神経学の歴史
神経学の歴史を紹介したサイトを発見。
じっくり読んでみよう。
鈴木康弘の神経学関連ページ以下に、神経学の歴史が記載されています。
神経学の歴史1(19世紀前半まで)
神経学の歴史2(19世紀後半)
神経学の歴史3(20世紀前半)
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神経学の歴史3(20世紀前半)
「ジェイムズ・パーキンソンの人と業績 (豊倉康夫編著、診断と治療社)」を読み終えました。
本書では、「An Essay on shaking palsy」と題する、パーキンソンの原著が紹介されています。この論文を読んだシャルコーは、「振戦麻痺 (shaking palsy)」を「パーキンソン病」と呼ぶことを提唱しました。
その他、パーキンソンの人生などが本書で紹介されています。
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「梅毒の歴史 (C. ケテル著, 寺田光徳訳, 藤原出版)」を読み終えました。量、内容ともに重い本でした。
梅毒は、その激烈な症状と、周囲の偏見により患者を苦しめてきました。また、予防についても、貧しさから売春を生活の手段とする売春婦や無知な若者、ストレスにさらされる兵隊から性をとりあげることは、人権を含めて困難でした。そして、発見のための方法や、家庭内に入り込んで配偶者に移された梅毒の治療についてなど問題は山積みでした。
梅毒は Treponema pallidumによって起こります。Pallidumは蒼いという意味で、例えば脳の淡蒼球という部位は、ラテン語で globus pallidusと言います。トレポネーマ自体は、Treponema pertenue, Treponema carateumとして紀元前1000年代にユーラシア大陸に存在し、ゴム腫に侵された骨-骨膜障害が示されています。
コロンブスは 1493年3月31日にアメリカからスペインに帰国しました。彼は 4月20日にバルセロナに入り、6人のインディアンを披露しました。このためか、梅毒の起源について、コロンブスがアメリカから持ち帰ったとまことしやかに言われています。
ところが、彼らの誰かが梅毒に感染していたという記録はありません。そして第2回目の航海は 1496年なので、コロンブスが新大陸から梅毒を持ち帰ったとは言えないのかもしれません。むしろ、その間にアントニオ・デ・トレスが 1494年に 26人、1495年春に 300人の男女をアメリカからスペインに持ち帰っています。
梅毒の最初の記載は、フォルノヴォの戦い (1495年7月5日) の記録にあり、いずれにしても流行は 1495年以降と言えそうです。筆者の立場は、むしろアントニオ・デ・トレスらの艦隊がアメリカから持ち帰った女性が、スペイン人らに「利用」されて、梅毒が広まったというもののようです。
フランスのシャルル 8世のイタリア遠征で、大量のフランス人兵士が梅毒に感染したと言われています。フランス人は「ナポリ病」、イタリア人は「フランス病」と呼びました。
このことについての文章が面白いので引用します。
病に最近襲われたばかりの国では伝染病だとの疑いをかけた-たいていは正しい-隣国の名をそれぞれの病に付与することとなった。そのため呼称は瞠目すべき多様さを示している。モスクワの人々はポーランド病、ポーランド人はドイツ病、ドイツ人はフランス病と言う-フランス病という名はイギリス人にも、イタリア人にも (このことが問題を難しくしている) 歓迎された。フランドル人やオランダ人は「スペイン病」と言い、マグレブ人の呼び方と同じである。ポルトガル人は、「カスティリヤ病」と名付けているのに対して、日本人や東インドの住民は「ポルトガル病」と呼ぶ。スペイン人だけが黙して語らない。奇妙なことだが・・・。
梅毒は瞬く間に世界中に広まりました。1607年に死亡した戦国武将の結城秀康も梅毒 (シナ潰瘍) だったと言われています。
