科学と人間を語る
「科学と人間を語る (福井謙一、江崎玲於奈、共同通信社)」を読み終えました。
江崎玲於奈氏は 1948年ノーベル物理学賞、福井謙一氏は 1956年にノーベル化学賞を受賞しておられます。
「科学と人間を語る (福井謙一、江崎玲於奈、共同通信社)」を読み終えました。
江崎玲於奈氏は 1948年ノーベル物理学賞、福井謙一氏は 1956年にノーベル化学賞を受賞しておられます。
神経内科では、眼瞼痙攣、顔面痙攣、痙性斜頸において、薬物内服療法のみの治療が困難な場合、ボツリヌス治療を良く行います。1バイアル当たり 93388円する薬剤ですので、非常に高価です。1バイアル中に 100単位入っており、1単位がネズミ 1匹の致死量で、ヒトの致死量はおそらく数千単位と考えられています。我々が一回の治療で用いるのが、上限 240単位くらいまでであることを考えると、ほとんど安全性といって良いでしょう。副作用は数%に見られますが、重篤なものはまれです。重症筋無力症、Lambert-Eatnon myasthenia、筋萎縮性側索硬化症などの患者には禁忌です。講習を受けた医師が使用しており、私も講習を受けています。そんな中、下記のようなニュースを見つけました。
注射薬「ボトックス」で死亡例、米FDAが調査へ
2008年02月12日筋肉のけいれんや緊張を和らげる注射薬「ボトックス」などを使った患者が死亡したり、呼吸不全になったりするケースがあったとして、米食品医薬品局(FDA)は12日までに、副作用と薬との因果関係について調査することを決めた。この薬は、日本国内で「しわを取る」などの適応外の美容整形の分野でも広く使われている。
FDAが調査するのは「ボトックス」と「マイオブロック」で、ボツリヌス菌がつくる毒素を利用する。日本ではボトックスが眼瞼(がんけん)けいれんや片側顔面けいれんなど三つの病気の治療で承認を得て、グラクソ・スミスクライン(本社・東京都)が販売している。
一方、適応ではないものの、「筋肉の働きを弱めることで眉間(みけん)や額、目尻のしわを取るのに効果がある」として美容外科などで利用されることも多い。
FDAによると、死亡や重い障害が出ている大部分は小児で、脳性まひに伴う足のけいれんを治療する目的で使われた。この治療は米国でも適応外だという。また、今回の問題をFDAに訴えた消費者団体は「薬の使用に伴って成人を含む87人が入院し、16人が死亡した」としている。
グラクソ社によると、日本で適応を受けた病気への使用は講習を受けた医師に限られ、症例はすべて登録している。ただ、美容目的では医師が個人輸入で使用しており、「実態はよくわからない」という。(http://www.asahi.com/health/news/TKY200802120264.html)
一応、FDAのサイトにもアクセスしてみました。
Botox, Botox Cosmetic (Botulinum toxin Type A), Myobloc (Botulinum toxin Type B)
Audience: Cosmetic Surgeons, neurologists, other healthcare professionals, consumers
[Posted 02/07/2008] FDA issued an early communication about an ongoing safety review regarding Botox and Botox Cosmetic. FDA has received reports of systemic adverse reactions including respiratory compromise and death following the use of botulinum toxins types A and B for both FDA-approved and unapproved uses. The reactions reported are suggestive of botulism, which occurs when botulinum toxin spreads in the body beyond the site where it was injected. The most serious cases had outcomes that included hospitalization and death, and occurred mostly in children treated for cerebral palsy-associated limb spasticity. Use of botulinum toxins for treatment of limb spasticity (severe arm and leg muscle spasms) in children or adults is not an approved use in the U.S. See the FDA’s “Early Communication about an Ongoing Safety Review” for Agency recommendations and additional information for healthcare professionals.[February 08, 2008 – Early Communication about an Ongoing Safety Review – FDA]
朝日新聞の記事の「FDAによると、死亡や重い障害が出ている大部分は小児で、脳性まひに伴う足のけいれんを治療する目的で使われた。」は、ここから引用されたものでしょう。
一般的な話ですが、アメリカの医学論文を読むと、疾患に対して、本来の適応を超えて薬剤を使用している報告が多々あります。一つには、医療制度が国民皆保険ではありませんので、保険適応を考えずに治療することが出来ることが挙げられます。また、もし効果があれば、その分医学が進歩する可能性があるし、患者もリスクよりベネフィットに重きを置いている背景があるのでしょう。しかし、その分のリスクは背負うことになります。この辺りは、日本と価値観が少し違うのかもしれませんね。
