断片的なキーワードしか知らなかったので、一度きちんとした本を読みたいと思っていました。この本は期待に十分答えてくれるものでした。また、ヨーゼフ・ハイドン、ウィリアム・ハーヴェイ、アストリー・クーパー、デイヴィッド・ヒューム、アダム・スミス、ベンジャミン・フランクリンなど有名人がたくさん登場するのにも、読んでいてワクワクさせられました。

ハンターの住居はハンテリアン博物館となっているようなので、将来是非行きたいです。

以下、備忘録。

・ハンターの時代、膝窩動脈瘤は貸し馬車御者の職業病だった。当時の一般的な治療は下肢の切断術だった。そうしなければ、動脈瘤破裂で死ぬことになる。ハンターは動物実験を繰り返し、動脈瘤の中枢側を結紮する方法を編み出した。その患者が別の原因で亡くなった後、脚は標本になった。ハンテリアン美術館で標本 P275, P279として保存されている。

・ハンターの兄ウィリアムズは、解剖学を学び、ロンドンに講座を開こうとしていた。死体で練習をしていない外科医が初めてメスを入れるのは生きた患者となるため、ウィリアムズは解剖実習が必要だと考え、それを講座のウリにしようとした。ところが、献体という概念が生まれる前の時代であり、保存技術もなかったので、解剖用の死体が足りなかった。ウイリアムズは、死体調達をさせる目的もあり、勤務先の材木商が倒産して暇になっていた弟ジョン・ハンターを呼び寄せた。

・当時は、墓泥棒の他、死刑囚の遺体を手に入れる方法があった。その時代の絞首刑は、方法の問題で頚椎損傷ではなく、窒息が死因になることが多かった。そのため解剖台で息を吹き返すこともあった。

ウィリアム・ハーヴェイは、自身の家族が死んだ時、遺体を検死解剖した。ハーヴェイ自身は死んだ時に鉛の棺に入れて鍵をかけ、解剖学者の手に渡さないように言い遺した。

・ジョージ四世の手術を執刀し、クーパー靭帯に名を残したアストリー・クーパーは、死体泥棒に指示したことを認め、1828年の国会特別調査会で「患者の病状を知るためにはだれかがそれをしなければならない」と開き直る証言をした。

・18世紀のパリでは膀胱結石に対する石切術で 5人中 2人が死亡していた。方法は、直腸に指を入れて石を皮膚側に押し出し、会陰部を切開するものだった。経尿道アプローチする方法もあった。チェゼルデンは、フランスからの巡業医師フレール・ジャック・ド・ビューリーが会陰部から 1 cm側方を切開するのを見て、自宅での解剖実習で学んだ知識と併せて、 1725年に側方切石術を編み出した。死亡率は 10人に 1人未満になった。ハンターは兄の元で解剖学を学ぶ一方、チェゼルデンの元で外科医としての修行をした。

・ハンターは解剖学での分析によく味覚を使っていて、生徒にも使わせた。「胃液は透明に近い液体で、味はやや塩気がある。精液は匂いも味もやや吐き気をもよおす感じがするが、口の中にしばらくふくんでいると香辛料のようなあたたかみが生まれ、それがしばらくつづく」と書き残している。

・ハンターは、当時良くわかっていなかったリンパ管の役割を調べるため、生きた犬の腹を開き、腸に温めたミルクを注いだ。乳糜管は白くなったが、静脈は色が変わらなかった。そのため、リンパ管のみが脂肪と体液を吸収するという説が証明された。

・ハンターに師事したウィリアム・シッペンはハンターの手法を取り入れ、同じくハンターの教え子だったジョン・モーガンとアメリカ初の医学校を創設した。その医学校はのちにフィラデルフィア大学となった。彼らは、墓地から死体を盗んでくる手法まで取り入れ、そのせいで学校が民衆に襲撃されたこともあった。

・ハンターは軍医時代に、傷口をいじり回すより放置するほうが予後が良いことに気づいた。同じ時期に銃弾の摘出手術を受けなかった症例 5人全員が治癒したのを見たことが、その後できるだけ戦場で手術を行わないことの根拠となった。