当時は治療法がありませんでした。水銀療法かグアイヤックによる治療が主体で、いずれにしても大量に発汗させて毒素を出すのが治療とされていました。サウナのようなところに閉じこめられて、治療のせいで死亡した人もたくさんいたそうです。最終的には、水銀治療が中心となりましたが、今日ではあまり効果がないとされています。詐欺まがいの治療が横行した時代でした (この点は、現在の日本の新聞の広告欄で宣伝される健康食品と変わりません)。
罹患予防にコンドームが開発されましたが、性行為後にかぶせるのが使用方法でした。
乞食を閉じこめるための政策として、1656年パリ総合救貧院が建設され、男性用はビセートル、女性用はサルペトリエールとして知られるようになりましたが、梅毒患者が多く収容され、人体実験のようなものも行われていました。
こうした暗黒時代は 1800年前後まで続きました。
19世紀に入ると、リコールが登場します。彼はデュピュイトランの弟子で、ナポレオン 3世付きの医者でしたが、様々な業績を残しました。例えば、囚人に淋病を移植し、梅毒が発生しなかったことから、梅毒と淋病は違う疾患であることを示しました。
19世紀後半には、リコールの弟子であるフルニエらにより、統計学的、理論的考察がされるようになります。梅毒の原因探しが始まります。
1877年にパストゥールにより伝染病の性質が明らかにされたことにより、伝染病の研究が加速します。1878年にクレープスが下疳の中に梅毒螺旋虫 (エリコモナス) を発見したと主張しました。1905年ジーゲルが梅毒患者の血液と病変部に原生動物を発見し、シトリクテズ・ルイス (梅毒封入体) と命名しました。シャウディンとホフマンが諸臓器にそれを追認しました。このスピロヘータはトレポネーマ (ねじれた) ・パリドゥム (蒼白い) と命名されました。
1906年には、ボルデが非トレポネーマ抗原反応、その後ワッセルマンやナイサー、ブルックらが溶血反応による診断を開発し、ボルデ=ワッセルマン反応と呼ばれることになります。そして、野口英世らは、つかの間の培養に成功します (長期の培養は現代でも不可能とされています)。
治療の面では、1905年にアトキシルという砒酸剤が生まれますが、毒性のため放棄されます。一方、エールリッヒは、梅毒の病原体のみを排除する「魔法の弾丸」を求め、5価の砒素を3価とし、1909年に日本人秦左八郎の協力で、606回目の化合物を作るに至り、サルヴァルサン、通称「606」が誕生しました。さらにエールリヒはネオ-サルヴァルサン、通称「914」を開発しました。梅毒に大打撃を与えることは出来ず、水銀に対してすら優位性を示せませんでしたが、明るい兆しが出始めました。
1877年にパストゥールがカビと細菌の関係から抗生剤の登場を予感し、1928年にアレクサンダー・フレミングがペニシリウム・ノタトゥムを発見しました。そして 1939年にオクスフォード大学の研究チームが精製に成功しました。1943年にマホネー、アーノルド、ハリスが梅毒治療を成功させ、「奇跡の砲弾」が見つかりました。
梅毒は一旦激減しましたが、その後それ以上減ることはありませんでした。性病の恐怖が去り、若者の間で感染者が増加し始めたからです。
ちなみに、benzathine Penicillin G 240万単位一回筋注で梅毒の治療は終わりですが、日本では手に入りません。アジスロマイシン 2g 1回内服で良いとする報告もありますが、耐性菌の問題があるようです。日本で梅毒の治療をするには、認可されている薬の問題などで、ちょっとした工夫が必要です (「抗菌薬の使い方,考え方」岩田健太郎, 宮入烈著, 中外医学社, 参照)。
