徹夜での救急当直明けに、学生時代の部活に遊びに行ってきました。演奏を聴きながら寝てしまったけど、良かったです。本番は是非この勢いで頑張って欲しいものです。
先日YAMAHAで買い物した後、手紙を頂いて、そこに記されていたURLから、長峰さんのCDが購入できました。長峰さんは、N響のヴァイオリン奏者ですが、私の叔父と室内楽をしていたことがあり、私の実家に遊びに来たことがあります。「ストリング」誌の連載は私の大好きな読み物の一つです。
今日、早速CDが届きましたが、非常に私好みの演奏です。興味のある方は、是非購入してみてください。特にお薦めはフランクのヴァイオリンソナタで、涙が出るような名演です。
ベートーヴェンの全集を聴き始めましたが、最初は交響曲。もう少し深く勉強したいと思い、池袋のYAMAHAにスコアを買いに行きました。スコア売場をさまよっていると、「ヴァイオリン協奏曲のファクシミリ (=自筆譜のコピー) あります」との表示を見つけました。さっそく店員さんに声をかけると、見本を見せてくれました。
ベートーヴェンの筆跡が「私を買って?」と訴えかけてきました。値段は120000円。製本が非常に悪く、各ページ毎に微妙に紙の大きさが違い、本は崩壊しそうです。でも、限定10セット・・・。
しばし悩みましたが、「Es muss sein!」と決断。「買います。」とお姉さんに伝えました。ついでにベーレンライター版の交響曲スコアも購入。
お姉さんに、「カルテットのファクシミリもありますか?」と聞いたところ、「わかりませんが、交響曲ならあります。」とのこと。1曲10万円弱としても、交響曲9曲で・・・。「今度来たときに考えます」と答えて店を後にしました。
そして、昨日宅急便で楽譜が届きました。中にはお姉さんから手書きの手紙が・・・。いろいろ相談したCDの情報とかが同封されていました。
働けど、働けど、貯金が貯まらないのはこういった事情があるからです。郡山の病院で一緒に働いていたK先生の婚約者(夫)から、「結婚はかかるから、今は金のために働いているよ。」と聞きました。私の場合、結婚資金は当分たまりそうにありません。ま、その前に相手でしょうが。
さて、久しぶりに音楽の話題です。「ベートーヴェン(ジャン・ヴィトルト著)」の作品目録を見ると、ベートーヴェンがピアノソナタと弦楽四重奏曲を生涯を通じて書き続けたことがわかります(一方ヴァイオリンソナタはある時期以降書かなくなりました)。これらを聴いていくと、年齢と共に、徐々に彼の作曲の方向性が内面に向いていくのがわかります。
前回のドイツ旅行で、ボンのベートーヴェンハウスに行ったときに、ベートーヴェンの最後の弦楽四重奏曲(第16番)の最終楽章の自筆譜が展示されていました。
その冒頭には「Der schwer gefasste Entschluss (ようやくついた決心)」と書かれ、その右に二つの小さなスケッチがありました。一つは1小節のスケッチで、下に「Muss es sein?(=Must it be?=そうあらねばならぬのか?)」とあり、その右には4小節のスケッチの下に「Es must sein!(そうあらねばならぬ)」と書かれていました。
これは何を意味しているのでしょうか?上記のヴィトルトの本では、ベートーヴェンの手紙を引用して、説明していました。その手紙の内容は以下の通りです。
ごらんのとおりです。なんと私は不幸な人間でしょう!この弦楽四重奏曲を書くのが困難だったからというのではなく、私の考えていたものが何かもっと違った、もっと偉大なものであったのに、これしか書けなかったからです。その原因は、私があなたにそれを約束していたこと、そして私に金が必要だったこと、しかるにこれらのことが全部私にこのうえなく苦しく迫ってきたこと、にあります。以上が『Es muss sein』という言葉のもとにご理解願わねばならぬことなのです。
イマイチ良くわからないなぁ・・・と思っていたら、11月号の「String」という雑誌に面白いことが載っていました。
ホルツは、ベートーヴェンが、デンプシャーが先日のシュパンツィヒ弦楽四重奏団による音楽会に後援してくれなかったから、もう今後どんな曲も書かないといっていると話し、もし仲をとりもつとするならば、我々のクァルテットに50フローリン寄付してくださいと言った。するとデンプシャーは、どうしても必要ですか(Muss es sein?)と聞いたらしい。この日の出来事をあとでベートーヴェンに伝えると、ベートーヴェンは大いに笑って、そう、どうしても必要だ、と言いながら、即興で、『Muss es sein?』に曲を付けたという。このような冗談から作られた曲が、作品≪135≫のフィナーレに使われることとなったのである。すなわちお金の請求が、ベートーヴェンの最後の四重奏曲のテーマとなったわけだ。