・ハンターは色々と移植手術を試した。例えば、歯牙を移植したり、雄鶏のけづめを雌鶏のとさかに移植したり、雄鶏の睾丸を雌鶏の腹に移植した。歯牙移植は数年しか持たず、梅毒の原因にもなった。

・ハンターは淋菌と梅毒が同じ原因であるこという仮説を立て、淋病患者の膿をつけたメスで被検者のペニスを傷つけ、うつった淋病が梅毒に進行することを証明した。この時の被検者はハンターだったと言われている。しかし、用いた膿が実際には梅毒を合併した淋病患者のものだったらしく、現在では実験失敗だったことがわかっている。1838年、フィリップ・リコールは、何も知らない 2500人の患者に接種実験をして、淋病と梅毒が別の病原体であることを明らかにした。

・当時性病治療には水銀治療が行なわれていたが、淋病は自然治癒するため効果を疑問視し、ハンターはパンをプラセボとして与えた。それでも効果があったので、淋病に対して水銀は不要と証明された。

・ハンターは自著で、マスターベーションにお墨付きを与えた。また、性生活が上手くできない男性に対して、6日間何もせずに女性と並んで寝るように指示したところ、7日目には精力を取り戻し、有り余る欲望をもってベッドに飛び込んだ。

・ハンターは、カイコで人工授精の実験をした後、ヒトにも応用しようとした。尿道下裂のために不妊で悩んでいた男性の精液を注射器に集め、妻のヴァギナに注入したところ、すぐに妊娠した。この症例は史上初の人工授精とされる。

・後に種痘接種で有名になるエドワード・ジェンナーは、ハンターの家での住み込み弟子第一号となった。ハンターとジェンナーの親交は、生涯続いた。ハンターはジェンナーの最初の子供の名付け親になっている。

・ハンターの妻アンは、作詩家であり、教養人だった。作曲家のヨーゼフ・ハイドンと交流があった。

・ハンターは癌については積極的な手術を勧めた。検死解剖の経験から、癌をわずかでも残すのは全部残すのと変わらないと知っており、完全に切除できたかを慎重に調べなくてはいけないと言っていた。また、自分の手術ミスに関しては失敗をおおっぴらに認めた。「あの穿孔術で患者を殺したのは私だ」とか「あの手術で私は馬鹿なことをした」と。医療ミスは避けようがなく、失敗を隠すより失敗から学ぶべきだという持論だった。

・ハンターは、内科の三大治療「下剤・嘔吐剤・瀉血」の効果を疑っていた。瀉血は必要な場合以外避けるべきだと常々言っていた。しかし、将来自分が狭心症で倒れた時は、これらの治療法を試し、意味がないことを身を持って知った。

・ハンターが解剖した狭心症患者の検死所見は、1772年のウィリアム・ヘバーデンの論文に添付された。ヘバーデンは狭心症について世界で初めて正確な解説を書いた人物として知られる。

・哲学者デイヴィッド・ヒュームは、原因不明の腹痛に悩まされていた。ハンターの義父がヒュームのいとこだったので、ハンターはヒュームの診察をして、肝臓癌であることを診断した。

・ハンターは溺水患者の蘇生に興味があった。当時の治療は瀉血や浣腸や、タバコの煙を吹きかけることだった。ハンターは被害者の肺に空気を入れることが大事だと考えた。そして、被害者の肺をふくらませるために鼻から刺激性のガスを入れ、ベッドの中で体をゆっくりあたため、精油で体をこすることを提案した。これらをすべて試しても生き返らない場合には、電気刺激を与えることを提案した。