今回のボトックスの件については、主として小児での使用だとわかり、日本では起こりにくい事例でしょうから、少しほっとしています。今後、死亡例ではどのような部位に、何単位くらい注射し、何が原因で死亡したかの情報が得たいところです。ボツリヌスは有用な薬剤だと思いますし、リスクを把握した上で、安全に使用したいですからね。
「脳トレ」を監修した川島教授は、自身が受け取る権利がある12億円を辞退したそうです。教授の奥さんは怒っているそうですけれども。
私は「脳トレ」をやったことも見たこともないのですが、高次機能専門の先生に聞くと、前頭葉 (一部頭頂葉) に単純化したタスクを反復して課することを主眼としたゲームなのだそうです。
ただ、こうしたゲームの効果は賛否両論あるものです。ゲームをやったから、頭が良くなったとは思わない方が良くて、局所的な能力をトレーニングしただけと思っておいた方が良い気がします。知的な刺激を得たり、他人と意見を交換したり、総合的に脳を使う方が、大事だと思います。やらないよりは、良いのかもしれませんけどね。
それにしても、12億円も貰う機会があったら、普通喜んで貰ってしまいますね。「12億円あったらどうしようか」などと、俗人の私は他人事なのに下世話な夢想をしてしまいます。
12億円を辞退、ゲームもしない:『脳トレ』の川島教授
2月6日13時0分配信 WIRED VISION世界中で売れている『脳を鍛える大人のDSトレーニング』ゲーム。その中で微笑んでいる顔が印象的な川島隆太教授(48歳)は、このシリーズで生じた監修料約1100万ドルの受け取りを辞退した人物でもある。
AFPが最近行なったインタビューをまとめた記事 (英文記事) によると、川島教授が勤める東北大学の規定で、教授はこれらのゲームで発生した監修料の半分を受け取る権利があるが、同教授はこの全額を研究室建設に回したのだ [監修料は Nintendo DSのみでも累積 24億円にのぼり、教授はこのうち 12億円を受け取る権利があるという]。
川島教授は約 1100万円の給料だけで満足だと述べ、「家族はみな怒ってますが、私は、金が欲しいなら働いて稼げと言っているんです」と語っている。
川島教授は辞退した監修料を研究資金として使用し、東北大学加齢医学研究所に 3億円をかけた研究室 [ブレイン・ダイナミクス研究棟。最新のレーザー顕微鏡が約 2億円] を建設した。4億円をかけた別の研究室 [超高磁場の磁気共鳴画像装置を備えている] も、3月に完成する予定だ。
世界で最も成功したゲームの 1つに顔を出しているにもかかわらず、川島教授自身はゲームをせず、仕事をして時間を過ごす方が好きだという。教授の子供たちも、平日のビデオゲームは禁止され、遊んでいいのは休日の 1時間のみだった [前述記事によると、教授には、14歳から 22歳まで、4人のお子さんがいる。規則を破った罰にディスクを壊したこともあるという]。
「ゲームの恐ろしいところは、いくらでも多くの時間を注ぎ込めることだ。ゲームをすること自体が悪いとは思わない。問題なのは、ゲームをすることで子供たちが、勉強や家族との会話といった大切なことをできなくなってしまうことだ」と、川島教授は言う。
だからこそ、川島教授のゲームは 1日数分で脳を鍛えられるようになっているのだろう。
川島教授は本当にひたむきな人のようだ。少々変わり者でもあるが、悪い意味でというわけではない。
[科学技術振興機構のサイト 『Science Portal』 には、川島家の子育ても含むさまざまな話題に関する、教授へのインタビュー記事がある]
APAというアンサンブル団体から、「2月 17日の総会に、Vn東響コンマス大谷康子さん、N響フォアシュピーラー齋藤真知亜さんを招いて弦楽合奏をするのですが、ヴァイオリンが 2プルート (4人) しかいません」というメールが届いたので、合奏に出演することになりました。「A. ARENSKY」作曲の「チャイコフスキーの主題による変奏曲Op.35a」という曲です。音源を聴いて、余りにも綺麗で感動しました。主題は、ショスタコーヴィチの「2つのヴァイオリンと通奏低音のためのソナタ ヘ長調」に似ています。曲自体は技術的に、それほど難しくないのですが、合わせるのにテクニックが必要でしょうね。
そんな中、Webで大谷康子氏のことを調べておりましたら、旦那様が医師なのだとか。サイトも運営しておられるようで、早速覗いてきました。
コラムが非常に面白いです。是非御覧下さい。
筋萎縮性側索硬化症 (ALS) は、なかなか治療が難しい病気です。診断が困難なこともしばしばで、患者はいくつかの病院を経て、神経内科を受診することが珍しくありません。原因もまだわかっていません。
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「新訳・医学を変えた発見の物語 (Julius H Comroe Jr, MD著、諏訪邦夫訳、中外医学社)」を読み終えました。原著のタイトルは「Retrospectroscope -insights into medical discovery-」といいます。
本書は医学史について深く触れた本ですが、貫かれるテーマは、意図されていたもの以外から、優れた研究が生まれることについてです。つまり、当初意味がないと思われた研究が、別の分野で多大な貢献をすることがあるのです。従って、意味のある研究ばかり追究すると、そういった部分がおろそかになると考えられます。ノーベル賞を受賞した小柴さんが、「われわれが研究していることは、意味のあることかどうか、後世にならないとわからない」と言っていたのを思い出します。
第 1章は、「空はなぜ青いのか」と題されています。「空はなぜ青いのか」という疑問にレオナルド・ダ・ヴィンチ、ニュートン、ゲーテが挑み、ティンダルが部屋を暗くして水蒸気に太陽光線を当てて、青い空をガラス管内に作ることに成功しました。この技術は細菌学に応用され、バクテリアを含んでいない空気からバクテリアが生じないというパスツールの考えが証明されました。
ティンダルの凄いのは、フレミングが1929年にみつけた現象を1877年に発見していることです。その記録を引用します。
ペニシリンカビはとても美しい。カビが厚く集まっているところでは、細菌は死んでいるか死にかかって培地の底に沈殿している。カビは生育も細菌に与える影響も気まぐれである・・・隣り合った2本の試験管で、一本はバクテリアが繁殖してカビをやっつけて、すぐ隣の一本は逆にカビが細菌をやっつけている。
