Category: クラシック音楽

George Enescu

By , 2008年4月13日 9:45 PM

ヴァイオリン音楽好きなら、「ジョルジュ・エネスコ」というヴァイオリニストの名前を聞いたことがあるかも知れません。ヴァイオリンの巨匠の1人として知られています。

最近、「ジョルジェ・エネスク-写真でたどるその生涯と作品-(ヴィオレル・コズマ著、竹内祥子編訳、ペトレ・ストイヤン監修、ショパン出版)」という本を読みました。ルーマニア人ですので、発音が難しく、本書では「ジョルジェ・エネスク」と記載されています。

エネスクは 1881年 8月 7日 (19日説もあり) にルーマニアのドロホイ県、(現ボトシャニ県) リヴェニ・ヴルナヴに生まれました。父のコスタケ・エネスクはテノールの歌手であり、ヴァイオリンも演奏しましたが、農業をおもな生業としていました。母のマリア・コズモヴィチ・エネスクは、ギターやピアノを演奏していましたが、プロの演奏家ではありませんでした。医学の未熟な時代であり、マリア・コズモヴィチ・エネスクの子供のうち、4人が死産で、7人が 12歳以下で死亡し、末子のジョルジェのみが生き延びることができました。

コスタケ宅は音楽サロンでもあり、子供の教育のために音楽家を雇ったりしました。ヤシからやってきたエドゥアルド・カウデッラは 1886年と 1887年の 2回ジョルジェに会い、ウィーンで学習することを勧めました。それを受け、1888年に 7歳のジョルジェ・エネスクはウィーン学友協会の音楽院を訪れます。しかし、当時、規則で 10歳未満の子供の器楽コースへの入学は認められていませんでした。それにも関わらず、ジョルジェ・エネスクは特例として入学が認められました。そのすぐ前にも特例として認められた人物がおり、それが有名なフリッツ・クライスラーです。

小児期には、小さいサイズのヴァイオリンで練習するものですが、エネスクはやがてフルサイズのヴァイオリンを演奏するようになり、「サン・セラフィーノ、ウィネーゼの製作者、1663年」と署名の入ったヴァイオリンを持つようになりました。エネスクの教師は、ルードヴィヒ・エルンスト (ピアノ)、ロベルト・フックス (和声、対位法、作曲)、アドルフ・プロスニッツ (音楽史)、ヨーゼフ・ヘルメスベルガー二世 (室内楽)、フェステンベルガー (合唱)などでした。

エネスクは 11歳でメンデルスゾーンのヴァイオリン協奏曲ホ短調をソリストとしてウィーンで演奏し、成功を収めました。そこへ、シュヴェリン劇場専属オーケストラが 11歳のエネスクにコンサートマスターとして雇いたいと接触してきたのです。実現はしませんでしたが、彼の音楽家としての資質を証明する逸話です。1893年のウィーン音楽院での卒業演奏会では、彼はパブロ・デ・サラサーテの「カルメン幻想曲」を演奏しました。

1895年になると、ジョルジェはパリを訪れました。パリ音楽院作曲家教授のマスネ宛の紹介状を持参です。パリの当時の音楽水準は低かったらしいのですが、マスネ、フォーレとの接触は大きな刺激になったようです。同音楽院での彼の師は、ヨゼフ・マルシク (ヴァイオリン)、ホセ・ヴィーテ (ヴァイオリン)、ルイ・ディエメ (ピアノ)、アンブロワーズ・トマ (和声)、テオドール・デュボア (和声)、アンドレ・ジェダルジェ (対位法)、マスネ (作曲)、フォーレ (作曲)でした。また、学友にはジャック・ティボー、アルフレッド・コルトー、モーリス・ラヴェル、ロジェ・デュカス、アルトゥール・オネゲルらがいました。また、彼が出入りしたマノラアケ・エプレアヌ公のサロンには、音楽家のグノー、サン=サーンス、マスネ、フォーレ、アントン・ルービンシュタイン、アンリ・ヴュータン、イグナーツ・パンデレフスキ、画家のピエール・ボナール、ジャン・エドゥアール・ヴィヤール、作家のアナトール・フランス、マルセル・プルースト、彫刻家のアリスティード・ブールデルなどの名士が訪れました。パリにいる間に、彼はストラディヴァリを手に入れました。パリでの充実した時代を送った後、彼はルーマニアに帰国しました。

ルーマニアに帰国した後も、ヴァイオリニスト、ピアニスト、指揮者として各地を飛び回り演奏活動を行っていたエネスクですが、作曲家としても、歌劇≪オイディプス王≫など数々の名曲を残します。また、教育者としても、1928年にハーバード大学で教鞭を執ったりしました。