・ハンターは、3歳の女児が二階の窓から転落したとき、電気ショックを胸に与えた後生き返ったことを書き残した。

・当時、奇形に生まれた人々への救済処置はなく、自らを見世物として人前に晒すことが収入源だった。

・ハンターは、変異体を生物進化の証であると考えていた。「あらゆる種のあらゆる器官は、もとより奇形の特質を有する」と書き残している。

・ハンターの新居は、表通りに面した洒落た建物と、別の通りに面した地味な建物がつながったものだった。ハンターの外科医、解剖学者、教師、研究者の表の顔と、死体泥棒とつながった裏の顔が、「ジキル博士とハイド氏」が書かれるときのヒントとなった。ジキル博士の家はジョン・ハンターの家がモデルだとされている。

・ベンジャミン・フランクリンが膀胱結石で悩んでいた時に、ハンターに助言を求めた。ハンターは高齢での手術を避けることを勧めた。

・ある患者がハンターに手術を依頼したとき、ハンターは 20ギニー/件の相場と答えた。その患者家族が金を工面するために次回の来院を 2ヶ月遅らせたことを知ったハンターは 19ギニーを返し、「1ギニーだけ頂戴します。これだけなら、自分の思慮のなさに心を痛めずにすみますから」と答えた。

・ハンターの弟子には、パーキンソン病を報告したジェームス・パーキンソンがいた。パーキンソンが書き残したノートは、ハンターの講義を知る貴重な資料となっている。

・1783年に、ハンターと友人ジョージ・フォーダイスは医学外科学交流会を設立した。そして二週間毎にオールド・スローターズというコーヒーハウスに集まり、内科と外科からそれぞれ症例提示し、垣根を越えて議論を深めた。

・経済学者アダム・スミスはその技術に感銘を受け、「国富論」を一部ハンターに献呈した。スミスはハンターに痔の手術を受けた。

・ハンターは、ダーウィンが「種の起源」を出版する 70年前に、共通の祖先からの生物の進化を書き残していた。それは「種の起源」から 2年後に再発見され、「博物学、解剖学、生理学、心理学、地質学にかんする小論と観察」として出版された。

・1793年10月16日にハンターが死んだ後、「自分が死んだら検死するように」という遺言通り解剖された。診断は、彼の生前診断どおり冠動脈疾患だった。ハンターは心臓とアキレス腱 (1766年に切断し自然治癒で治した) を保存するように言い遺していたが、義弟ホームはそれを守らなかった。

・義弟ホームは、ハンターの死後ハンターの業績を横取りして発表し、ハンターの残した書類を証拠隠滅に焼却した。

・ハンターの博物館-ハンテリアン博物館-は、その後フランスのルイ・ナポレオンやチャールズ・ダーウィンなどが訪れている。

・1859年1月、ハンターの遺骨が収められた納骨堂が整理されるという記事をみつけたフランシス・バックランドは、3000以上の棺を 7日間かけて探しまわり、残された棺あと 2個というところでハンターの棺を見つけた。ハンターは 3月28日に改葬された。

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「科学者の楽園」をつくった男

By , 2014年9月7日 10:14 AM

『科学者の楽園』をつくった男 大河内正敏と理化学研究所 (宮田親平著, 河出文庫)」を読み得ました。今話題の理化学研究所の創設期の話が中心です。この研究所を「科学者の自由な楽園」と表現したのは、ノーベル賞を受賞した朝永振一郎です。

理化学研究所は、日本に基礎科学を根付かせようという目的で、大正 5年に設立されました。応用科学は基礎科学の上に成り立つもので、基礎科学が疎かであっては限界があるからです。これには、高峰譲吉や、彼を認める渋沢栄一が尽力しました。こうして設立された理化学研究所でしたが、資金難が続きました。そこで理化学研究所で開発されたものを商業化する流れが出来、ずいぶん研究費の助けとなりました。当初の主力商品はビタミンAであり、合成酒でした。やがて、商品が増えるに従い、さまざまな会社が設立され、コンツェルンとなっていきました。軍との取引も増え、太平洋戦争末期には原子力爆弾の開発研究もしていたようですが、必要な量のウランを入手できるための技術はなかったようです。戦後は新しい研究所として出直すことになりました。

