Category: 音楽

ガストン・プーレとドビュッシー

By , 2008年8月6日 9:38 PM

ヴァイオリンの名教師として、古くはレオポルド・アウアージョルジュ・エネスコイヴァン・ガラミアン、その後ヘルマン・クレッバースドロシー・ディレイザハール・ブロン・・・など。それぞれ一流の演奏家を多く育て、名声を得ました。

String誌の 2008年 8月号に、ジェラール・プーレ氏のインタビューがされていました。プーレ氏は、これまで何度か紹介してきた佐藤俊介氏の師匠です。やはりヴァイオリンの名教師として知られています。フランチェスカッティメニューインミルシタインシェリングらの薫陶を受けています。

そのプーレ氏、実は父のガストン・プーレがドビュッシーと親交があったようなのです。

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お気に入りの主題

By , 2008年7月31日 7:38 AM

これまで、バッハ、モーツァルトの全集を聴いてきて、「使い回し」のように、同じ旋律を他の曲に使用することが如何に多いか感じていました。旋律そのものより、旋律をどう扱うのかに重点を置いていたからでしょうか。

バッハの場合は、毎週日曜日のミサまでに曲を完成させないといけませんでしたから、やむをえずといった事情があったのではないでしょうか?それだけではないでしょうが。

モーツァルトの場合は、主題の扱い方を変えることを楽しんでいたように思えます。変奏曲の得意なモーツァルトらしく、主題を色々なシチュエーションでいじくり回すことに興味を覚えたのではないでしょうか?

今、ベートーヴェンの全集を聴いています。そこに「プロメテウスの創造物」の主題を用いたピアノ曲がありました。曲名は長いのですが、「<プロメテウスの創造物>の主題による15の変奏曲とフーガ 変ホ長調 op.35 <エロイカ変奏曲>」といいます。

この主題、ベートーヴェンが気に入って、何回も使い回したものです。CDの解説書から一部引用します。

CD解説書より

この曲の主題は最初オーケストラのための<12のコントルダンス>WoO 14第7番に用いられ、次いでバレエ音楽<プロメテウスの創造物>作品 43のフィナーレに転用され、その次にこの変奏曲、最後に交響曲第3番<英雄>のフィナーレへと何度も使われた。

この曲は作品 34の変奏曲と同時に書かれた姉妹作であるが、作品 34とは違った手法が見られる。テーマの前に序奏を置き、主題の低音の持つ可能性を示す手法はバロック時代のパッサカリアを思わせるもので、しかも 2声、3声、4声と進められたのちに「テーマ」が現れるという個性的な作り方。曲想も作品 34に比べて雄大華麗であり、ベートーヴェンの変ホ長調作品に共通した明るさ、力強さ、英雄的な音楽性を感じさせるものである。

最後に、YouTubeから、「<プロメテウスの創造物>の主題による 15の変奏曲とフーガ 変ホ長調 op.35 <エロイカ変奏曲>」を紹介しておきます。交響曲第 3番「エロイカ」と聴き比べて、ご堪能ください。 まぁ、ベートーヴェンは他にも、交響曲第 9番の最終楽章の主題に、弦楽四重奏曲第 15番の最終楽章の主題を当初流用していたりと、いろいろあるようですが。

Glenn Gould – Beethoven 15 Variations and Fugue Op 35 (1/3)

Glenn Gould – Beethoven 15 Variations and Fugue Op 35 (2/3)

Glenn Gould – Beethoven 15 Variations and Fugue Op 35 (3/3)

Beethoven – Symphony No.3 E-flat major, Op.55 “Eroica” / Jordi Savall

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軽井沢

By , 2008年7月27日 8:00 PM

昨日は、昼くらいにピアニストとの合わせがありました。発表会本番まで後 1週間です。いくつか課題を指摘されたので、修正が必要です。これまでは、一人で練習してきたのですが、ピアニストが入ると全然雰囲気が変わりますね。

そのまま、毎年恒例の OB合宿に直行。軽井沢まで行ってきました。いつも OBの方が子供を連れてくるのですが、年々成長する様子が窺えます。

最寄りの御代田駅までコテージの管理人が迎えにきてくれました。管理人は、原油の高騰を嘆いており、出来るだけ車には乗らないようにしていることをユーモアたっぷりにおっしゃっていました。「ガソリンが燃やせないから、自分の脂燃やすことにしたんだけど、こっちは使っても使っても減らないのよね」