エネスクは 1946年に、全体主義政府から逃れるため、アメリカに亡命しました。また、マルカという女性に恋をし、1937年に 56歳で結婚しました。エネスクはかなり入れ込んでいたようで、彼女のことを常に「愛する王女」と呼んでいたそうです。精神疾患に罹患したマルカの看病のために、演奏活動を数年間中止したといいます。1947年にエネスク夫妻はパリに戻りました。彼は1952年 7月 1日に最後の遺言書を書き、そこには「私は自分の財産を後見人である私の妻にすべて委ねます。そして以前私が書いた遺言は無効とします。私は妻を私の後継者としてフランス・アカデミーの委員に任命します。」とあります。

1954年 6月 13日にエネスクは心臓発作を起こし、パリのアタラ・ホテル移されました。ホテルのオーナーのフロレスクは無料で受け入れ、エリザベート王妃は看護婦を雇い、エネスクが亡くなるまで看病させたといいます。作曲家のマルチェル・ミハロヴィッチもエネスクの死ぬ間際、看病に当たった一人です。ミハロヴィッチは「エネスクの意識はずっとはっきりしていたが、寝たきりで左腕は完全に麻痺していた」と言っていたそうです。1955年 5月 4日に、彼は亡くなりました。本書には、病床でのエネスクの写真が掲載されていますが、左腕は写されていません。ルーマニア国立オペラ歌劇場正面の公園にある彼の銅像の写真を見ると、左手はWernicke-Mannの肢位をとっているように見えます。彼は、希望したルーマニアのバカウ州テスカニではなく、パリのペール・ラシェーズ墓地に埋葬されました。

ヴァイオリニストとしてのエネスクの腕前は、今更説明の必要はありません。巨匠としての名声は、完全に確立されています。彼がヴァイオリニストとして如何に素晴らしかったかを示す逸話を「ストリング 2002年 9月号」から紹介します。

奏法を極めて至る音楽観というもの<一>-ヴァイオリニスト・朝枝信彦-

音程というのは、体全体でとる、という話を以前しました。音というものはそういうものだ、という話をしました。

で今回、もっと押し進んで、調性というのは、象徴からくるものである、ということですね。G-dur、D-dur、A-durという風に幸福度が増してくるシャープ系と、憂鬱度が増してくるフラット系、そういうものがありますよね。悲しい、だけど絶望していない、絶望しているけれども力強さのある c-mollとか。音程というのはそこから来るんですね。

だから『音程というのは作るものじゃなくて、来るもの』なんです。だから、象徴、イマジネーション、そういうものがあって、これは万人共通のものですね。そういうところから調性、音程が来る。

僕が初めてミルシュタイン先生にレッスンを受けた時に『君、音全部違っている』と言われたのは、そういう調性感からくる音程を考えていなかったからなんです。

僕は音程を正しく弾いたつもりでも、全然合っていないわけです。例えば、ブラームスの d-mollで、ソット・ヴォーチェで、というところから来る音程で弾いていなかったんですね。だから、君、全部音違っている、と言われてもそれは当然のことでしょう。

ミルシュタイン先生が亡くなる一週間前に、エネスコの CDが届いたことがありました。ヘンデルのニ長調の四番のソナタ。

先生は『きれいだな。お前分かるか』と言うわけ。『エネスコは音を探って弾いている、それが美しい』と言う。『ヴァイオリンをどうやって弾いたらいいか、今よく分かる』って言われるんですよ、八十九歳の先生が。僕みたいな若造にそういうこと言うわけ。泪流すんですよ。『でも、もう歳だからヴァイオリンは弾けない、だけど弾きたい』と言うんですね。『エネスコは偉大だったと。エネスコは美しい』と言うんです。感動しましたね。

ミルシュタイン先生が亡くなってだいぶ経つけれども、非常に懐かしいと同時に、そういうことを言う先生自体が、非常に崇高で美しいと思う。自分の中にもそういうものを求めているということを最近すごく感じるようになりましたね。

歳をとるというのは素晴らしいことですよ。

不幸というか、現代では、レッスンでそういうことを言ってくれる先生というのがほとんどいないですよね。目先の技術が優先されてね。

コンクールで良い賞をとる生徒を育てるのがいい先生とされているから。だけど、本当のものというのは、目に見えないものでしょう。目に見えるもの、計れるものというのは、確かに大事かもしれないけれど、それは一つの手段なんですよね。