1980年に天然痘撲滅宣言がされましたが、翌年、1981年にロサンジェルスでカリニ肺炎が同性愛者に多発しました。1983年にパリのパストゥール研究所で新種のレトルウイルスが検出され「LAV: Lymphadenopathy associated virus」と名付けられました。これはHTLV-Ⅲとも呼ばれますが、現在ではHIVと呼ばれています。感染症の制圧に近づきつつあった人類は、新たな敵に会いました。このウイルスに罹患すると、免疫が破綻するため、これまで制圧したはずの感染症も重篤化するのです。
人類が梅毒制圧に要したのは約 450年。本書の結びの言葉はこうです。「エイズ・ウイルスについてもこれと同様なことを言えるようになるのに五世紀の期間を必要とすることがないよう祈ろう。」
追記:本書には、多くの文学小説が登場しますが、梅毒であったシューベルトやパガニーニのことは書かれておらず、少しがっかりましした。しかし、彼らの置かれた時代のことはわかり、満足でした。
(参考)
・進行麻痺
医学書院の鼎談で、「神経学はいかにして作られたか 」が掲載されたことがあります。もう 10年以上も前の鼎談なのですが、これが凄く面白いです。
前半の神経学の歴史は、好きな人にとってはたまらない話ですが、神経内科医以外に読んで欲しいのは、最後の「デジタル化できないもの」~「『曖昧さ』をサイエンスに取り込む」の部分です。EBM全盛期の医療という環境に置かれた我々が、意識しないといけないことが書いてあります。この記事は必読です。
「近代手術の開拓者(J・トールワルド著、尾方一郎訳、深瀬泰旦解説、小学館)」を読み終えました。
以前紹介した「外科の夜明け」という本の続編です。扱う内容は、脳外科手術、甲状腺手術、胆嚢摘出、喉頭癌などです。詳細な解説があり、医学的知識が無くても読むことが出来ます。
第1話は、「脳外科の門出」。脳に局在があるという説は、ガルの骨相学より始まっていますが、今から150年くらい前は、フルーレンによる全体説が主流でした。その後、局在論を唱えたフェリアと、全体論を唱えたゴルツらが激しい論争を繰り広げました。これはその頃の話。今から120年くらい前のことです。脳の一部を除去した猿を用いた実験で、フェリアが勝利を収める様子が描かれています。失語を発症し、左前頭葉、第2・3前頭回に軟化した患部を認めたブローカの症例(局在を示唆する)を裏付けるものでした。この当時には、てんかんのジャクソン・マーチで有名なヒューリングス・ジャクソンが「運動中枢」を提唱しています。パジェット、パストゥール、ウィルヒョウ、コッヘルなどが活躍した時代のことです。
第2話は、甲状腺腫摘出の話。1880年代までは、甲状腺腫の患者の多くが、気道を圧迫した腫瘍により、呼吸困難で死亡していたそうです。エドムンド・ロゼが防腐法、鉗子などの利用によって手術を成功させ、タブーを打ち破りました。彼以前の時代の甲状腺手術は、出血の合併症での死亡例が多く、また反回神経麻痺により声を失うこともあったそうです。「ビルロートの生涯」という本の紹介でも登場した、手術器具に名前を残した外科医コッヘルは、その技術を高めました。しかし、術後、甲状腺機能低下症が多発し、可能な場合は全摘から部分切除に術式が改められました。テタニーという合併症から、上皮小体(副甲状腺)を温存することが常識になり、その役割が研究されました。副甲状腺ホルモンが同定されたのはその後です。
一つの術式の確立の裏に、多数の患者の犠牲があったことを忘れてはなりません。近年、医療は安全なもので、完全な治療をすれば命は助かり、何かトラブルがあったら医療者に過誤がある筈だという風潮があります。しかし、このように実験的な治療の積み重ねの上にデータが蓄積されてきたものの、未知の部分もまだ多いのが実情です。
第6章は、喉頭癌です。ドイツのフリードリヒ3世(当時、皇太子)は、喉頭の腫瘍を発症しました。ドイツの医師団は、白金線で焼き切ったにも係わらず再発したため、癌と診断しました。
