Category: 医学史

麻酔の歴史

By , 2006年9月9日 6:46 PM

さて、次なる本として「麻酔の歴史(G.B.Rushman著、松木明知監訳、克誠堂)」という本を読み終えました。

当初の麻酔薬というのは、吸入麻酔であったため、酸素や二酸化炭素といった気体の研究が基礎になっています。1600年代中旬から100年間くらいは、大気中にフロジストンという可燃物があり、蓄積すると燃焼や呼吸を抑制するとされていました。そういったなか、Priestley(1733-1804)が赤色酸化水銀を熱して、酸素(彼の言う脱フロジストン空気)を初めて発見したそうです。それをLavoisierが酸素(oxy-gen, oxy=酸, gen=作るもの)と命名しました。で、Priestleyはいろいろ多くのガスを吸入して実験していたそうなのです(危険な男です!)。こうした中、Priestleyは1772年に初めて笑気を作り、「フロジストンのない窒素空気」と呼んでいたそうです。そればかりでなく、彼はアンモニア、二酸化硫黄、亜酸化窒素、二酸化窒素を分離しました。

その後、19歳で気体研究所の所長に任命されたDavyは、自分の歯肉の炎症時に、笑気を吸った後症状が軽くなることを記載しました(ちなみにナトリウム、カリウムを発見したFaradyはDavyの弟子だそうです)。Davyの記述は40年もの間注目されなかったそうですが、Coltonらの笑気吸入実験中に、笑気を吸った助手が偶然怪我をして、その際痛くなかったといった事実がありました。実験仲間の歯科医Wellsが自分の親知らずを抜くのに使うことを希望して、結果は大成功だったのです。その時のColtonの台詞が「抜歯に新時代が来る」だったそうですが、その後Wellsは公開実験に失敗し、講義室を去りました。

二酸化炭素は、Helmontが発見しましたが、彼はKhos(カオスを意味するギリシャ語)からガスという用語を作りました。笑気を始めとするガスは、吸入遊びとして流行していたそうですが、Hickmanは二酸化炭素を用いて麻酔しようと試み、やがてもっと有用な気体として笑気やエーテルが用いられるようになっていったと言います。

John Snow(1813-58年)という医師は、麻酔深度を5期に分け、Ⅳ期が外科麻酔期、Ⅴ期が呼吸が麻痺する時期としました。そして既知の濃度のエーテルを使用することとしました。彼はクロロフォルムを良く使い、4000例以上に投与し、死亡例は1例のみだったそうです。往年のSnowはコレラが水系感染した際、水道会社のポンプのハンドルを外してコレラを終焉させたこともあったそうです。

エーテルを広めたのはMorton(1819-68年)という歯科医でした。彼は前記のWellsの笑気の実験の失敗の目撃者だったそうです。彼の墓には「彼以来科学は痛みを支配した」とあります。Mortonの発見を受けて、1846年にListon教授が下肢切断術の公開手術に用いていますが、この時の見学者が防腐法で有名なLister(1827-1912年)でした。

こうした麻酔薬の進歩には、歯科がかなり関与していました。こうした麻酔の進歩とListerの開発した防腐法を始めとする消毒法が相まって、外科学が進歩していくのですが、麻酔学における大きな実験の際、防腐法の開発者Listerが居合わせたというのは、偶然とは思えません。

特筆すべきは、1800年代の麻酔薬に関する発見の多くは、20歳代の人間によってなされていることです。もう私の20歳代は帰ってきませんが・・・。

こうして読んでいると、医学の歴史が試行錯誤の繰り返しであったことがよくわかります。例えば、犬に対する輸血実験は1666年が初めてらしいのですが、人に対しては、Jean Baptiste Denis(1625-1704年)が羊の血を使用したそうです。最初の患者は輸血後経過良好でしたが、二人目と三人目は死亡したため断念されたと1668年の報告にあります。羊の血を輸血するというのは、倫理的にどうかとも思いますが、当時には当時の事情もあったのでしょう。

人から人への輸血は1818年に成功して以降たびたび行われていたそうですが、Karl LandsteinerがABO型を発見したのが1900年、DecastelloがAB型を発見したのが1902年であったそうですから、かなり危険性はあったのではないかと思います。1930年代のソ連では死体血を用いて輸血していたそうです。抗凝固薬であるヘパリンが発見されたのは1916年です。

産科麻酔では宗教との戦いがあり、キリスト教側が聖書「創世記」から「汝は苦難のうちに子供を産み・・・」と述べたことに、医学側は同じく「創世記」から「そして主なる神はアダムを深く眠らせ、眠ったときにそのあばら骨の一つを取って」
を根拠に、神も麻酔を使ったではないかと反論したそうです。

また、手動式血圧計はvon Recklinghausenが開発したものであること、フロイトはコカインがモルヒネ中毒の治療薬であると信じていたこと、多くの研究者が実験で自分にコカインを使い中毒になっていったことなど、あまり知られていない出来事も書いてあって勉強になりました。