手段を学習することによって、到達する真の目的というのは、本当は目に見えないものを悟るということなんですね。だから、それ自体は何の価値もないんですよ。

でも、そういうもの、つまり手段を学習することによって、ある時、ふっと、その奥にある、つまり目に見えないものを悟るわけですね。

指揮者としてのエネスクは、1898年に 17歳の時、自作のルーマニア詩曲 Op.1でタクトを振り、1905年以降は海外のオーケストラでも指揮をするようになりました。バロック、古典派、ロマン派、現代曲まで幅広いレパートリーを誇りました。アメリカの音楽学者の中には、指揮者としてのエネスクをレオポルト・ストコフスキー、ディミトリ・ミトロポロス、アルトゥール・トスカニーニと同格に扱う人もいるそうです。ルーマニア以外で彼が指揮したのは、コロンヌ、ラムルー (フランス)、ニューヨーク・フィル、フィラデルフィア交響楽団などです。

ピアニストとしてのエネスクは、1897年に 16歳でヴァイオリニストのエヴァ・ロランの伴奏としてデビューしました。彼はピアニストとして百回以上舞台に立ったと言われています。カーネギーホールを初めとする数々のホールで演奏し、ジャック・ティボーやパブロ・カザルス、ダヴィッド・オイストラフ、カール・フレッシュらの伴奏をつとめました。暗譜を得意とし、オーケストラ曲をピアノで数時間、暗譜で演奏することもあったそうです。バッハ、モーツァルト、ベートーヴェン、ブラームス、フランクのソナタとピアノ協奏曲全曲がレパートリーであり、しかも全て暗譜していたそうです。かのハイフェッツがヴァイオリンのレパートリー 930曲ほとんどをピアノ譜まで暗譜し、ときにピアニストより上手にピアノを演奏した逸話があるのと似ていますね。

教育者としては、弟子を列挙すれば、その凄さがわかるでしょう。弟子には、イェフディ・メニューインアルトゥール・グリュミオーイーダ・ヘンデルクリスチャン・フェラスウート・ウギ、ロベルト・ゾータン、イヴリー・ギトリスローラ・ボベスクらがいます。

本書は、写真が豊富ですので、是非実際に手にとって読んでみて欲しいと思います。

さて、それでは彼のCDを聴きながら、ワインでも飲むこととしましょう。今日聴く CDは、「George Enescu, J.S. Bach / Sonata and partitas for solo violin (PHILIPS 422 298-2)」。1948年の録音です。晩年の録音ですので、技術的には少し衰えが見られますが、それを補って余りある迫力が伝わってきます。ジョルジェ・ネエスクという「人」を感じる演奏です。

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ザハール・ブロンのレッスン

By , 2008年4月5日 10:21 AM

「ザハール・ブロンのレッスン アントニオ・ヴィヴァルディー (AMA VERLAG GmbH 企画制作、ヤマハミュージックメディア販売)」を見ました。

ザハール・ブロンの略歴は下記。

Wikipedia-ザハール・ブロン-

ザハール・ブロン(Zakhar Bron, 1947年 – )は、カザフスタン、ウラリスク出身のヴァイオリン奏者。

オデッサの音楽学校に学んだ後、1960年~1966年、グネーシン音楽院でボリス・ゴールドシュタインに、1966年~1971年、モスクワ音楽院でイーゴリ・オイストラフに師事し、1971年~1974年、同音楽院でオイストラフの助手を務めた後、ノヴォシビルスク音楽院、1989年、リューベック音楽院の教授、以後、ロンドン王立音楽アカデミー、ロッテルダム音楽院、ソフィア王妃音楽大学(マドリード)などでもヴァイオリンを教えた。現在はケルン音楽院、チューリッヒ音楽院教授。

主な門下には、ヴァディム・レーピン、マキシム・ヴェンゲーロフ、樫本大進、庄司紗矢香、川久保賜紀、神尾真由子などがいる。

1971年、エリザベート王妃国際音楽コンクール第12位、1977年、ヴィエニアフスキ国際ヴァイオリン・コンクールに入賞した。

2002年、チャイコフスキー国際コンクール、2004年、ジュネーヴ国際音楽コンクールの審査員も務めた。

収録されている曲は、「ヴァイオリン協奏曲イ短調、作品 3の 6」。ヴァイオリン学習者であれば、ほとんど誰でもさらう、メジャーな曲です。でも、実は Tuttiが結構綺麗な曲でもあります。Tuttiで第 2ヴァイオリンを弾いていると、第 1楽章の冒頭は

ほぼ同じリズムで純粋に和声を与えているのですが、和声とともに変化する下行系と上行系の音型の違いが曲調に変化を与えます。演奏していて、雰囲気をコントロールしている気分にさせられます。