我々は、中学生か高校生の頃に、チンダル現象を学校で習いますが、実はチンダルは他にもこんな業績があったのですね。
第2章の「『空気』という海」では、トリチェリの4つの業績が紹介されています。
1)「われわれは空気という海の底に住んでいる。その空気は重さをもつ」という新しい認識
2)空気の重さを測る道具すなわち気圧計の発明
3)水銀柱より上の部分のいわゆる「トリチェリの真空」の発見
4)空気の研究における定量測定の開始
これだけ見ても、従来の常識を覆す発見であることがわかります。ちなみに、工学者たちは、mmHgという長い音節の単語に変えて、トリチェリの名前から「torr」という単位を作ったそうです。地球上では数値は一致するが、mmHgは重力の影響を受けるのに対し、torrは「地球上の大気圧の平均値を 760 torrとする」と定義しています。この mmHgと torrの違いは、昔麻酔科の授業で習った記憶がありますが、すっかり忘れていて、久しぶりにみて懐かしく思いました。電気の周波数に名前を残したヘルツも、トリチェリの本を読んでいた記録が残っています。
第3章は「物の内部をのぞく話」です。レントゲンについて扱われています。本書の記述を、少し年表のようにしてみましょう。
1895年11月8日レントゲンがX線を発見。2~3週間研究を進める。最初の被写体は妻の手
1895年12月28日ビュルツブルグ医学協会機関誌に論文掲載
1896年1月5日ウィーン新新聞にレントゲンの発明の記事あり
1896年1月23日口頭発表、同日、ビュルツブルグ医学協会機関誌発表の論文がNatureに英訳される
1896年2月14日ビュルツブルグ医学協会機関誌発表の論文がScienceに転載される
1896年4月血管撮影が行われる
1897年6月レントゲン協会結成
ものすごい勢いで広まっているのがわかります。すぐに様々な生物分野にも応用されました。特記すべきは、1897年に「荷物に爆発物や密輸品がないかの確認、お酒の熟成を進めること」などを適用が考えられる用途として挙げている人物がいることです。テロ対策の草分けですね。お酒の話も興味が持てます。
で、X線の副作用についてはほとんど知られていなくて、自分の手で実験した人が居たみたいです。トンプソンと言います。トンプソン効果を見つけた人物と同一人物かはわかりませんでした。ただ、現代の知識を持った我々からは、びっくりするような実験なので紹介します。
X線の組織障害作用には前から興味をもっていた。X線でやけどしたという話を何回か聞いたが、私にはとても信じられなかった。そこで実験した。X線の出てくる透明ガラスの所に指を一本置き、ほかの指は青ガラスでしっかり防御した。ホルツ型の機械でちょうど30分間当てた。管球に充分くっつけて30分後、多分まだ時間が足りないとは考えたが、くたびれたのでそこで止めた。遠くから何時間も当てるのと同じくらいの量が当たったと考えてやめにした。5日、7日、8日と待って何事も起こらず、放射線の作用など何もない、障害の話は嘘だと考え始めたところであった。ところが9日目になって、指先に発赤が始った。12日目には水疱もできて、とても痛くなった。13日目、14日目には水疱が皮膚全体に拡がりX線を当てなかったところまで水疱になり、全周にわたった。表皮は縁の所にほんのちょっと残っただけで全部はげ落ちて大きな潰瘍となり、治癒のきざしはみえなかった。やがて、周囲から表皮が生えて次第にとじたが、完成はほんの3日前で、皮膚はさわると痛く、指を覆うしっかりとした皮膚はできそうにない。皮膚はさわるとまだ痛く、指を覆うしっかりとした皮膚はできそうにない。皮膚と皮下組織との接着が弱く、ブヨブヨしてさわると痛くさわらなくても燃えるようなピリピリ痛む感じである。とにかく治ったからいいようなものの、実に6週間半もかかっている。
想像するだにおぞましい実験です。
第4章は「大発見の人と背景 第1部」、第5章は同第2部となっています。発明のきっかけと、その後発展したものが全然別だというものが、これでもかと紹介されています。その最たる例が第6章「足は地面を離れるのか」に載っています。
みなさんは、映画のルーツは何だと思いますか?実は、「馬が走る時に、足が全部離れるか?」の調査から発展したものなのです。本書から、当該の部分を引用します。ちなみに、本書にはその連続写真も掲載しています。
1872年の春に・・・サンフランシスコで、動物の運動に関する議論が再燃した。・・・テーマは、馬が歩いたり走ったりするときに、四つ足がすべて同時に地面を離れることがあるかである。
マイブリッジは、この論争に決着をつけようと決断した。短い間隔で何枚もの写真を撮れば解決できると考えた。1872年当時、映画はもちろん存在しない。写真もフィルムではなくて、ガラス乾板に撮影していた。マイブリッジは、12台から 24台のステレオカメラを競馬場のトラックに平行に並べ、馬が第1の位置にきたときにボタンを押して、以後のカメラが電気モーターで次々とシャッターが落ちていく仕掛けを作った。結果の一部は、6枚の連続写真として図1にあげてある。
次にこのガラス乾板を円板にはめ込んで回転し、馬の走る様子を再生することに成功した。カメラはステレオであったから、乾板を2枚の円板に対応してはめ込み、それを回転することで立体像も撮った。これこそ世界最初の映画、それも立体映画である。ハリウッドの映画が現代文明の進歩に有用かどうかの議論はさておき、映画が医学や医療の役に立っていることは間違いない。
1872年に、マイブリッジがNSFに研究費を申請したら、「下らない研究」として、国会議員は否認しただろう。ところがマイブリッジは幸運だった。スタンフォード大学の創始者スタンフォードが、その屋外研究所をマイブリッジに提供した。人・動物・鳥で研究を続けて成果を発表できるよう、ペンシルバニア大学の副学長ペッパーが大学の委員会や友人と協力して、マイブリッジに研究費を与えた。1882年になると、フランスの生理学者マーレイが、マイブリッジのようにカメラを何台も用いるのではなく、1台のカメラで帯状フィルムを用いて、現在の映画撮影に成功した。1893年になると、エジソンがこんどは映写機を発明して特許をとり、映画の発明者になった。