しかし、セカンドオピニオンを求めようということで、皇太子妃はイギリスからマッケンジーという医師を呼び寄せたのです。マッケンジーは癌ではないと診断しました。患者心理としては、良い方の診断を信じたい、また皇太子妃はイギリス出身で、マッケンジーの診断が支持されました。以後、明らかに癌としての経過をとったため、ドイツ医師団は何度も癌であり、今手術(世界最初の喉頭全摘術はビルロートが成功させた)すれば助かる見込みがあると進言しましたが、いずれも退けられました。皇太子妃はドイツ医師団を遠ざけました。
マッケンジーも徐々に癌と感じるようになっていたのかもしれませんが、自分のプライド、王妃から得た信頼などのため診断を変えることはしませんでした。
結局、皇太子は癌で死亡しました。死ぬ少し前に、父のヴィルヘルム1世が死亡したため、短期間フリードリヒ3世として皇帝となりました。死後、宰相ビスマルクの許可を得て、ウィルヒョウとヴァルダイアーが解剖を行いました。診断は喉頭癌と確定しましたが、マッケンジーはあくまで非を認めず、ドイツ医師団を中傷する内容の本を出版し、英国王立医学界から追放されましたそうです。マッケンジーは、癌と確定した後も、「自分も癌だと思っていたが、喉頭手術は死の確率が高いので、皇帝を手術による死から守った」と言い訳をしていました。
甲状腺手術の話を読んだ感想です。今の医療では当たり前のこととなっていることの陰に、多くの犠牲者が過去に存在したことを忘れてはなりません。現在では当たり前の治療を見たとき、「昔の人もこの技術があれば、多くの助かった命が助かっただろう」とか、「このような治療しかない時代に、病気にかかったときの患者、家族や周りの人はどんなだっただろう」と感じるときがあります。何故その術式がいけないか、手術が失敗して死んだ人がいたから判明したことも多々あります。
未来の人から、現在の医療はどう映るでしょうか?
第6話からは、セカンドオピニオンの難しさを感じました。二つの相容れない診断があったとき、患者は良い方の結果を信じやすいが、正しいかどうかは別問題ということです。フリードリヒ3世は、どのような医師を動かせる立場であっても、マッケンジーの甘い言葉に嵌ってしまいました。今日の日本人は皆、115年前の皇帝より優れた医療を受けていますが、セカンドオピニオンの本質としては、変わらない部分があり、気を付けないといけないと思います。もちろん、セカンドオピニオンというのは、非常に有用な制度です。
「生殖内分泌学を築いた巨匠達の群像 (五十嵐正雄著、メディカルレビュー社)」を読み終えました。かなり専門的な知識を要する本で、卵巣の組織なども解説なしにいきなり英語で書かれています。PMSや hCGのなどもある程度知っていることが前提です。学生時代の婦人科分野の知識が欠落してしまった現在、内容が全て把握出来たとは言えないものがあります。
人ないし動物の組織を人に注射する方法は、1668年の羊→人の輸血の記載以前の報告を私は知りませんが、いつ頃からあったのでしょうか。その後は時々行われることがあったようで、1798年のジェンナーによる種痘は有名です。これは牛痘に罹患した女性の膿をジェンナーが息子に注射して天然痘を予防したものです。雌牛 (Vacca) を語源としてパスツールがワクチン (Vaccine) と名付けました。
神経内科を勉強したことがあれば、Brown-Sequardという名前を聞いたことのない人はいないでしょう。彼は脊髄損傷での Brown-Sequard症候群で有名ですが、動物の副腎を摘出すると生存できないことを証明しています。彼は 72歳の時、「イヌとモルモットの睾丸のエキスを自分自身に注射して若返り効果を認めた」と発表しました。このことは British Medical Journal (BMJ) で論争を呼びました。Brown-Sequard自身が Lancetに論文を載せています。
このようなエキス注射は organotherapyとして発展を遂げ、粘液水腫に対する甲状腺エキスや、糖尿病に対する膵臓エキスで効果を認め、以後の医学の発展につながったといいます。