さて、今回レッスンを受ける演奏者は音の綺麗な、若い女性。正確には弾けているのですが、伝わるものがあまりない演奏でした。私だったらどうアドバイスするか、考えながら聴きました。音のアタックが厳しすぎるのが一番気になった点です。

演奏後、ブロンの指示によって、みるみる曲が色づいてきます。技術的な指導で表現が鮮やかに変わるのが見物です。「伝わるものがない」という批評があったとき、よく精神面に言及されますが、純粋に技術的な要素が占める部分も大きいのだと痛感します。

時々ブロンがお手本として演奏するのですが、これが非常に上手。音に独特の色合いがあります。

一度ブロンの演奏を生で聴いたことがあります。チャイコフスキーコンクールで 2位であった演奏家とのジョイントだったのですが、その演奏家が子供に見えました。そのくらい、ブロンの演奏は素晴らしかったです。

このシリーズはいくつか作品があるみたいなので、早速 Amazonで注文しました。

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佐藤&佐藤

By , 2008年4月1日 8:06 PM

最近「GRIEG Complete sonatas for violin and piano」というCDを買いました。演奏者はヴァイオリン佐藤俊介、ピアノ佐藤卓史です。

グリーグのヴァイオリンソナタ第3番は、私が現在のヴァイオリンの師のコンサートで聴いて感動し、止めていたヴァイオリンをもう一度練習するきっかけになった、思い出の曲です。特に第2楽章の白石光隆氏のピアノが非常に綺麗だったことを覚えています。

ヴァイオリン演奏の佐藤俊介氏は、1984年生まれ。バンドエイドのCMで、手にバンドエイドを巻いてパガニーニの難曲を演奏していた逸話を何かの本で読んだことがあります。日本人なのですが、非常に面白い演奏をします。これまでの日本人にはない感性の持ち主です。

ピアノの佐藤卓史氏は 1983年生まれ。秋田県秋田市生まれ。ベートーヴェン国際やショパン国際ピアノコンクールでディプロマを受賞し、東京芸大を首席で卒業しています。私が好きなグリーグの緩徐楽章も納得いく演奏です。

オーソドックスな演奏ですが、主張するところは主張していて、型を破るところは破っていて、多くの人が楽しめる一枚だと思います。

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舞台裏の神々

By , 2008年3月28日 7:25 AM

今日紹介するのは、「舞台裏の神々 (Rupert Scottle著、喜多尾道冬訳、音楽之友社)」です。余りにも面白くて、最初から最後まで2回読みました。

1回目は新幹線の中で一人でゲタゲタ笑いながら読んでいて、周囲から腫れ物をみるような視線を浴びてしまいました。笑いのツボを突く話が多すぎます。

話の多くは、オーケストラや指揮者のこぼれ話です。それもユーモアたっぷりです。

ウィーン・フィルハーモニーのコンサートマスターだった、ヴィリー・ボスコフスキーのような腕の立つヴァイオリニストですら、シュトラウスの作品の多さにひどくてこずったことがある。あるとき、≪影のない女≫の上演後、彼はいつもとちがって、劇場内のドリンク・コーナーに直行し、大量のワインを一気飲みしたことがある。だれもがおどろいて、そのわけを訊いた。彼はただこう答えた、「これが飲まずにいられるか。今日はじめてこのオペラの音符をぜーんぶ完璧に弾けたんだから!」。

このようなことが、いつもうまくいくと思ったら大間違い。ヨーゼフ・クリップスが、一九七〇年代のはじめに、≪ばらの騎士≫をウィーン国立歌劇場で指揮したときに、こんなことが起こった。第二幕でオクタヴィアンが剣を引き抜いて、オックス男爵に切りかかるシーンがある。ここでズボン役で名高かったアグネス・バルツァが、四小節早く出てしまった。クリップスはまごついて、懸命に追いつこうと努力した。だが奮闘も空しく、全体のアンサンブルを回復できなかった。

共演者の一部は先行するオクタヴィアンについて行き、他の一部は楽譜通りの進行にきちんと従い、残りの大部分は両派のあいだを右往左往するありさまとなった。その結果ほんらいなら愉快なシーンが、不快なひびきに終始することになったのである

その日のオックス役は、リーダーブッシュで、彼はプロンプターに助言を求めた。彼はリーダーブッシュに、楽譜通りにオクタヴィアンの剣に当たって、大声で「やられた!」と叫べばよいと教えた。リーダーブッシュは言われた通りに叫んだ。少なくとも十回も。そんな大げさな叫び声にすっかり度肝を抜かれ、だれもが自分勝手に態勢を立て直そうとした。その混乱のなかで、この高名な指揮者は途方に暮れて腕を空しく漕いでいた。