何と、馬の話が映画の話になってしまいました。同様の話が本書ではいくらでも紹介されていて、「マダガスカル産のハリネズミが、何故じっと動かなくなるか」の疑問の研究から、「熱帯の動物も体温が少し下がると冬眠状態になるとわかり、心臓手術中の低体温麻酔法の開発につながった」などという話もあります。
第9章は「赤ちゃんの泣き声が歌になる」と題されていて、学生による大いなる発見に焦点を当てています。著者は研究の必要性を説いています。現在の日本では、研究は評価されているとは言い難いのが現状でしょう。
学生が臨床面に優れるか教育面に優れるか研究面に優れるかをみつけ、優れた方向へ進むよう指導するのは、教官の重要な任務である。
領域の一つは研究である。学生が研究に優れるか見分けるには、学生時代に研究に参加する機会が必要である。そこで、私の立場を一応はっきりさせておこう。最近、私は患者として入院する機会があった。その経験も踏まえて、医師やナースの役割、患者を世話し患者のために活動する役割に充分な信頼を寄せてはいる。しかし、研究が進んで入院が必要なくなれば、どんなによかろう。
学生が研究を経験することには二重の利益がある。優れた能力のある学生を選び出す他、研究の医師のない学生でも研究経験があった方が優秀な医師になる。効果はいろいろと幅広い。
例えば、論文を批判的に読めるようになる。雑誌に発表されたデータを、客観的に見られるようになる。医科大学には「データ評価」のコースはない。けれども、学生が卒業後40年間も独立して活動し、いいものと悪いものと見分け、必要なものを採用し不要なものを捨てられるように、教官は教育せねばならない。
研究の経験があれば、対照実験の重要性もわかる。新しい評価法の評価には特に大切な問題である。
研究の経験があれば、問題解決に系統的に当たるにはどこから攻めたらよいかもわかる。患者を一人一人治療していくのは「問題解決」である。研究のおかげで、診断・予後・治療の評価の際、漠然と推測するより数字を取り扱う方が優れていることもわかる。
本書に取り上げられている学生のした研究を列挙してみましょう。
デイヴィ-笑気の麻酔作用発見
モートン-エーテルの麻酔作用発見
ポアズイユ-血圧測定
ピーターソン-動脈圧連続測定
ランディス-小血管の血圧測定
ランゲルハンス-膵臓ランゲルハンス島の発見
バンティングとベスト-インシュリンの発見
マクリーン-ヘパリンの発見
ブロイエル-ヘーリング・ブロイエル反射の発見
ザントストレーム-副甲状腺の発見
テベシウス-テベシウス静脈の発見
ブラック-炭酸ガスの発見
ベリーニ-腎組織の構造の記載 (そのまま20歳で教授へ)
ヤング-眼球内の毛様筋の収縮により焦点距離を調節していることの発見 (彼はヤングの干渉実験でも有名)
フラック-キース・フラックの結節を発見
スワンメルダム-毛細管の中の血球を発見
イーヴリン-比色計を発見
フォーグル-梅毒治療にサルチル酸 (駆梅薬)を使用した際、強力な利尿効果があることを発見 (心不全の治療に応用)
枚挙にいとまがありません。著者のこのような考え方に、謝意を述べた弟子の手紙が紹介されています。
あなたのもとでリサーチフェロウをやった医師の中には、私のように開業した人もおり、教育のむだと見えるかもしれません。でもそれは違います。科学的に物事を考えるだけで診療が行えるとは主張しませんが、毎日の医療に科学的考え方を適用するのでなくては、そもそも進歩はありません。
第11章は、偶然起こったことから非常な利益を得る話で、「豚の丸焼きと科学の発見」と名付けられています。これは、たまたま豚小屋が火事になり、焼けた豚を食べた人が、豚を焼いて食べるとおいしいと気づいた逸話からとられています。いくつか紹介しましょう。
①殺鼠剤フェニールチオ尿素の研究中に、同薬剤で甲状腺ホルモン生成阻害が起こることが発見され、抗甲状腺薬が発見された(※記載はありませんが、PTU(プロピルチオウラシルでしょうか))。
②糖尿病患者ではインシュリン破壊酵素インシュリナーゼの作用が強すぎるのではないかと仮説が立てられ、それを実証する実験をしたところ、逆に糖尿病患者ではインシュリン消失が遅かった。その原因を確かめるためインシュリンをアイソトープでラベリングして患者に投与した実験で、インシュリン量の測定が可能になった(ラジオイミュノアッセイ法)。
③抗ヒスタミン薬ドラマミンの治験中に偶然、抗ヒスタミン薬が乗り物酔いに効くことがわかり、乗り物酔いに悩む米軍は研究に乗り出した。
④冠動脈造影は元々、重篤な不整脈が起こりそうなため、施行されていなかった。ただ、医療事故で間違えて冠動脈に造影剤が流入してしまい、その時にRCAが末梢まで鮮やかに造影された。また、患者に合併症はなかった。このことから冠状動脈カテーテルが行われることになっった。
⑤昔はペニシリンが高価で手に入らなかった。というか、大量生産が不可能だった。そこで、血中濃度を保つためペニシリンが排出されにくい薬を開発されることにした。パラアミノ馬尿酸は効果があったが、不十分だった。そこで、プロベネシドが開発されたが、開発されたころにはペニシリンは大量合成できるようになっていた。しかし、尿酸排泄促進剤として痛風に効果があることが発見された。
⑥研究室の動物飼育担当者が残飯を使って飼育していた頃は、鶏の脚気は発生しなかったが、担当者が交代して白米を与えるようになってから鶏に脚気が発生した。また残飯を投与するようになってから脚気は発生しなくなった。このことから何か大切な物質「ビタミン」の存在が示唆され、特に脚気を防ぐ物質は「サイアミミン」と名付けられた。
このように、この類の話もいくらでもあります。研究というのは、偶然が作用する場合があるのだなとつくづく思います。でも、それを見逃さない観察眼や、見つけたら発表する姿勢は大切と言えるのかもしれません。
第17章は「実のところのおはなし」という、発見の舞台裏についてです。
例えば、リンガー (リンゲル) 液は、ちょっとしたミスから見つかりました。リンガーは、実験に蒸留水ではなくて、水道水を使ってしまったのです。結果的に実験が成功しました。でも、蒸留水から生理的食塩水を作ると上手くいかなかったのです。こうして、水道水に含まれるカルシウムの重要性に目がいきました。ちなみに、リンガーの弟は貿易商で、グラバー邸を中心とする長崎の史跡に邸宅を残しているそうです。
この章は引き続きヘパリンなどの抗凝固薬の話が扱われるのですが、その中に、信じられないような記述があったので、一部引用しておきます。