この非常に曖昧な語句に振り回されましたが、結局は笑ってしまうような些細なエピソードが原因だったのですね。
7月29日は、運動障害研究会で発表した後、部活のOB合宿のため、新幹線で軽井沢へ。軽井沢駅から先は、御代田駅まで電車の予定でしたが、電車が1時間なかったため、タクシーで「コテージ ニュー吉田」へ向かいました。タクシーの運転手が御代田出身とのことで、いろいろと案内してくれました。今や裏通りと化した中山道を走ってくれたことも、良い思い出になりました。
コテージに着くとすぐにバーベキュー。ベロンベロンに酔っぱらって、ヴァイオリンの師の前で、メタメタの演奏をしました。早朝ヴァイオリンの先生は帰りましたが、残った部活の先輩・後輩、N響第一ヴァイオリン、第二ヴァイオリンの方達と合奏を楽しみました。最終的に、チェリストがいた方がもっと盛り上がることが明らかになり、来年は元N響チェリストが参加することが決定しました。これも、先輩がN響のヴァイオリニストの方と結婚したこと、大学の部活に芸大生が以前よく遊びに来ていたことなどから広がった話です。
演奏家の方々といろいろ話してみて、非常に大変な仕事だと思いましたし、皆さんとても真摯に音楽と向き合っていることを実感しました。N響のヴァイオリニストの方に、「この演奏家はすごい」という人がいるかと聞いたところ、F.P.ツィンマーマンの名前が挙げられました。その他にも、N響の方が共演しながら涙が出るくらい感動した歌手の話を教えて頂きました。
軽井沢の後は、東京に寄って不動産屋へ行き、東京での住処を練馬の新築物件に決定しました。9階の部屋ですが、新宿まで遮るもののない夜景が非常に綺麗です。一ヶ月後の誕生日は、東京かドイツどちらかで迎えることになりそうです。
仕事が終わって、ワインを買って帰り、初戦のオーストラリア戦を見ていました。
戦前に散々盛り上がり、初戦は勝って・・・という事前の予想(大部分の報道)と異なり、惨敗でした。何でもあるのがスポーツの試合。こういうシナリオも予想していましたが、少しは現実が見えた人も多いでしょう。もちろん私も日本を応援していますが、余りに現実味のない報道には辟易していました。
酔っぱらいついでに、「String (1997年2月号)」という雑誌から。
今や、ストラディバリウスをも凌ぐ人気を誇る、バルトロメオ・ジュゼッペ・グァルネリ、通称デル・ジェスのお話(中略)。今思えば、大変もったいないことですが、彼の作品には、ずいぶんおかしなものがあって、ネックがねじれているものや、左右が非対称なものや、f字孔の大きさの違ったもの等々があります。これらは『ドランク・デル・ジェス』と言われるもので、彼が酒を飲みながら作ったものだろうと推定されているものです。また、『プリズン・デル・ジェス』と呼ばれているものも残されていますが、これは獄中で暇つぶしに作ったものだろうと言われています
恐るべき酔っぱらいです。そのコラムのタイトルは、『アー・ユー・ドランク?』『イエス・アイ・アム』でした。
最近は、「ブラームスの音符たち (池辺晋一郎著、音楽の友社)」という本を読んでいます。ブラームスは、近代外科学の父「ビルロート」の親友であったことも有名です。医師として少し親近感がわきます。
彼は「髭のあるブラームスと髭のないブラームス」という例えどおり、堅苦しいアカデミックな雰囲気の曲と同時に、聴きやすい曲も多く作曲しています。バッハからブラームスくらいまでの時代の曲は、表面上とても心地良く聞こえるように書いてありながら、曲の中にさまざまな工夫、トリックを見ることが出来ます。バッハ以前の音楽は、曲の構造としてはやや単純で、ブラームス以降は例外はあるものの、すこし取っ付きにくい作曲家が多い印象があります。論文を書くときは、だいたいバッハの無伴奏ヴァイオリンのためのソナタかベートーヴェンの弦楽四重奏曲を聴きながらで、心が落ち着きます。
音楽について勉強して、ある程度曲の構造が見えるようになると、建築物を見るような「構造美」を知ることが出来、新しい感動があります。井福部昭はピカソの言葉を引用して、「鳥の声は聞いているだけで心地良い。音楽もそれで良いではないか」と述べていますが、確かにそうではありながら、人によっては、より知的好奇心を満たす鑑賞の仕方もあると思うのです。そもそも、井福部昭氏が、音楽を深く知った上で鑑賞していた人なのですから。