結局、手のほどこしようのなくなった指揮者は、激しく両手をふり、聴衆にも聞こえるような甲高い声で、「中止、中止!」と叫ぶほかはなかった。そんなどうしようもない混乱のなかでも、クリップスは、オーケストラはもうとっくにアンサンブルを回復し、楽譜通りにきちんと演奏していることに気づくべきではなかったか。ウィーン・フィルハーモニーの楽員たちは、しかるべき時点で自分たちの自主権を思い出し、混乱した事態の回復を自分たちの力で成し遂げたのだ。それに気づいたクリップスは驚愕し、すっかり意気阻喪して、その後指揮活動をやめてしまった。かなり長い謹慎生活ののち、やっと気を取り直して、いつもの実入りのよい仕事に復帰したのである。

ヨーゼフ・クリップスは、本書ではあまり良い印象で書かれてません。 楽団員から好かれていなかったのでしょうか。他に、カール・ベームも、格好のネタとして書かれています。

私の好きなバーンスタインの逸話もあり、人間くささが伝わってきます。

バーンスタインは親密さとやさしさを求めるあまり、常識の限度を超える態度を見せてはばからなかった。彼はだれかれなく情熱的なキス(演出家のジョナサン・ミラーの言葉を借りれば、紙やすりでこすられ、いそぎんちゃくに吸い付かれるようなキス)をふりまく、自分の指揮台にいちばん近い席に座っているというだけで、その楽員にもキスするありさまだった。ウィーン・フィルハーモニーのあるヴィオラ奏者は、このキス責めから逃れようと、二列目にいる仲間に席を替わってもらったほどである。そんなことでかんたんに引き下がるレニーではない。キスの儀式がはじまり、席を譲って前列にやってきた奏者が巧みにそれを避けると、彼は二列目に進み、やっとキスを逃れたと思った当のヴィオラ奏者にブチューとやるのだった。

バーンスタインはとくに親密な演奏に成功したあとは、オーケストラ全体に舌による愛情表現を示そうとし、そのためにひとりひとりの楽員を舞台の袖で待ちかまえていた。もしキスの洗礼を避けたければ、楽員は聴衆にまぎれてホールを出なければならなかった。バーンスタインは自分のまったく知らない人にも、濃厚をキスを見舞うこともまれではなかった。彼はもともと男性的な魅力にあふれていたから、大勢の女性から憧れの目で見られていた。そんなひとりがウィーン・フィルハーモニーのヴィオラ奏者ハインツ・コルの義姉。彼女はマエストロに一度会わせてくれと義弟にしつこく頼んでいた。彼は彼女にいいよと気安く約束したものの、バーンスタインはいつも崇拝者の群れに取り囲まれているので、そうかんたんに思い通りにならなかった。マエストロがちょうどサラダをぱくついていたとき、コルはやっと話しかけるチャンスをつかんだ。指揮者と義姉がたがいに自己紹介したあと、指揮者は舞い上がっている若い女性をすぐさま抱き寄せ、マヨネーズだらけの口で彼女にブチューとキスをして、相手の唇をマヨネーズだらけにしてしまった。それまで遠くから憧れの眼差しで見ていたのが、あっというまに現実の悲惨さを味わわされることになったわけだ。

私が指揮者だったら、相手を選んでキスするかもしれませんが(^^;)、バーンスタインは手当たり次第です。女性のマヨネーズだらけの唇を想像して笑ってしまいました。今度、相手がいれば、真似したいものです。

あと、笑えるのが、オーケストラの楽員たちの悪戯です。

ウィーン・フィルハーモニーの楽員たちは、イギリス系のひどくいけ好かない指揮者に対して、ひどく巧妙な復讐を企てたことがあった。ザルツブルク音楽祭で、シューベルトの交響曲第九番≪グレート≫のプローベをしていたときのこと、この指揮者は祝祭大劇場の音響効果を調べるために、指揮台から離れ、その間オーケストラは指揮者なしのまま演奏することになっていた。彼が指揮棒を置くや、オーケストラはもっともすぐれた指揮者に導かれているかのように、すばらしいひびきで演奏しはじめた。この予期せぬ変化がくだんの指揮者の耳に聴きとれなかったはずはない。指揮台にもどった彼は、不安そうに自分の指揮棒を見つめ、それを取り上げるのにしばらく躊躇した。しかし楽員たちは容赦しなかった。彼がふたたび指揮をはじめると、この指揮者ならではの凡庸なひびきになり下がってしまった