現時点では信じがたいことだが、1900~1915年ころは輸血には供血者の動脈と患者の静脈を直接つないでいた。血液凝固を防ぐ方法としては、刷毛で激しくかきまぜて血中フィブリンを取り除く位しか手立てがなく、血液を刷毛でかき混ぜると強い生体反応が起こった。1914年、ベルギーの医師ハスティン博士がクエン酸ソーダを血液に加えると凝固しなくなり、現在の手順の輸血の可能性を証明したのである。
供血者の動脈と患者の静脈を手術でつないで輸血させるなんて、想像しただけで鳥肌が立ちます。
第23章は「世界史上の人名録」です。多くの人の命を救ったであろうペニシリンの発見者をあなたは言えますか?この発見に対して、世間の関心は一過性のものだったのでしょうか?日本においてもペニシリンは未だに肺炎治療の基本であったりして、ないがしろにされるべき薬剤ではありません。
さて、ペニシリンの件についての解答です。引用を持ってかえさせて頂きます。
こんな問題がなぜわからないのか、とても不思議である。ペニシリンはおそらく史上最多の人命を救った薬物のはずで、当然大事件である。そこで百科事典のFの項を引いて、フレミングの名前が載っているか調べた。なるほど一応載ってはいる。「アレクサンダー フレミング卿、スコットランド生まれの細菌学者及び医師、ペニシリンの共同発見者、1929年」となっていた。次に同じ辞書の附録についている「世界史上で重要な日付」に当たってみた。21ページ、1770項目にわたる記事である。一番古い項目は、紀元前 3200年のことでエジプト王朝であり、最後の項目は 1965年バチカンにおける法王パウロ 6世の全体協会開催となっていた。
フレミングがペニシリンを発見した 1929年も載っていた。この年の事件は 4つで、アルバニア王ゾグの統治、ヤングの賠償案をドイツと同盟国の双方が受け入れたこと、ニューヨークウォール街の株の暴落、フーバー大統領辞任の4つである。ペニシリン発見は載っていない。次に 1895年のレントゲンの発見が載っているかしらべたが、これも載っていない。1895年として載っていたのは、日清戦争・ドレフュス事件・帝政ロシアのニコラス 2世の統治、極東での争いであった。さらに少し考えて、ハーヴェイの血液循環が載っているか試した。1628年は辞書に載っているが、その内容はスペインのフィリップ 4世の統治、イギリスのチャーチル1世の統治、権利章典の署名、マサチューセッツ港湾会社の免許といった項目で、血液循環は掲載されていない。
私も知らないことは多いのですが、こうした歴史を知ることは有意義なことだと思います。先人達の業績については、我々はもっと勉強しなければいけませんね。
第24章は、「失敗を恐れない勇気」です。ここでは、勇気を第1~第4級に分けています。
第1級の勇気は、自分の命をかけて人類に寄与した勇気です。自分の右心にカテーテルを挿入したフォルスマンが例として挙げられています。
第2級の勇気は、自分の家族を実験台にして研究を行ったものです。ジェンナーが牛痘を用いて予防接種するより昔に、天然痘患者のうみを自分の子供に打ったモンタギュー夫人などです。
第3級の勇気は、第1級のように自分の命を賭けるものの、動機が富や名声であるものです。
第4級の勇気は、自分が非常に重い病気にかかっていて、未知の治療を受けた患者です。面白い例があるので紹介しましょう。
別の例としてギルモア博士をあげよう。ギルモア博士は、1933年に肺切除を一期的に行う手術を初めてうけた患者である。当時48歳であったが、左肺上葉で気管分岐部に非常に近いところに扁平上皮癌が見つかった。主治医の外科医グラハム博士は気管支鏡と試験切除で確認できたので、患者のギルモア博士に対して手術の計画を正確に説明した。ギルモア博士は一度病院から退院して、いろいろと準備をし、当然その間に墓も予約した。最もグラハム博士が喜んだことに、ギルモア博士は歯医者に通って歯の治療もうけたという。ずっと後の1957年になって、グラハム博士は「ギルモア博士が歯医者へ行ったと聞いて、わたしは大変うれしく自信もついた」と言っている。世界最初の一期的肺切除術は大成功に終わり、その後患者は健康に過ごして結局 1963年に心臓と腎の病気により78歳で死亡した。実は手術した外科医よりも、患者の方が 6年も長生きしている。グラハム博士の方は、1957年に自分も肺癌にかかり手術不能で死亡している。
その後に、「外科医の勇気」というのが述べられています。それは、失敗が続いてもトライを続けるものです。しかし、それを勇気と呼べるか、筆者は懐疑的です。
ここで述べた話は心臓外科手術と勇気であるが、だれの勇気だろう。外科医が自分の医師としての生命をかけて危険な手術を試みたというのだろうか。それとも 5人目の患者クレア ウォードが前の 4人が死んだこと、少なくとも前の 3人は死んだことを知りながら、あえて自分の命をかけたその勇気だろうか。「第4級の勇気」の栄誉は外科医ではなくて患者に与えるべきである。
外科医の方は勇気があったとは言えないか。勇気と言わない理由は、1例の成功までに、何例も失敗するのはきわめて当たり前だっったからである。この点は、今となっては覚えている人も少ない。こういう失敗を重ねても、外科医としての生命を危うくするとか、不名誉として人から責められたり、貧困に陥ったという例はない。そうした事例があれば、医師を第 4級の勇気か第 2級の勇気として称賛してもよい。しかし、いろいろな論文や出版された文章、伝記を読んでみても、失敗によって汚名を着せられた例はない。
トレンデレンブルグといえば有名なドイツの外科医であるが、1912年に「われわれは肺血栓除去術を 12例試みて 12例失敗した。しかし続ける」と述べている。実際宣言のとおりこの手術を続け、失敗を続け、しかもなお周囲から敬服を受けつづけた。
著者は、そう述べながら、手術に失敗して心に大きな痛手を受ける外科医の話も紹介して、「私の分析には何か至らない点があるのかもしれない」と結んでいます。
この話から感じるのは、「初めて」の治療を受けることの恐怖と、それを乗り越えることの勇気です。その成功により、医学は発展してきました。でも、ある意味綺麗事も含まれており、上手くいかなくて命を落とした人たちが数え切れないほどいることも事実です。