本書を読んでいてとにかくワクワクするのは、有名な科学者がたくさん登場し、彼らの顔が見えるような描写がたくさんあることです。高峰譲吉、池田菊苗、長岡半太郎、寺田寅彦、鈴木梅太郎、仁科茂雄、朝永振一郎、湯川秀樹・・・。その他、田中角栄や武見太郎といった有名人もたくさん登場します。

STAP細胞の問題で揺れている理化学研究所ですが、綺羅星のごとく活躍した科学者達にとってどれほど素晴らしい研究所であったのか、是非一度読んでみて頂きたいです。

以下備忘録。

・グルタミン酸が「うまみ」の素であることを明らかにした池田菊苗は、ロンドン時代、夏目漱石の下宿先にお世話になったことがあった。

・池田菊苗は「研究の先鋒になって指導していく力がおとろえてきたと感じたら、新進気鋭の人に席をゆずって、自分のできることをするべきである」といい、定年の一年前に大学を退いた。

・明治時代、大学の予算には研究費はなく、教員たちは学生のための実験費をかすめて研究をするほかなかった。

・当時の日本では基礎科学が極めて疎かにされていた。これを改善しようと、1913年6月23日、築地精養軒に渋沢栄一らが集まった。そこで高峰譲吉が「国民科学研究所設立について」という大演説をぶち、研究所設立に向けて運動を始めた。

・高峰譲吉はアメリカでウイスキーの効率的な醸造法を開発して特許をとった。それがモルト業者に脅威を与え、彼の製法を取り入れた工場は放火され、会社は突然解散した。その頃、高峰は肝臓病で死線を彷徨っていた。妻カロラインはみずから奔走して列車を自宅前に停車させ、瀕死の夫をシカゴにともなって手術を受けさせた。

・理化学研究所は、当初「化学研究所」となる予定だったが、カテゴリーが小さすぎるため物理も加えて「理化学研究所」となった。

・理化学研究所の初代所長は菊池大麓が就任した。しかし、彼は就任後五ヶ月で急逝した。次は古市公威がその任についた。ところが物理部と化学部の対立により、物理部長の長岡半太郎と化学部長の池田菊苗が辞表を提出し、古市も健康上の問題を理由に辞任した。渋沢栄一は山川健次郎を三代目所長にしようとし、原敬首相までのりだして山川を説得したが、山川は固辞した。山川が代わりに推薦したのが、貴族院議員の大河内正敏だった。大河内正敏は寺田寅彦と親交があった。

・大河内正敏は、大正天皇の皇太子時代の御学友で、明治天皇に可愛がられ、膝の上に乗せられたことがあった。

・大河内正敏は、漱石の『坊っちゃん』の主人公が学んだことになっている東京物理学校の校長をしていた。

・大河内正敏が三代目所長に就任したとき、物理部と化学部は対立していた。そこで彼は化学部と物理部を解消し、部長という職制もとりはずし、主任研究員制度を設立した。予算は研究室ごとに割り当てられ、主任はその予算内で室員の給与と研究物件費をまかなったが、配分をどのようにするかは裁量にまかされた。初代主任研究員は、長岡半太郎、池田菊苗、鈴木梅太郎、本多光太郎、真島利幸、和田猪三郎、片山正夫、大河内正敏、田丸節郎、喜多源逸、鯨井恒太郎、高嶺俊夫、飯盛里安、西川正治であった。

・喜多源逸が京都大学に転出した後、福井謙一がその門下に加わった。

・朝永振一郎が所属していた仁科芳雄の研究室では、全員にアダ名をつけて呼び合っていた。仁科は「親方」もしくは「パイパン (顔が白いため)」、朝永は「シャコ」と呼ばれていた。

・朝永振一郎の下宿には、彼の父が親友の西田幾多郎に「古人刻苦光明必盛大」と揮毫してもらった掛け軸があったが、朝永は終始叱られている気がするとして返してしまった。

・朝永振一郎の友人小川秀樹は、湯川家に婿入りして湯川秀樹となった。妻は、夏目漱石が胃潰瘍で入院した胃腸病院長である湯川玄洋の娘スミだった。彼女は漱石の『行人』の中でモデルとして描かれている。