この有名な指揮者は、メンデルスゾーンの交響曲≪イタリア≫のような作品を録音するのに、四百箇所にも継ぎはぎを必要とした。ドイツ・グラモフォンの録音技師によると、移行句がほとんどうまくいっていないので、その箇所は編集技術を最高度に駆使してやっと切り抜けることができたという。事情通にとっては不思議でもなんでもないことだが、このイギリス人はテンポ感覚に欠けていたわけだ。彼は最後の楽章で、四時間のテイクのうち三時間もこんなテンポでやってゆくことに費やすものだから、音楽のこまかなニュアンスなど消し飛んでしまわざるを得なかった。オーケストラと録音技師たちの絶えざる抗議に出会って、彼ははじめて自分の誤りを認めた。

それでも彼の録音したCDのほとんど、すぐれた内容を示しているというから、それは編集技術の絶大な威力と言わざるを得ない。ともあれ、ドイツ・グラモフォンが、もうこれ以上彼を起用する気にならなくなったのは当然のなりゆきだ。ドイツ・グラモフォンは、二〇〇一年一月に彼とのレコード録音の契約を打ち切った。彼の言によれば、それを新聞ではじめて知ったということだ。

無能な独裁者よりもさらに困った存在が、音楽の講釈を楽員に延々と垂れることが大好きな指揮者である。そんなひとりがヨーゼフ・クリップスである。彼はプローベを時間通りに終えることはまずなかった。予定された時間にプローベが終わっても、もう一度といってまたやり直す。というのも、「楽員というものはしごけばしごくほどよくなる!」、と頑なに信じているからだが、これほど楽員をばかにした言い草もない。このような無意味な時間の浪費は、楽員の復讐心を掻き立てる。それはある絶好の機会に実行に移された。クリップスは絶対音感に恵まれていないことにひどく悩んでいた。だから楽員たちはいつもそのことを当てこすっては彼にいやがらせをした。ウィーン・フィルハーモニーの楽員たちが、ブルックナーの交響曲第四番をプローベしていたときのこと、半音低く演奏した。それがわかったのは、チェロ奏者たちが三和音に似た主要主題を弾き出し、明るい高音に移ったときだった。

クリップスは泣き声で自分のミスをくどくどと弁解しはじめた。この勝利は正当なものだったが、これがなんども繰り返されることになる。たとえば、シューベルトの≪未完成≫交響曲の第一楽章の出だしは、コントラバスとチェロだけではじまる。この楽器の奏者たちはたがいにこの箇所を半音高く演奏しようと陰謀を企てた。それに気づかないヴァイオリン奏者が、楽譜通りに入ってきたとたん、一瞬ひどい耳障りな音になった。怒ったクリップスはヴァイオリン奏者たちの間違いを注意した。彼らはちゃんと楽譜通りに弾いていますと抗議する。しばらく考えたあと、彼はその張本人たちはだれかに気づいてひどく傷ついた。そして休憩時間に彼らをきびしく叱責した。

指揮者に腹を立てたとき、正面衝突するのではなく、こうした方法を取ることに、文化を感じます。抗議するのも楽しんでいるのですね。私はオーケストラで弾くのが嫌いなので、こうした悪戯をする機会はなさそうですが、一回やってみたい気もします。指揮者にしてみたら、最高にキツイでしょうね。

本書は、最初から最後までこうした逸話で構成されています。読みやすいですし、是非お薦めです。

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今どこ?

By , 2008年3月15日 11:31 PM

今、クラシカという音楽チャンネルを見ています。丁度登場するのは、ヴァイオリニストのヴェンゲーロフ。ヴェンゲーロフが演奏するのは、「パガニーニの主題による狂詩曲 (ラフマニノフ/クライスラー)」他です。

、「パガニーニの主題による狂詩曲 (ラフマニノフ/クライスラー)」について、ヴェンゲーロフが舞台上でユーモラスに紹介しています。だいたいの内容は下記。

クライスラーとラフマニノフが、カーネギーホールでこの曲を弾いた。

リハーサルなしで、ぶっつけ本番。でも、クライスラーは何処を弾いているかわからなくなって、

「今どこだ?」

とラフマニノフに聞いたんだ。するとラフマニノフは

「カーネギーホール」

思わず吹いてしまいました。

ヴェンゲーロフの演奏を、私は大好きです。直感的に音楽のエッセンスを抽出してくれて、テクニックも申し分ありません。ただ、古典派の音楽については、自己主張が強すぎてあまり好みではありませんが、ロマンは以降の演奏ではその独特な演奏姿勢と相まって、パガニーニに見えることすらあります。