などなど、専門的で読みにくいかもしれませが、お薦めの本として挙げておきます。こうした紹介だけでなく、いつか自分も内容のある本が書けるようになりたいと思いますし、そのためにはもっと知性を高めないといけないと考えています。

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精神医学の歴史(2)

By , 2006年9月7日 8:48 PM

前回紹介した「精神医学の歴史」という本を読み終えました。

ドイツの優性思想だとか、その時代背景だとか、それが過去や現在の医学の考え方とどのように結びついたかにも触れていて面白かったです。

紀元前18世紀から既にハシュシュが存在し、BC1550年頃にはエジプトでケシopiumが鎮痛剤として用いられていたことから、かなり昔から精神に作用を及ぼす薬を使っていたことがわかります。ちなみに最古の意識変容薬は、アルコールか、もしくはシャーマンが用いた毒キノコと言われています。

また、アラブ世界からコーヒーをヨーロッパに持ち帰ったラウヴォルフが、インド蛇木から採った薬をヨーロッパに紹介しましたが、その主成分が降圧剤として使用されたレセルピンで、副作用である抑うつ状態の研究の過程で脳内アミン類の減少が報告され、現在の鬱病の原因としてのモノアミン仮説が唱えられるようになったそうです。他に、製薬会社社長が覚醒剤中毒になった友人を治療するために開発したのが統合失調症治療薬のハロペリドールだったとか、躁病治療薬のリチウムが19世紀にはリウマチの治療薬であったとか、嫌酒薬ジスルフィラムがもともと回虫駆除薬であったとか、話題に事欠きません。

梅毒患者の慢性脳髄膜炎による精神症状について、脳から初めてスピロヘータ・パリーダを分離したのが野口英世ですが、当時治療としては患者の血液中にマラリア患者の血液を注入し、高熱を出させて治療することが行われていたことを知って、ぞっとしました。

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精神医学の歴史(1)

By , 2006年9月4日 11:17 PM

今、読んでいる本が「精神医学の歴史(小俣和一郎著、レグルス文庫)」です。まだ四分の一くらいしか読んでいないので、全てを把握した訳ではありませんが、これが実に面白い本です。

出だしは、人類の歴史から始まります。それから言語の起源に触れます。なぜかというと、言語なくして精神病を診断することは非常に困難であるし、言語の中に昔の精神病に関する表現が残っているからです。一方で、文字のない言葉も存在し、インディオ文化、アイヌ語、ポリネシア語などが該当することを初めて知りました。神経内科では痴呆(dementia)を扱いますが、「dementia」はラテン語の「de=逸脱」「mens=心」から派生しており、他に「amentia」という単語があるそうです。

次に、宗教との関わりに進みます。ここでヒポクラテスの誓いに関する面白い記述があります。当時はヒポクラテスらの自然療法主義よりも、宗教的な治療であるアスクレピオス信仰の方が人気が圧倒的に高く、両者は対立していた可能性があります。攻撃を避けるため、ヒポクラテスがアスクレピオス信仰に対して帰順の意を示したのが、「誓い」であると考えられるのです。従って、「誓い」は「医神アポロン、(中略)その他すべての神々の前で、私は誓います。」と始まります。その事実を示されると、文章の受け止め方が少し変わってきます。

また古代ギリシャには、精神の在処を横隔膜(Phrenos)に求める考え方があり、これが転じて「統合失調症(schizo-phrenia)」という語が出来たそうです。

これからも通勤時間に読み進めていくつもりですが、筆者はとても論理的で説得力があります。言語を中心とした文化論や芸術にも造詣が深く、本書は名著と思います。

医学史についても触れながら話が展開していきますが、昔読んだ「医学の歴史(梶田昭著、講談社学術文庫)」の復習にもなり、楽しめました。

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偉人たちの死亡診断書

By , 2006年9月3日 2:05 PM

「偉人たちの死亡診断書(中原英臣、佐川峻著)」を読みましたが、内容に乏しい本です。診断の根拠に乏しく、医師が読むととうてい納得できません。根拠となる部分の引用もありません。

例えば、「信玄の病気については、当時、労咳と呼ばれていた肺結核といわれたり、あるいは隔病と呼ばれていた胃ガンともいわれている。『甲陽軍艦』の記述からみると、信玄の死因は胃ガンであったと思われる。」において、「甲陽軍艦」のどの部分の記述かは不明です。

他にも「その死因については、いろいろな説があるが、砒素による毒殺という説が有力のようだから、ナポレオンは砒素中毒で死んだということになる。」「もし、ナポレオンが本当に砒素で殺害されたとするなら、急性中毒ではなく慢性中毒だったはずだから」など、首をかしげるような論理の飛躍があります。

病気についてのあたりさわりのない解説が大部分を占めていますが、一般人向けだからでしょうか。でも、「○○だったとすれば○○だったことは確実だ」という部分においても、必ずしもそうではなかったり、抗生剤があれば肺炎で死ななくてすむとか、高血圧が容易に降圧剤でコントロール出来るとか、高血圧がコントロールされれば脳出血で死ぬことはなかったはずだとか、臨床医なら可能性としてしか示せないことも、かなり断定的に書いていて、嫌になります。