1690年に Frederik Ruyschが甲状腺が血中に何かを注いでいるらしいと述べ、1700年代の Bordeuも体の他の部分に影響を及ぼす放散物質を想定していたそうですが、エビデンスある内分泌学を確立したのは、Bertholdと Addisonであると著者は述べています。1849年、Bertholdは雄鶏を去勢すると鶏冠が萎縮することを報告しました。
1849年にAddisonは副腎に関する貧血を発表しました。彼は 1855年に「副腎性黒皮症 melasma suprarenale」を報告しましたが、翌年 TrousseauはAddison病と名付けました。1855年には Claude Bernardにより「内分泌 secretion interne」という用語が生まれました。
これ以後の内分泌学の発展はめざましいものがあります。最もスタンダードな方法は、動物の様々な器官 (下垂体、卵巣、子宮、精巣など) を摘出したり、それらを別の場所に移植したり、エキスにして他の動物に注射したりといったものです。
こうした研究により、様々なホルモンが「ありそうだ」と仮説が立てられるようになりました。そうしたホルモンを、同定していく作業が19世紀半ばに行われるようになりましたが、著者を始め、松尾寿之博士 (LH-RFを発見) などの大活躍がありました。様々なホルモンが同定され、役割が検証され、各研究所で激しい競争が繰り広げられました。この辺りの記述は、手に汗を握るものがあります。
これまで述べてきたことからわかるように、内分泌学というのは非常に新しい学問です。女性の排卵がいつ起こるのかがわかったのですら、1920年代なのです。ちなみにそれを突き止めたのは、荻野久作という日本人です。彼は「オギノ式」という避妊法で有名です。
荻野氏は受胎期を8日間としましたが、後にKnausという学者は5日間としました。著者の記述が笑えます。「荻野学説との違いは、受胎期を荻野は8日間としているのに対し彼は5日間としている点であり、彼の方法のほうが実際には受け入れやすいが、他方禁欲期間が短いために避妊効果についての信頼性がそれだけ低下する点が荻野式よりも劣る。」
著書の中では、一つ一つのホルモンの発見の歴史、エピソード、役割などが詳細に記されています。例えばPRL(プロラクチン)というホルモンは主な作用として乳汁分泌が知られていますが、ラットの巣作りを誘起したり、サンショウウオの繁殖を始めさせたり、両生類や魚類の浸透圧を調整したり、渡り鳥の渡航の前に脂肪を蓄積させたり多岐な作用が紹介されています。PRLは非常に古いホルモンで、無脊椎動物ばかりか単細胞動物にも存在するそうです。
ホルモンというのは、相互作用があったり、フィードバックがあったり、極めて複雑な動態を示します。ホルモンを発する器官と、受容する器官両方の研究が欠かせません。それらの器官が各々 1つとも限らない訳です。近代医学としての研究が始まってから、約 50年間。極めて短期間のうちに、これだけの知見を集めた研究者達に対する尊敬の念は尽きません。こういった研究の歴史が忘却されないためにもこの本は貴重です。まだ未知の知見 (ActivinやInhibinなど) もあり研究が進められていくと思います。Activin Aは単球性白血病に働いて脱癌させることも1987年に江藤穣らにより発見されたそうです。
宣(よ)きかな
己が父祖を好みてしのぶ者は
彼らのかずかずの業績と偉大さとを、喜びもて
聞く者に語り伝え、しかして喜びの心を抱きつつ
この、うるわしき系譜の末に
わが連なるをさとる者は (ゲーテ)
このような文章から本書「田原淳の生涯(須磨幸蔵、島田宗洋、島田達生編著、ミクロスコピア出版会/考古堂書店)」は始まります。
田原博士が心臓の研究を始めた頃、心臓を伝わる刺激は神経によるものか、筋肉によるものか不明でした。また、どのような経路を伝わるかも明らかではありませんでした。心臓にあるヒス束、プルキンエ線維などの構造物も役割が不明だったのです。田原博士の業績を列挙します。