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替え指

By , 2008年3月12日 5:43 PM

3月9日に、大学時代の部活の OBの先生の家に遊びに行きました。

先輩は、私の 7学年上、一緒に付いてきた後輩は、私の 8学年下と、13学年下。年の差飲み会となりました。こうして世代に跨って遊べるのは、喜びです。

先輩は、医者になって最初に買ったものがチェンバロ。芸大の先生から、「何で芸大に来なかったの?」と聞かれたくらい上手です。バッハのチェンバロ曲を色々聴かせてくれます。

先輩の家の「日本酒専用」冷蔵庫の中から、次々と酒を振る舞われ、酔っぱらって、音楽談義になりました。

先輩は昔、ピアノを弾いていたそうなのですが、バッハの音楽に対して余り考えることはなかったそうです。

ご存じの通り、バッハが得意とした対位法という作曲手法では多くの声部を同時に扱いますので、片手だけで2つの旋律を同時に弾かなくてはいけないことがあります。そうすると指が足りなくなりますが、ピアノの場合、ペダルを踏めば音が連続しますので、一旦指を離して弾き直しても、音をつなげることが可能です。

ところが、チェンバロにはペダルがないので、指を離すと音が切れてしまうのです。音が切れると旋律が途切れます(切れたまま知らん顔で演奏している演奏家もいるらしい)。そこで登場するテクニックが替え指です。

例えば、右手である旋律を弾いている場合を考えます。親指でドの音を弾いている時、親指を押さえたまま同じ音を人差し指で押さえて、親指を離します。そうすとドの音は鳴ったままで、親指がフリーになるので、親指でシの音を押させる事が出来るという寸法です。

バッハのフーガだと、このテクニックのオンパレードなのだそうです。実際に見せて頂きましたが、本当にアクロバティックです。でも、そうしたテクニックで、旋律が途切れず、各声部が流れるのです。ピアノではなかなか味わえないチェンバロのテクニックで、感動しました。

その他、チューニングの話にもなりました。チェンバロは、自分で毎回チューニングしないといけなくて、調律法も勉強しないといけないのです。

我々が現在使う調律は A=440~445Hzくらいの音程ですが、バロック時代には、A=390-415Hz前後と低い音程で調律されていたことは有名です。実際に古楽器のCD演奏を聴くと、非常に低いピッチで演奏されています。でも、先輩から聴いて、A=460Hzというとんでもなく高いピッチ、コーアトーンというのがその時代の調律にあることを初めて知りました。

飲んで、楽器を片手に音楽談義なんて、最高の贅沢です。先輩と今度また合奏することになりました。

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Piano cat

By , 2008年3月10日 7:44 AM

Inside Editionという番組で、ピアノを弾く猫の特集がされていて、Youtubeに upされていました。

・Nora on Inside Edition

Youtubeで、「Nora」という Keywordを入れて検索すると、他にもたくさんの movieが hitします。下記の movieなど、現代曲として紹介されたら、「ありかも」と思ってしまいます。

・”NORA: Practice Makes Purr-fect” – Check the sequel too.

眺めていて、猫の演奏姿はかわいいものです。猫も気持ちよさそうに弾いています。

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旦那

By , 2008年2月9日 4:07 PM

APAというアンサンブル団体から、「2月 17日の総会に、Vn東響コンマス大谷康子さん、N響フォアシュピーラー齋藤真知亜さんを招いて弦楽合奏をするのですが、ヴァイオリンが 2プルート (4人) しかいません」というメールが届いたので、合奏に出演することになりました。「A. ARENSKY」作曲の「チャイコフスキーの主題による変奏曲Op.35a」という曲です。音源を聴いて、余りにも綺麗で感動しました。主題は、ショスタコーヴィチの「2つのヴァイオリンと通奏低音のためのソナタ ヘ長調」に似ています。曲自体は技術的に、それほど難しくないのですが、合わせるのにテクニックが必要でしょうね。

そんな中、Webで大谷康子氏のことを調べておりましたら、旦那様が医師なのだとか。サイトも運営しておられるようで、早速覗いてきました。

Dr. ブンブンの休憩室

コラムが非常に面白いです。是非御覧下さい。

 

 

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D. C. Dounis

By , 2008年1月23日 10:21 PM

D. C. Dounisという名前を聞いたことがありますか?

あったとしたら、相当なマニアですね。ヴァイオリンの上級者向けテクニックの本を書いている方です。しかも医師です。

Demetrius_Constantine_Dounis

Demetrius Constantine Dounis (1886 – 1954) was an influential teacher of violin and string instrument technique. A trained physician, Dounis focused his early medical career on treating professional musicians from the world’s major symphonies. He would work with a musician for at least six months, observing the musician’s technique, asking questions, and devising new exercises to indirectly address the problem.

