神経症候学の夢を追いつづけて

By , 2010年9月12日 6:37 PM

「神経症候学の夢を追いつづけて (田代邦雄著、悠飛社)」を読み終えました。田代先生と直接会った事はないですが、元北海道大学神経内科教授で、症候学を専門にしておられたようです。

「神経学とは?」とは「神経症候学とは?」といった内容で簡単な説明があった後、著者が興味を持って追いつづけた来たテーマがいくつか紹介されます。

最初のテーマは「鏡像文字」について。脳のある部分が傷害されたり、正常でも子供の一時期には、鏡に映したような左右反対の文字を書いてしまうことがあります。田代先生が医者になって初めて書いた論文がこの「鏡像書字の一例」であり、以来ライフワークにしてきました。医者にとって研究テーマは、多くの場合患者さんから貰うものなのですね。

Critchleyという古い医学者がおり、脳血管性 Parkinsonismなんて概念を広めた有名な方です。その Critchleyが、1926年に鏡像書字の原因を纏めた表がありますので、本書から引用します。

鏡像書字の原因

I) 自然的
a) 右片麻痺の症例 (左手)
b) 書字を習い始めの正常な子供 (左手、右手)
1. 完全な鏡像書字
2. 部分的な逆転
c) 知恵遅れの子供、精神薄弱の成人で特に左利き (通常は左手)
d) 先天性語盲 (左右手) (逆転は通常部分的のみ)
e) 本来の左利きで右手書きに矯正されたものが左手書きをする場合
(特殊な状況下において)
f) Little病の症例 (左手)

II)実験的
a) 両手書き書字:正常者
b) 全学部書字 (左手・右手):正常者
c) 書字版の裏面に各場合 (左手・右手):正常者
d) 集中力欠如あるいは部分的意識混濁 (左手)
1. 頭部打撲後
2. 睡眠状態あるいはヒステリー性失神状態
3. アルコールあるいは大麻中毒
4. 放心状態

田代先生は、Parkinson病の患者さんの書字検査中に、この症候を見いだしました。そしてパーキンソン病患者の 13.6%、本態性振戦の 18.5%、脊髄小脳変性症の 8.6%に鏡像書字が見られることを発見し、Journal Neurology Neurosurgery & Psychiatry (JNNP) 誌に報告しました。更に、鏡像文字に視床が関与しているのではないかと仮説を立てています。

もう一つのテーマは Babinski徴候です。Babinski徴候同様に錐体路障害を示唆する症候が多く報告され、下記の15の方法が市民権を得ました。

 病的反射の種類 (Takahashi et al. Clin Neurosci 5: 1201, 1987)

1. 1896年 Babinski
2. 1899年 Schaeter
3. 1902年 Oppenheim
4. 1904年 Gordon
5. 1906年 Bechterew
6. 1911年 Tromner
7. 1911年 Chaddock
8. 1912年 Austregesio, Esposel
9. 1919年 Crafts
10. 1928年 Roch, Crouzon
11. 1931年 Grunfelder
12. 1933年 Stransky
13. 1940年 Grigorescu (=1942年 Gonda)
14. 1945年 Lenggenhager
15. 1986年 田代

※Chaddock反射については、1906年に広島関西病院の吉村喜作博士が報告されており、物理的刺激のみならず電気刺激でも誘発できることを報告していました。しかし、日本語で報告されたため、残念では欧米ではあまり知られていません。余談ですが、吉村先生の次男は浜松医大の吉村敬三教授であるそうです。

田代先生の方法は、reversed Chaddock methodとも呼ばれ、足背を擦ります (S1領域に刺激が入ると母趾が背屈する)。Chaddockは Babinskiの助手を務めたこともありますが、セントルイス大学の神経学教授でした。田代先生もセントルイス大学で神経病理学の研究をされていたことがあり、御縁を感じること一塩ではないようです。Chaddockと名前が並列で示されることの悦びが本書から伝わってきます。

田代先生は芸術に造形が深く、絵画に見られる Babinski徴候についても纏めています。聖母子像では子供の母趾が背屈している様子が良く描かれています。Babinski徴候は 1歳まで陽性になりますので、画家達の観察眼の鋭さの現れと考えることができます。また、田代先生は能に Parkinson病を見いだしています。能では仮面をかぶり (仮面様顔貌)、前傾で手背を屈曲させ、すり足で歩きます。非常に面白い考えだと思いました。芸術も、学問のフィルターを通して見ると、また新しい発見がありますね。

最後に、田代先生が本書で大きく扱っているのがレオナルド・ダ・ヴィンチです。彼は書字が全て鏡像文字であったことが知られています。田代先生はダ・ヴィンチに右片麻痺があり、左手で書字したためではないかと推測しています。ダ・ヴィンチがモデルになっているとされるウイトルウイウス的人体図は一見右痙性麻痺での肢位のように見えます。更に、モナ・リザとダ・ヴィンチの自画像には同じ位置にシミ様の構造物があります。モナ・リザはダ・ヴィンチ自身であったとする説があるのです。モナ・リザには右顔面麻痺があるとも云われ、先ほどのダ・ヴィンチ右片麻痺説とも合致します。証拠はそれほど多くないですが、こう考えてダ・ヴィンチの芸術作品を眺めるのも、素敵な鑑賞法ですね。

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