(1)房室間連結筋束の全走行と組織像を解明し、刺激興奮の伝達を司る系とみなし、刺激伝導系と命名
(2)刺激伝導系の起始部に網目状の結節(田原の結節=房室結節)を発見
(3)左右両脚の走行の正確な記載
(4)プルキンエ線維が刺激伝導系の一部であること、また仮腱索が刺激伝導系であることを発見
(5)筋原説の正当性を決定的にする
(6)線維の太さと刺激伝導速度などに関する推論
(7)リウマチ性心筋炎患者におけるアショッフ結節の発見
田原博士は東大に主席で入学し、卒業後は東大皮膚科に入局しました。実家の九州に帰る前にドイツの Ludwig Aschoff教授のもとに留学。弁膜症で肥大した心筋はなぜ麻痺を起こしやすいかをテーマに研究を始めました。しかし、病理学的に証明できず、ヒス束に目を向けました。しかし、ヒス束についてはほとんどわかっておらず、研究を続けるうちに未知であった刺激伝導路の全貌を明らかにすることができたそうです。ちなみに Ludwig Aschoffの孫は現在ウルム大学神経内科の教授であるそうです。
田原博士は、1903年に私費でドイツに留学し、1906年には帰国していますから、わずか 3-4年でこのような偉大な業績を積み上げたことになります。
本書には、田原氏が Aschoffにあてた手紙のコピーや、田原家の家系図の他、田原氏の病理標本のスケッチなど図表も満載です。驚くべきは、田原氏のスケッチと、今日の電子顕微鏡写真がほぼ一致していることです(本書では並べて比較できるようにしてあります)。
当時は日露戦争があり、日本は世界の中で微妙な立場にありました。そうでなかったとしたら、ノーベル賞は間違いなかったのではないかと著者は述べています。
心筋間をどのように興奮が伝達するかは、最近かなりわかってきました。本書でも、最新の知見が紹介されています。心筋間の伝導の中心となるのは、ギャップ構造という特殊な連絡通路です。心筋梗塞などで心筋が障害されると、この通路は閉じて障害が広がるのを食い止めるそうです。ギャップ構造を形成するのは、コネキシン (Cx) というタンパク質で、コネキシンには 20種類ほど知られています。心筋には Cx43, Cx40, Cx45が存在し、伝導度が違うのだそうです。コネキシンの分布は心臓内で違い、房室結節で伝導速度が遅れるのは、そこに多く分布する Cx45の伝導度が低いためで、通常の心筋では Cx43が主体です。プルキンエ上流は伝導度の高い Cx40が中心だそうです。心電図がまだほとんど知られておらず、ギャップ構造も知られていなかった時代に、解剖学的特徴だけで、伝導の遅い部分と早い部分があることを推察した田原博士の先見の明には恐れ入ります。ちなみに、Cx43欠損マウスは、出生後まもなく不整脈で死亡するそうです。
余談ですが、1930年頃 WPW (Wolff-Parkinson-White) 症候群が発表されていますが、1910年にWilsonが報告しているので、WWPW (Wilson-Wolff-Parkinson-White) 症候群というのが正確ではないかなどという話も載っていました。
野口英世などと並ぶほどの業績を残した日本人がいたことを風化させないためにも、本書は貴重だと思います。
医局の抄読会で、新しい抗凝固薬についての総説を読みました(J. I. Weitz, S. M. Bates. New anticoagulanjts, Journal of Thrombosis and Haemostasis, 3: 1843-1853, 2005)。
題材とした抗凝固薬ですが、ximelagatranを私の大学で治験していたとは知りませんでした。今後は、fondaparinuxとかidraparinuxといった薬剤、そしてximelagatranの代替薬となりうるdabigatranに注意を払っていかないといけません。一押しはdabigatran!教授から、私が脳梗塞になったら使ってね・・・と。