Dounis also wrote several instructional books. In his 1921 volume The Artist’s Technique of Violin Playing, Dounis emphasized the importance of shifting and finger exercises. These were to develop the musician’s mental map at the beginning of practice, after which scale drills would be more effective.

Dounis’ first name is variously spelled Demetrios or Demetrius.

昔、ヴァイオリンの師と、「医師兼音楽家」の話題となり、「お医者さんでヴァイオリンの教本書いた人いたわね。」と教えて頂いたのが最初です。

早速、彼の「The Artist’s technique of Violin Playing」を買って練習してみたのですが、メカニックな練習が延々とあり、すぐに飽きて挫折しました。ただ、非常に合理的で、意図はわかりやすいと思います。根気さえあれば、ある程度の効果は期待できるでしょう。ただ、内容はかーなり難しいですよ。パガニーニのカプリスさらうより大変かもしれません。

最近、彼の事を調べていて、「The Dounis collection」という本もあるのを知り、amazonで購入しました。ところが、本の最初は以前買った本と一緒。

実は、最初に買った本は、作品番号12を収録したもので、後から買った方は、作品番号12, 15, 16, 18, 20, 21, 27, 28, 29, 30が収録されているのです。購入するなら後者ですな。

最後に、「The Dounis collection」の序文を引用します。ウィーン大学医学部卒業であることはわかりますが、医師としての業績は書かれていませんでした。医学部卒業後はヴァイオリニスト、ヴァイオリン教育者として活動されていたようで、そちらの業績はかなりのものと思います。

Demetrius Constantine Dounis (1886-1954) was one of the most prominent violin pedagogues of the twentieth century. He studied violin privately in Vienna with Frantisek Ondricek, a much-sought-after teacher who no doubt impressed Dounis with significance of pedagogy, and simultaneously enrolled as a medical student at the University of Vienna. Following his graduation, he made several tours as a violinist in Europe and Russia. After World War I, he was appointed professor of violin a the Salonika Conservatory in Greece, and it was at this time that he devoted much of his energy to violin pedagogy and publication of pedagogical treatises. He then settled in England and, facing the threat of World War II, relocated to the United States, first New York City, then Los Angeles, where he died soon afterwards. (“The Dounis collection” より)

 

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訃報

By , 2008年1月22日 10:08 PM

今日、ヴァイオリニストの江藤俊哉氏が亡くなられました。

今、手元の「The Art of Toshiya Eto」という 4枚組の CDを聴いています。自分の解釈を説得力を持って演奏出来るのって、良いですよね。独りよがりの演奏なら簡単ですが、必然性があり、説得力を生み出せるのが凄いと思います。久しぶりに震えています。CDの半分以上の曲は、私が演奏経験がある曲。聴きながら、演奏している気分になります。

 バイオリニストで元桐朋学園大学長の江藤俊哉さん死去
2008年01月22日12時13分

戦後日本を代表するバイオリニストで、教育者として多くの演奏家を育てた元桐朋学園大学長の江藤俊哉(えとう・としや)さんが22日午前6時36分、肺炎による心不全で死去した。80歳だった。葬儀は近親者のみで行う。後日お別れの会を開く予定。

東京都出身。4歳から早期音楽教育「スズキ・メソード」で知られる故鈴木鎮一氏のもとで学び、12歳で音楽コンクール(現日本音楽コンクール)で優勝した。

東京音楽学校(現東京芸大)卒業後に渡米。カーチス音楽学校で名教育者としても知られるジンバリストに学び、24歳でニューヨークのカーネギーホールでデビュー。日本人離れした大胆な弓使いと深みのある音色で世界に認められた。

演奏活動の傍ら、桐朋学園大や上野学園大で堀米ゆず子さん、矢部達哉さん、諏訪内晶子さんらを育てた。エリザベート国際コンクールなど海外コンクールの審査員も歴任。71年にモービル音楽賞、79年に日本芸術院賞、00年に渡辺暁雄音楽賞特別賞を受賞。97年から04年まで桐朋学園大の学長を務めた。

指揮者、ビオラ奏者としても活躍。音楽家の地位向上を求める社会的発言も多かった。「違いがわかる」というインスタントコーヒーのテレビCMに出演、茶の間でも知られていた。

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