第25章は、「フランケンシュタインとピックウィックとオンディーヌと-引用の誤りについて」です。小説から名前を借りたピックウィック症候群とか、オンディーヌの呪いという病気があるのですが、実は小説を読んでみると、不適切なネーミングであったというものです。このことは以前「好きになる睡眠医学」という本の紹介で触れたので、流します。
私が初めて知ったのはフランケンシュタインの由来です。もともと、1816年にシェリー夫妻らが休暇中に、退屈を紛らわせるために、みんなで幽霊の話を書こうということになりました。実際に書いたのはシェリー夫人だけで、「フランケンシュタイン-現代のプロメトイス」という題名の本でした。ヴィクトール フランケンシュタインはインゴルスタット大学の「自然哲学(医学)」の学生でした。彼はおとなしく、賢い紳士であって、人から愛されることを願っている創造物を作りました。部品は病院の解剖室や屠殺場から集めました。創造物は人のために尽くしますが、逆に迫害され、痛めつけられ、人類に復習を誓います。こんな悲しい物語があったとは知りませんでした。お化け屋敷で会ったら、「ごめんなさい」と謝らないといけませんね。ちなみに、フランケンシュタインは創造物を作った学生のことで、創造物をフランケンシュタインと読ぶのは、厳密には誤りなのだそうです。
さて、最後の3章は肺の「サーファクタント」発見の物語です。新生児が生まれてすぐ呼吸出来るようになるのは、この表面活性物質の影響が大きいのです。しかし、それが同定され、治療に応用されるようになるには、大変な物語がありました。
最初は、表面張力に関わるラプラスの法則から始まります。このラプラスの法則を訳して英語圏に広めたのがバウディッチで、原典と同じ長さの注釈を付けて、発表しました。でも、彼は10歳までしか学校に通わず、以後は船乗りをしていたのです。天才としか言いようがないですね。このラプラスの法則が、サーファクタント探求への理論的な基礎となります。ちなみに、ラプラスの法則は盗用とも考えられ、最初に報告したのはヤングで、当のヤングはラプラスに「フランスで新しい重要な理論として発表されたことが、実は1年前に本学会で堂々と発表されていたことは知っておいて欲しい」と苦言を呈しています。
後に紆余曲折を経てサーファクタントが発見されるのですが、是非本書を読んでみて欲しいと思います。途中、結核なのにそのまま小児科のインターンを始め、多大な貢献をした医師の話なんかも出てきます(ガフキーのことは書いてないけれど、患者に伝染ったらどうするんだっての)。
現在、未熟児が生まれても、助けられるのはこのサーファクタントの発見によるところも大きいと考えられます。サーファクタントの不足は新生児呼吸窮迫症候群を招くからです。
こうした本を読むたびに、人類が積み上げてきた医学史の重みを感じます。特に本書を通じて、発見には予想外の事象から導かれたものも多く、医学は必ずしも直線的に進んできた訳ではなかったのがよくわかりました。
4月から埼玉の病院に出張になりました。
新しい病院で、新しい環境。心機一転です。
でも、勤続0年に後戻り。ほぼ1年置きの出張のせいで、31歳にして勤続3年以上を経験したことがない・・・。当然、生まれて一回もボーナス貰ったことがないし、退職金も貰ったことなし。何とも良くできたシステムです。
とはいえ、全然悲観はしていないのです。したたかに生きてなんぼの世界ですからね。どっかで帳尻合わせます。
こう言う時に思い起こすのが、高杉晋作の句。
どんな環境でも楽しみを見つけることは可能だと思います。
当面、練馬の自宅から通う予定です。大変そうだったら、病院の近くに激安の物件を借りるかも。別荘生活突入?
「お産の歴史-縄文時代から現代まで(杉立義一、集英社新書)」を読み終えました。
人類が始まったところから、お産はあったのに違いないのですが、我々は縄文時代の遺跡から、昔のお産文化をうかがい知ることが出来ます。土偶などです。縄文時代の遺跡を見ると、胎児から生後一年までの乳幼児の墓が、成人の墓の六倍存在するなどといった事実が本書に記されています。
次に、古事記の記載です。
伊耶那岐命 (イザナキノミコト) がその妻の伊耶那美命 (イザナミノミコト) に尋ねて「お前の身体はどのようにできているか」と言うと、答えて、「私の身体は成り整ってまだ合わないところが一か所あります」と申した。さらに伊耶那岐命が「私の身体は成り整って余ったところが一か所ある。だから、この私の身体の余分なところでお前の身体の足りないところをさし塞いで国を生もうと思う。生むことはどうか」と仰せになると、伊耶那美命は「はい、それでよい」と答えて言った。そして、伊耶那岐命は「それならば、私とお前でこの天の御柱のまわりをめぐって出会い、寝所で交わりをしよう」と仰せになった。こう約束して、すぐに「お前は右からめぐって私と出会え。私は左からめぐってお前と出会おう」と仰せになった。約束しおわって柱をめぐり出会った時に、まず伊耶那美命が「ああ、なんといとしい殿御でしょう」と言い、あとから伊耶那岐命が「ああ、なんといとしい乙女であろう」と言った。それぞれ言いおわったあとで、伊耶那岐命が妻に仰せになって「まず女の方から言ったのは良くなかった」と言った。そうは言いながらも、婚姻の場所でことを始めて、生んだ子は、水蛭子 (ひるこ) だった。この子は葦の船に乗せて流しやった。次に淡島を生んだ。これもまた、子の数には入れない。
そこで二柱の神は相談して「今私たちが生んだ子はよろしくない。やはり天つ神のもとに参上してこのことを申し上げよう」と言って、ただちに一緒に高天原に参上し、天つ神の指示を求めた。そこで、天つ神はふとまにで占い、「女が先に言葉を言ったのでよくないのだ。まだ降って帰り、言いなおしなさい」と仰せになった。こうして、二神は淤能碁呂島 (おのごろしま) へ帰り降って、ふたたびその天の御柱を前のようにめぐった。
そこで、まず伊耶那岐命が「ああ、なんといとしい乙女だろう」と言い、あとから妻の伊耶那美命が「ああ、なんといとしい殿御でしょう」と言った。こう言いおわって結婚され、生んだ子は、淡路之穂之狭別島 (あわじのほのさわけのしま)
古事記には、編纂された頃の思想が反映されていると思うのですが、男性から求婚することが、強く求められています。現代でも、男性からプロポーズすることが多いのは、何か植え付けられた意識があるのか、それとも別に要素があるからでしょうか?