先週の症例検討会は、Mollaret髄膜炎だったのですが、教授のコメントによると、Mollaret教授は内科兼神経内科教授。そのせいで、Guillainの弟子のGarsanが神経内科教授になれなかったということで、Guillain学派にとって、Mollaretはウケが悪い様です。本からは知り得ない知識でした。
「外科の夜明け(J・トールワルド著)」という本を読み終えました。麻酔や消毒法、心臓手術をテーマにした医学史の本ですが、架空の主人公を登場させ、医学史上の人物と会話させることによって、感情移入しやすくなっています。
リスターという医師が、手術室でのスプレーによる殺菌法を始め、これが無菌手術を試みた最初とされていましたが、実際には、空気中には菌は少なく、30分に15cm四方の傷口に落下する菌は70個程度で、ほとんどが無害な菌だったため、だんだん無意味であるとされるようになりました。
無菌手術の研究が進むにつれて、器具や手の消毒に注意が払われるようになりました。リスターは手を石炭酸に浸すことを提唱しましたが、これは違った理由で効果があるのが後々わかりました。外科医が石炭酸のにおいを消すために手を石けんと水で洗ったことが奏功したというのです。
ミクリッツという外科医は、殺菌したニットの手袋を用いましたが、すぐに濡れて取り替えないといけないという難点がありました。そこにハルステッドという医師がすばらしい発明をしました。ハルステッドは、お気に入りの看護婦の手が荒れることを気にしていました。そのため手を保護するためのゴム手袋を送りました。手袋は滅菌されており、昇汞水で手を洗う必要はありませんでした。彼女は後にハルステッドの妻になりましたが、彼女が去ったあと、あとには手袋が残ったそうです。
ハルステッドは、コカイン中毒を乗り越えて教授になった人物ですが、ヘルニアの術式に名を残しています。
手術用手袋一つにこんなロマンがあったなどとは知りませんでした。
「検査を築いた人々(酒井シヅ、深瀬泰旦著)」という本を読み終えました。100人の科学者の伝記を見開き2ページずつで紹介する本です。
例えばヒポクラテス一人を取ってみても、「『ヒポクラテスの誓い』として広く知られ、医師が一人前になったときに読む誓詞は、ヒポクラテス自身の著作ではないというのが通説である」との記述があり、それは初めて知りました。
また、医師が自身を実験とした報告は多数ありますが、中でもトインビーという耳科病理学を確立した医師は、耳硬化症(ベートーヴェンが罹患していたとする説がある)を初めて記載した医師でもある一方、悲惨な死に方をしました。本から引用しますと「耳鳴りが、ヴァルサルヴァ式の通気と、クロロホルムの吸入によって治癒すると信じて、トインビーはこれを自分自身に試みたところ、1866年7月7日、診察室で死体となって発見された。」とありました。
プルキンエ細胞やプルキンエ線維で有名なプルキンエはゲーテと親交があり、ゲーテの著作のチェコ語への翻訳も行っていたそうです。
医学には人命のついた用語がたくさんありますが、由来となった人物を知ると、また新たな発見があります
それから、脳腫瘍診断のための脳動脈撮影法を発明したモーニスは、1949年に前頭葉切除によるロボトミーによってノーベル賞を受賞したそうですが、作曲家でもあり、ポルトガル外務大臣でもあり、ベルサイユ条約にはポルトガル代表として調印しました。医師のみならず、広く活躍した人で、憧れるものがあります。
この本で紹介されているのは、ヒポクラテス、ガレノス、レーウェンフック、プルキンエ、デシェンヌ、ウォラー、グレーフェ、メンデレーエフ、エルプ、クインケ、コッホ、ゴルジ、レントゲン、ウェルニッケ、ガフキー、カハール、グラム、バビンスキー、ランドシュタイナー、ベルガー、パパニコロウ、ダンディなどです。
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