・田中角栄は 1934年3月27日に、新潟県柏崎駅から上京してきて、翌日に大河内正敏の家を尋ねたが、会うことができなかった。しかし、その後設計士となって仕事を続けていたある日、エレベーターの中で大河内正敏と会ったことがきっかけで、交流が生まれた。

・理研の三太郎 (3人の太郎) の一人、本多光太郎は、冶金学の権威だった。彼は昭和 6年に東北帝大総長となったが、教育勅語を読むと誤読だらけだった。誤字が多く、昭和を照和と書くこともあった。一方で理財感覚はあり、太平洋戦争で仙台が火の海になったとき、「すぐ大学周辺の土地を買い占めよ」と指示したと伝えられている。

・保険外交員であった市村清は、理研感光紙の販売代理業の契約を理研に求めたが、ケンもホロロにされた。そこで理研コンツェルンのトップである大河内正敏に直談判し、認められた。市村は大河内のもとで数社の役員を務めるとともに、カメラ会社の旭光学を合併して理研光学という会社の社長になった。理研光学が、のちのリコーである。

・後に日本医師会会長となる武見太郎は、寺田寅彦を愛読していた。慶応大学の内科では、煙たがられ干されていたが、北大や東大などで診断がつかず苦しんでいた中谷宇吉郎の病気が肝臓ジストマ (肝吸虫) だと診断をつけ、アンチモン療法で全快させた。中谷宇吉郎を武見太郎に紹介した岩波書店社長の岩波茂雄らも後に肝臓ジストマであることが判明したが、これはある料亭で寒ブナを食べたメンバーだった。この件を契機に、武見は仁科茂雄に紹介された。最終的には仁科に誘われて、慶応大学をやめて理研に就職した。

・仁科研究室では放射性物質を扱っていたため、白血球減少症を呈する研究者がおり、武見は豚の肝臓から抽出したペントースヌクレオチドを治療に用いた。後に、広島、長崎に米軍医療団が持ち込んだのも、ペントースヌクレオチドだった。

・武見太郎は、昭和 12年の支那事変のときから世界戦争を予測し、水の心配のない疎開地を求め、そこに本を送り母を住まわせていた。太平洋戦争では、それが役に立った。

・武見太郎は、高峰譲吉の弟の家に出入りをしていて、その紹介で枢密顧問官南弘を治療した。南弘の人脈から牧野伸顕の次女の娘と見合い結婚した。そこで、吉田茂と姻戚関係が生じた。

・広島に原爆が落とされた後、仁科は現場に調査に赴いた。赤十字病院にあった写真乾板が現像の結果黒くなったことから、放射線が照射されたことは間違いなく、原子爆弾と推測した。

・戦後、大河内正敏は戦犯として、科学者では最初に逮捕命令を受けたが、昭和 26年に追放指定解除を受けた。

・戦後、朝永振一郎は弾道試験用の細長いトンネル中に住んでいた。「長多時間理論」で朝日文化賞を受け、賞金のおかげで畳を敷くことが出来た。

・昭和 21年に理系コンツェルンの解体命令が出された。昭和 23年3月に、理研は株式会社科学研究所と名前を変えて発足した。資金を稼ぐ必要があり、仁科はペニシリンの生産を目指した。昭和 30年には、科研を半官半民の特殊会社にすべく、「株式会社科学研究所法」が提出された。しかし収支が悪く、「理化学研究所法」を成立させて、昭和 33年10月に特殊法人理化学研究所が誕生した。初代理事長は長岡半太郎の長男長岡治男だった。昭和 38年に理化学研究所は和光市に移転した。