モーツァルトのCD全集は、ようやくオペラを残して全部聴きました。今は、オペラを聴いていますが、本当は解説本を読みながら聴きたいところです。車での通勤途中に聴いているので難しいところですが、いずれまた聴きなおしたいと思っています。結構、いろいろな曲が気づかないように使いまわされていたり、他の作曲家の曲と似ている部分があったり、聴いていて飽きません。
話は変わりますが、実家の近くから、狂牛病の牛が見つかって少し驚いています。
(参考)http://www.mhlw.go.jp/houdou/2006/04/h0419-2.html
昨日、いわき市に楽器の練習に行ってきました。驚くべきは、いわき市にある、音楽館という施設です。ピアノとの合わせの場所がなかったため探していて見つけた施設なのですが、音楽愛好家にはたまりません。税金の無駄遣いという指摘を受けかねない施設ですが、芸術というのは、他の何かを我慢しても守るべき人間の財産だという思いを強くしました。
最近の天気ですが、郡山は雪はたいしたことがないものの、風が非常に強く、停車中の車が風で揺れます。また、歩いていてなかなか前に進めない人も見かけます。少なくとも、台風が来たとき以上に風が強く感じます。一方、猪苗代に行くと、車の高さを超える雪が、道の両側に積もっていて、異世界に来たかのようです。
1月27日はモーツァルト生誕250周年だったということで、ここで触れぬ訳にはいきません。現在、モーツァルトの全集を聴いていますが、全く心地よいものです。それほど知られていない曲にも、それなりの魅力があります。
シモン・ゴールドベルグは、「ベートーヴェンの音楽はしばしば天国に到達するが、モーツァルトは天から時々我々のところに降りてくるように感じる」と述べていますが、全く同感です。ベートーヴェンの音楽は、葛藤の末にある高揚感が魅力で、そのための方法論としての音楽形式(特にソナタ形式)を完成させましたが、モーツァルトはそのような方法論は必要最低限として、自分の音楽を確立させたと思います(後々検討してみるに、最低限としてでなく、かなり先進的です)。もちろん、モーツァルトもそのような方法論を身につけるために非常に努力した跡が、曲からわかります。
250周年とはいっても、モーツァルトの音楽自体が変わるわけでなく、単なるmemorial yearにしかすぎないのですが、2年前にザルツブルグ音楽祭に行ったとき、既に人々の興味が今年の250周年に向いていたことを覚えています。
数日前に磐梯山に雪が降り、その麓では紅葉が非常に綺麗です。
Bach大全集を聴いた後、何を聴こうかと思っていましたが、たまたま近くのCD屋でMozart大全集(170枚組)を発見し、聴き始めています。現在は交響曲を聴いているのですが、ほとんどが典型的なソナタ形式でかかれており、形式を勉強する上でも良いですね。そういえば、門馬直衛著の「音楽形式」(音楽之友社)はお勧めです。門馬直衛さんは、門馬直美さんの父で、和声の知識は最低限で読めるようになっています。ソナタ形式について多少知ると、鑑賞の喜びが倍増します。
今月は、論文の締め切りが2本あり、そのほかの私用も多いので、なかなか忙しい月になりそうです。幸い、毎朝5時に目覚める生活習慣となってきたので、CDを聴きながら頑張ります。
最近、非常に冷え込んできて、吐く息が白くなってきたので、車の温度計で見てみると、外気温6度でした。郡山の厳しい冬が近づいていると感じました。
今日、数ヶ月前から聴いていたBachの全集を聴き終えました。全160枚組と、なかなかなのボリュームでした。「Brilliant classics」というレーベルでしたが、演奏はなかなかでした。その他、バッハの全集としては、「hanssler edition」「teldec」と書かれたものを持っており、枚数もそれぞれ150枚前後とかなりの枚数で、全部聴こうと思うととても時間がかかりそうです。いずれ聴いていこうかと思います。「Rubinstein」の96枚組全集と、どちらから聴いていくか考えたいと思います。
バッハをずっと聴き続けることで、いろいろなことが見えてきました。特に参考になったのは、無伴奏ヴァイオリンのためのソナタ、パルティータが様々な楽器に編曲されていたことで、違う楽器で演奏されて初めて気付かされることがありました。自分の演奏に反映されると良いのですが・・・。