更に致命的な間違いを発見しました。「今では、脚気の原因がビタミンB2の欠乏であることくらい、小学生でも知っている。そのため、脚気は医学的には『ビタミンB2欠乏症』と呼ばれている。」という記述ですが、脚気はビタミンB1の欠乏で起こります。

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人の魂は皮膚にあるのか

By , 2006年8月13日 10:52 PM

「人の魂は皮膚にあるのか(小野友道著,主婦の友社)」という本を読み終えました。著者は熊本大学医学部皮膚科教授です。とても文学に造詣が深く、様々な小説に出てくる表現を題材に、皮膚疾患を解説していきます。医師向けに書かれた本ではないので、一般人でも読みやすいと思います。外傷や皮膚疾患などで、外見を苦に自殺したり、思い悩む人が多いのをみて、著者はこのタイトルを付けたようです。我々が普段意識することの少ない皮膚も、何か起こると気になってしかたないものとなります。一度このような本を読んでおくのも良いかなと思います。それにしても著者は博学です。

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ビルロート

By , 2006年7月24日 10:31 PM

近代外科学の父と言われるビルロート(1829-1894)の伝記「ビルロートの生涯 (武智秀夫著、考古堂)」を読み終えました。医学生にとってはなじみ深い名前ですが、その人生については知らないことだらけ。本の中では当時の有名な医学者が多数登場しました。

ビルロートの親友にはゲオルク・マイスナーがいます。マイスナー神経叢で有名です。また、グレーフェ徴候で有名な眼科医グレーフェのもとも一時期熱心に訪れました。病理学者メッケルや生理学者ミュラーとも仕事をしていました。

ウィルヒョウとはベルリン大学病理解剖学教授選挙を戦い敗れています。その後、眼科兼外科でチューリッヒ大学教授になりました。数年後、眼科はホルネル(ホルネル徴候で有名)に譲って外科に専念することになったようです。医学教育にも力を注ぎ、「学生は放っておくと講義に出ない」などと、思わず苦笑いするようなことも言っています。

ビルロートはランゲンベックのもとで外科を勉強しましたが、ランゲンベックは森鴎外の「隊務日記」でも「爛剣魄骨」として登場します。

ビルロートの学士論文は「両側の迷走神経を頸部で切断した後の肺の変化の性質と原因」というものです。「血管の発生について」という論文で教授資格を得ています。

彼の先駆的な仕事として、「手術結果を追跡調査し統計をとること」をはじめ、患者の体温を記録すること(温度板)などがあります。何より、一番の仕事は、初めて胃ガン患者の胃切除手術を成功させたことです。その胃切除の方法をビルロートⅠ法と名付けたのは、コッヘルという甲状腺外科医で、彼の名前を冠したコッヘルという有名な手術器具があります。ビルロートはその後ビルロートⅡ法という術式を編み出しました。ビルロートⅠ法、Ⅱ法とも今日でも日常的に行われていますが、日進月歩の医学の中で、100年以上術式が残っているのは、きわめて異例といえます。ビルロートは他にも喉頭癌の手術を成功させ、人工喉頭の元となるアイデアで声を復元しようとしています。

歴史的には、胃ガン患者に最初に胃切除を行ったのは、ジュール・ペアンだそうです。手術器具でペアンというものがありますが、最も良く使われる器具の一つです。

ブラームスが弦楽四重奏曲第1,2番をビルロートに捧げ、さらにはビルロートと部下のミクリッツがピアノ連弾で弾けるように、交響曲の第1,2番をピアノ連弾様に編曲したという逸話も紹介されていました。ビルロートはピアノ、ヴァイオリン、ビオラを演奏し、ピアノの一オクターブより二つ指が届いたそうです。

ビルロートはウィーンで旧フランク邸に住んでいたことがありますが、フランクは音楽愛好家の医師で、ベートーヴェンの難聴を診察しています。ビルロートがブラームスに宛てた手紙の中で、「いつも興味あることだと思うんだが、フランクとベートーヴェンはこの家で交際していた。そして100年後の今日、同じ屋根の下で君と僕が交わっている。ベートーヴェンはこの庭の小道を散歩したことだろう。」と記されています。ビルロートの家では、ハンスリックやヨアヒムなどが呼ばれ、ブラームスの新作の演奏が行われていたとのことでした。

音楽と医学が交わるところに存在した医師で、医学史の上でも重要な人物。興味がある方は読んでみてください。「ビルロートの生涯(武智秀夫著、考古堂刊)(ISBN 4-87499-998-0)」で、アマゾンなどで買えます。

本の中で、ビルロートが好んだ言葉は「Nonquam re-tororsum(決して振り返るな、いつも前へ)」だったと紹介されていました。先駆的な業績を挙げた人に相応しい言葉です。

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