コテージでは恒例のバーベキュー。雷が鳴っていたのですが、屋根があるので大丈夫です。今年は、他の客がいなかったので、時間も延長して貰えて、さんざん飲みました。それから、部屋に移動して、飲み直し。まず「葡萄交響曲 作品201」を飲みました。これはクラシック音楽を聴かせて作ったワインらしいのですが、おいしかったです。何の曲を聴かせたのかが気になるところです。ワインの次は、先輩が持ってきた焼酎「中々」を飲みました。

色々語り合ったのですが、この御時世なので、やっぱり医療崩壊関係の話題が多かったです。科や環境が違う医師が集まって話をしているので、新鮮でした。

「T大学の小児科外来で親が 2時間クレームをつけた事件があり、それ以来警察 OBが立ち会いで救急医療をしている」
「東京の某大学は、内科全科合わせてで研修医が 10人しか集まらなかった」
「会津地方の医師不足は深刻。福島県と新潟県の県境にある人口 7000人の町は、元々医者が二人しかいなくて、一人は引退。残った一人が病気になって無医地区となってしまった。」
「区の政策で、小児の医療費をタダにしたら、『タダなんだから時間外の方がすいていて良い』と、夜間に患者が殺到しているのが現状(時間外料金も助成されるため)。で、小児科医が足りないから内科の開業医が呼び出されて、小児科当直をやっている。」
「白内障手術の眼内レンズで、遠近両用というのがある。遠視用と近視用のレンズがそれぞれ円を描くように配置されている構造。ただ、保険が効かないので 70万円くらいが相場。東京だと結構需要がある。」
「N響では女性は出産しないのが、何となく不文律になっており、先輩の奥さんが出産したのが 20年以上ぶり。でも、何とか配慮して貰ってやっている。その後、3人くらい結婚して、出産を考えている後輩も増えてきた。」

みんなが眠った後、飲み足りなかったので、外に出て友人に電話しながら、一人で飲んでいたら、潰れて、そのまま外で寝てしまいました。途中で目が覚めて、部屋の中に戻りましたが、翌日地面に携帯電話とビールが落ちているのを管理人が見つけ、回収してくださいました。ちょっと不審がられてしまいましたね。

今朝は、二日酔いながら、楽器を演奏して遊びました。子供たちから、「ポニョを弾いて」と言われて即興で弾いたり、Bachの二声のためのインベンションを編曲したものを弾いたりしていました。久々の合奏は楽しかったですね。

昼は、NOROというレストランに寄って帰りました。なかなか雰囲気の良いレストランでしたよ。

来年は、奥さんを連れてくるように先輩から言われたのですが、結婚に関しては、今のところ、予兆すらありません。

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レッスン

By , 2008年7月20日 11:21 AM

昨日、久々にヴァイオリンのレッスンに行ってきました。

モーツァルトのヴァイオリンソナタK.304を見て頂きました。この曲は、YouTubeでも演奏がアップされていますね。

Mozart Violin Piano Sonata in E minor K.304 – 1st Movement

Mozart Violin Piano Sonata in E minor K.304 – 2nd Movement

YouTubeでの、この演奏は、音は綺麗ですけど、様式感にやや欠ける感じがします。ザハール・ブロン氏は、この曲について「ギャラント様式」という句を連呼し私も同感なのですが、この演奏では特に2楽章でちょっとベタッとしている印象を受けます。ちなみに「ギャラント様式」について、辞書的な意味を記載しておきます。

 「ギャラント」という語は、18世紀のヨーロッパにおいて、「優雅で洗練された」という意味で広く用いられた。音楽史では、厳格な対位法様式に対して、自由でホモフォニックな様式をさす。2-3声部の簡素なテクスチュア、装飾された上声部の優位、周期的な楽句構造、簡潔な和声、不協和音の自由な扱いなどを特徴とし、前古典派の音楽はこの様式に含まれる。F・クープランに代表される18世紀前半のフランス音楽のみをさし、ロココ音楽と同義に用いられる場合もある。(「新編 音楽中辞典(音楽之友社)」より引用)