本書では、古事記のその後の記載から、お産を考察しています。
時代が下って、奈良時代には「女医 (にょい)」という官職があり、主として助産婦のような仕事をしていたことがわかります。ただ、今の「女医 (じょい)」とは全く別のものだったようです。
平安時代のお産については、栄花物語での出産シーンを研究したものがあるそうです。
産科史的にみて重要なことは、妊産婦の産後の死亡が多いことで、この点に関しては、佐藤千春の詳細な研究 (「栄花物語のお産」『日本医事新報』一九八九年八月) がある。それにもとづいて計算すると、四十七人の妊産婦のうち十一人の死亡例 (二三.四%) があり、出産回数でいえば、六十四回の出産に対し十七・二%の母体死亡となる。
びっくりするほどの数字ですね。当時は近親婚も多かったし、色々出産にマイナスとなる習慣もあったのでしょうが、何故縁起を担ぐ行事がそこまで発展したかわかるような気がします。
江戸時代の産婆は酒を飲んで仕事していた人がいたそうで、香月牛山著の『婦人寿草』の「産婆を選ぶ基準」に次のように書いてあると紹介されていて、笑ってしまいました。
産婆の多くはよく酒を飲み、性格も剛胆である。ただし、あまり多くの酒を飲ませるべきではない。気力の助けとなるくらいのわずかな量で充分であり、多いと眠気をさそい、酒臭い息が産婦にかかり、その息を嫌う産婦も多い。
仕事中に酒を飲むのはダメですよね。
江戸時代以前にも、変な風習は多かったのですが、江戸時代には徐々にそれらが正されていきます。近代産科学の創始者加賀玄悦は「産論」を著しました。
当時上は后妃から下は庶民の妻にいたるまで、産後七日間は産椅という椅子に正坐させて、昼夜看視する人がついて眠らせず、横臥させないという風習があった。
「産論」などを通じて、こうした風習を加賀玄悦は正していくのですが、7日間寝かせないというのは、拷問にも等しいですね。加賀玄悦には、他にも多大な業績があり、例えば回生術といって死胎児を取り出す(胎児の頭蓋を砕いたり、手足を切断したりする)方法を広め、多くの母体を救いました。
玄悦の後を次いだのが、出羽国横堀出身の玄迪です。彼は「正常胎位を図示したわが国初めての妊娠図」を書いたのだそうです。そうこうして、加賀流産科術は日本で広まっていきました。会津にも山内謙瑞という医師が会津若松町で開業した記録が残っているそうです。玄悦の弟子の奥劣斎は、日本で初めて尿道カテーテルを行った医師なのだそうです。
ただ、加賀流は、鈎を用いるので、胎児に傷が付きやすかったそうで、陸奥国白川郡渡瀬出身の蛭田克明は、加賀流に対抗する蛭田流を作ったそうです。
会津若松で開業した山内謙瑞や、白川出身の蛭田克明など、福島県には産科史的に重要な役割を果たした医師の名前が見られる一方で、最近、大野病院事件のように産科医療崩壊の引き金になった事件も起こり、不思議な感覚がしました。
さて、興味深いのは帝王切開についてです。いつくらいからこのような方法が行われているのか興味があります。俗説では、カエサル・シーザーが帝王切開で生まれたというのがありますが、誤りのようです。Wikipediaからの引用です。
日本語訳の「帝王切開」はドイツ語の「Kaiserschnitt」の翻訳が最初と言われ、ドイツ語の「Kaiser=皇帝」、「Schnitt=手術」よりの訳語である。 語源として現在もっとも有力な説は、古代ローマにおいて妊婦を埋葬する際に胎児をとり出す事を定めた Lex Caesareaにあるとされている。
さらに「Kaiserschnitt」の語源であるラテン語の「sectio caesarea」は「切る」と言う意味の単語二つが、重複している。これが各言語に翻訳されるにあたり、「caesarea」を本来の「切る」という意味ではなく、カエサルと勘違いしたのが誤訳の原因であるという説もある。
そのほかの現在は誤っているとされる語源の説として
ガイウス・ユリウス・カエサルがこの方法によって誕生したということから。
中国の皇帝は占星術によって、母子の状態に関係なく誕生日を決められていたため、誕生日を守るために切開で出産していたとされることから。
シェークスピアの戯曲「マクベス」の主人公の帝王が、「女の股から生まれた男には帝王の座は奪われない」との占いを聞き、大いに喜び自分がこの世の帝王だと信じていたが、あまりの圧制に反乱を企てた反乱軍のリーダーとの決闘の際この占いの話をしたところ、「俺は母親の腹を割かれて生まれてきた」と返された上で殺され、その反乱軍のリーダーが新たな帝王になった。という話から。
本書で、帝王切開の歴史に触れていますので紹介しておきましょう。
生きている産婦に対する世界ではじめての帝王切開は、ザクセン地方の外科医トラウトマンが一六一〇年四月二十一日におこなったのが最初といわれる。このとき、母親は二十五日間生きた。つぎの二世紀におこなわれた帝王切開は、直接の大量出血と感染によりすべて一週間以内に死亡した。そのためフランスでは一七九七年、反帝王切開協会が組織されるにいたったほど、当時の帝王切開術は危険を伴うものだった。アメリカ合衆国では、一七九四年にはじめて成功、以降、一八七八年まで八十例の帝王切開がおこなわれたが、ここでも母の死亡率は五三%と高かった。
わが国における伝承としては、一六四一 (寛永一八) 年、肥後 (現・熊本県) 人吉藩で、藩主相良頼喬の誕生の際に、生母周光院殿 (十九歳) に帝王切開をおこなった。母は死亡したが、胎児は救われた。ただし明確な証拠はない。
文献上、日本で最初に帝王切開が紹介されたのは、一七六二 (宝暦十二) 年に、長崎でオランダ外科を教えていた吉雄耕牛の講義を、門人の合田求吾が書き残した『紅毛医談』である。(略)
そうした状況のなかで、実際にこの手術をおこなった医師があらわれた。伊古田純道 (一八〇二~八六年) と岡部均平 (一八一五~九五年) の二人の医師で、一八五二 (嘉永五) 年四月二十五日 (陽暦六月十二日)、武州秩父郡我野村正丸 (現・埼玉県飯能市)、本橋常七の妻み登の出産の際に、帝王切開の手術をおこなった。(略)
純道は右側に立って、左下腹部を縦に切開し、ついで子宮を約一〇センチ切開して、胎児および付属物と汚物をすっかり取り除いて (子宮の切開創はそのままにして)、腹壁を縫合して無事手術を終えた。その間半刻 (一時間) ばかりであった。(略)
その後、み登は九十二歳の天寿をまっとうした。
日本は、欧米に遅れて成功していますが、長崎から学問が入って来たことが、大きな役割を果たしています。学問に関しては、情報の伝達が非常に大切であることが痛感されます。それにしても、初めて帝王切開受けた女性はどんな思いだったでしょう。それを受けないと死ぬという状況でしたし、ものを考えられる状況にはなかったかもしれませんが。