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反射の検査

By , 2014年8月1日 7:58 PM

反射の検査 (ロバート・ワルテンベルグ著、佐野圭司訳、医学書院)」を読み終えました。古い症候学の本ですが、内容に圧倒されました。

腱反射の検査は、神経症候学の初学者たちにとって高いハードルとなっています。覚えなければならない反射がたくさんあり、かつ判定が難しく、さらに解釈に頭を悩ませることも少なくありません。ワルテンベルグは、(深部) 腱反射を「筋肉が急激な伸展に反応して収縮すること」という原則で捉え、様々な研究者がまちまちに名付けた膨大な数の反射を整理しました。引用文献数 465 (英語、ドイツ語、フランス語などを含む) が示す通り、内容は極めて網羅的ですが、読みやすくまとめられています。神経内科医は一度は読んでおきたい本です。

佐野圭司先生は同じ本で、さらにワルテンベルグの論文 2本を訳出しています。その一本が、”Babinski反射の 50年” で、ワルテンベルグが 1947年の JAMAに “The Babinski reflex after fifty years” というタイトルで書いた論文です。ワルテンベルグは Babinskiの弟子でした。もう一本が、”Brudzinski徴候と Kernig徴候” です。どちらも素晴らしい論文でした。

本書を読んで、ワルテンベルグの才能は、「本質を見抜くこと」にあると思いました。(深部) 腱反射は、「筋肉が急激な伸展に反応して収縮すること」という原則で全てを整理しました (腱を打腱器で叩くと筋肉は伸展する)。Babinski反射は「同側集団屈曲反射の一部で、よじ登る運動の過程の痕跡的な表れ」であり、Babinski変法も全てこれで説明できます。Brudzinski徴候や Kernig徴候は、「脊髄や神経根の伸展で生じる疼痛 (脊髄や神経根の自由な運動が炎症や疾病で妨げられると出現する) を逃れるため、伸展を最小にする姿勢をとる」ことが本質です。

神経症候学に関する本を読んだのは久しぶりでしたが、とても良い刺激を受けました。こういう本を読むと、診察が楽しくなります。

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実証分析入門

By , 2014年7月17日 7:30 AM

実証分析入門 (森田果著, 日本評論社)」を読み終えました。法律家向けに書かれた、因果推論や実証分析の本です。この本を読もうと思った理由は、下記のリンクにあるように、目次が面白そうだったからです。

【東北大学】森田果准教授が書いた本の目次がヤバいことになっていると話題にwwwwwwwwwwwww

内容はかなりに高度でしたが、目次に釣られる形で通読できました。目次だけではなく、本文や注釈もおもしろく、例えば第 9章の「きのこの山とたけのこの里と、どちらが好きですか?」というアンケートの回答を変数とした解析の脚注は、「ちなみに筆者の好みはきのこの山。たけのこの里のぼそぼそ感は許し難い」となっていて(p.95)、思わず「お前の好みはどうでも良い」とツッコミを入れてしまいました。

第12章は、「飛ばない豚はただの豚」を例に取り、「豚が飛ぶことを選ぶ (=ただの豚でなくなる) のは、どのような要因によって決まるのか」を、線形確率モデル (LPM), 非線形モデルで解析しています。そのネタだけでも十分面白いのに、さらに「なお、『飛べない豚は・・・』だと誤解している人が多いけれども、正確には『飛ばない豚は・・・』だ」と、無駄に丁寧な解説がされています (P.128)。

また第 14章、目的変数が 3択以上の解析では、Perfumeという音楽グループを例にしているのですが、「しかしたとえば、のっちは髪がショートなのに対し、あ~ちゃんとかしゆかは髪が (セミ) ロングだから、同じ票を食い合うことにより、のっちは 50%のまま、あ~ちゃんとかしゆかは 25%ずつ、という確率になることも十分現実的だ」という文章 (p.156) があり、これを見て学術書だと思う人はいないでしょう。

このように読者を引き込むために遊びの部分が多いとはいえ、学問的には極めて真面目な本です。法律家向けの本でありながら、生物統計に生きる部分もたくさんありました。例えば、統計学の基礎や、バイアス、重回帰分析、サバイバル分析、ベイジアン統計学などです。

簡単な統計学の入門書などを一冊こなしてから本書を読むと、楽しめると思います。

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