最後に、「産経」というのは、中国最古の産科専門書といいます。産経新聞とは関係がないようです。
D. C. Dounisという名前を聞いたことがありますか?
あったとしたら、相当なマニアですね。ヴァイオリンの上級者向けテクニックの本を書いている方です。しかも医師です。
Demetrius Constantine Dounis (1886 – 1954) was an influential teacher of violin and string instrument technique. A trained physician, Dounis focused his early medical career on treating professional musicians from the world’s major symphonies. He would work with a musician for at least six months, observing the musician’s technique, asking questions, and devising new exercises to indirectly address the problem.
Dounis also wrote several instructional books. In his 1921 volume The Artist’s Technique of Violin Playing, Dounis emphasized the importance of shifting and finger exercises. These were to develop the musician’s mental map at the beginning of practice, after which scale drills would be more effective.
Dounis’ first name is variously spelled Demetrios or Demetrius.
昔、ヴァイオリンの師と、「医師兼音楽家」の話題となり、「お医者さんでヴァイオリンの教本書いた人いたわね。」と教えて頂いたのが最初です。
早速、彼の「The Artist’s technique of Violin Playing」を買って練習してみたのですが、メカニックな練習が延々とあり、すぐに飽きて挫折しました。ただ、非常に合理的で、意図はわかりやすいと思います。根気さえあれば、ある程度の効果は期待できるでしょう。ただ、内容はかーなり難しいですよ。パガニーニのカプリスさらうより大変かもしれません。
最近、彼の事を調べていて、「The Dounis collection」という本もあるのを知り、amazonで購入しました。ところが、本の最初は以前買った本と一緒。
実は、最初に買った本は、作品番号12を収録したもので、後から買った方は、作品番号12, 15, 16, 18, 20, 21, 27, 28, 29, 30が収録されているのです。購入するなら後者ですな。
最後に、「The Dounis collection」の序文を引用します。ウィーン大学医学部卒業であることはわかりますが、医師としての業績は書かれていませんでした。医学部卒業後はヴァイオリニスト、ヴァイオリン教育者として活動されていたようで、そちらの業績はかなりのものと思います。
Demetrius Constantine Dounis (1886-1954) was one of the most prominent violin pedagogues of the twentieth century. He studied violin privately in Vienna with Frantisek Ondricek, a much-sought-after teacher who no doubt impressed Dounis with significance of pedagogy, and simultaneously enrolled as a medical student at the University of Vienna. Following his graduation, he made several tours as a violinist in Europe and Russia. After World War I, he was appointed professor of violin a the Salonika Conservatory in Greece, and it was at this time that he devoted much of his energy to violin pedagogy and publication of pedagogical treatises. He then settled in England and, facing the threat of World War II, relocated to the United States, first New York City, then Los Angeles, where he died soon afterwards. (“The Dounis collection” より)
今日、ヴァイオリニストの江藤俊哉氏が亡くなられました。
今、手元の「The Art of Toshiya Eto」という 4枚組の CDを聴いています。自分の解釈を説得力を持って演奏出来るのって、良いですよね。独りよがりの演奏なら簡単ですが、必然性があり、説得力を生み出せるのが凄いと思います。久しぶりに震えています。CDの半分以上の曲は、私が演奏経験がある曲。聴きながら、演奏している気分になります。
バイオリニストで元桐朋学園大学長の江藤俊哉さん死去
2008年01月22日12時13分戦後日本を代表するバイオリニストで、教育者として多くの演奏家を育てた元桐朋学園大学長の江藤俊哉(えとう・としや)さんが22日午前6時36分、肺炎による心不全で死去した。80歳だった。葬儀は近親者のみで行う。後日お別れの会を開く予定。
東京都出身。4歳から早期音楽教育「スズキ・メソード」で知られる故鈴木鎮一氏のもとで学び、12歳で音楽コンクール(現日本音楽コンクール)で優勝した。
東京音楽学校(現東京芸大)卒業後に渡米。カーチス音楽学校で名教育者としても知られるジンバリストに学び、24歳でニューヨークのカーネギーホールでデビュー。日本人離れした大胆な弓使いと深みのある音色で世界に認められた。
演奏活動の傍ら、桐朋学園大や上野学園大で堀米ゆず子さん、矢部達哉さん、諏訪内晶子さんらを育てた。エリザベート国際コンクールなど海外コンクールの審査員も歴任。71年にモービル音楽賞、79年に日本芸術院賞、00年に渡辺暁雄音楽賞特別賞を受賞。97年から04年まで桐朋学園大の学長を務めた。
指揮者、ビオラ奏者としても活躍。音楽家の地位向上を求める社会的発言も多かった。「違いがわかる」というインスタントコーヒーのテレビCMに出演、茶の間でも知られていた。
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