私の前にレッスンを受けた方は、芸大生だったのですが、リスト音楽院に受かったそうです。先生から受験の話を聞きました。リスト音楽院の受験で大変だったのは、各科の試験問題が共通であることらしいのです。例えば、東京芸大だと「声楽科」と「器楽科」で問題が違うらしいのですが、リスト音楽院では共通。従って、ヴァイオリンで受験しても、声楽曲が出題され、「オラトリオはどれか?」などと問われるらしいのです。宗教曲が非常に多く出題され、日本人には大変だったと聞きました。また、和声の記載法が異なり、記載法を知らないと問題が解けないと聞きました。日本では、和声をⅠとかⅤとか記載しますが、向こうではギリシャ数字のみなので、国際化の流れに乗って、最近では芸大でも両方の記載法を併記するようになっているようです。 さて、昨日のレッスン。私はザハール・ブロンのレッスンのDVDで予習して練習していったのですが、レッスンではアプローチの仕方が違って、面白かったです。私の先生は、和声学を専門にしており、そのようなアプローチからのレッスンでした。和声の面から見ていくと、それだけで弾き方が決定するところがあり、そうしたところを外すと音楽的に非常におかしく聞こえるので要注意です。レッスン後は、「本当に音楽的に弾いているわよね」と褒めて頂きました。

更に、お薦めの演奏家を教えて頂きました。芸大の浦川宜也教授が退官コンサートの伴奏に、20歳代の演奏家を起用したらしいのです。そんな大切なコンサートに、何故その演奏家を起用したのかみんな訝しんでいたのですが、聴いてみたら素晴らしかったと。そのピアニストは鈴木慎崇さんとおっしゃるそうです。今後、売れてくるかもしれません。注目したいと思います。

で、お知らせです。8月3日(日)に、サロン・ド・パッサージュで発表会があり、私も出演します。曲は上述のモーツァルト。 今回は、テクニック的にはリスクの少ない曲ですので、友人を誘おうと思っています。興味のある方は聴きに来てください。時間は追って連絡致します。

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Stephane Grappelli

By , 2008年7月19日 11:36 AM

グラッペリというジャズヴァイオリニストの演奏する動画が、YouTubeで見られます。晩年の演奏と思われますが、全く衰えているところがありません。無駄のない洗練された動作に、甘い音。ご堪能ください。

Stephane Grappelli Plays “How High The Moon”

Blue Moon – Stephane Grappelli
 

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ザハール・ブロンのレッスン2

By , 2008年4月27日 12:00 AM

4月5日に紹介したザハール・ブロンのレッスン。同じシリーズで「ザハール・ブロンのレッスン ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト (AMA VERLAG GmbH 企画制作、ヤマハミュージックメディア販売)」を見ました。私も良く弾いたり聴いたりする曲ですので、興味深く見ました。扱われているのは、モーツァルト ヴァイオリンとピアノのためのソナタ ホ短調 KV 304です。

最初に行われた生徒の演奏は、音が綺麗ですし、特におかしなことはやっていないと思ったのですが、少しせわしなさを感じました。

実際にレッスンに入ると、ブロン氏によって、如何にモーツァルトが難しいかが語られました。シンプルであることの難しさです。

生徒の演奏はフレージングが未熟であり、ブロン氏によって「メロディーの切断である」と批評され逐一直されていきます。弓の使い方がメロディーの演奏に大きな意味を持っていますが、ヴィブラートもしつこく注意されていました。ヴィブラートは TPOが大切です。

私が感じた「せわしなさ」については、「直線的に進んでいます」「君は急ぎすぎているんです」という言葉で注意されていました。

2楽章では、ギャラント様式という言葉が多用されます。ギャラント様式というのは、Wikipediaによると「多くの点でバロック様式のけばけばしさへの反撥であり、バロック音楽にくらべると、より素朴で、ごてごてと飾り立てておらず、流麗な主旋律の重視に伴い、モノフォニックなテクスチュアと、楽節構造の軽減や和声法の抑制 (トニカとドミナントの殊更な強調)、バス声部 (通奏低音)の軽視といった特徴がある」というものです。言われてみると、モーツァルトのソナタはその通りですね。ブロン氏によると、この曲はギャラント様式の中に豊かな感情や心情が入り、最後に哀しみが表現されるという解釈です。

その他に面白かったのが、音の「中膨らみ」が注意されているシーンです。音の「中膨らみ」が、ゴールドベルクによるストリング誌での誌上レッスンでしばしば注意されていたのを思い出しました。弦楽器奏者が陥りやすい音楽的な過ちの一つです。今回は、「中膨らみ」が一つの音についてでなく、一つのフレーズについて指摘されていたのが新鮮でした。

このレッスンに刺激を受け、私のモーツァルトの演奏も少し変わるかも知れません。

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George Enescu

By , 2008年4月13日 9:45 PM

ヴァイオリン音楽好きなら、「ジョルジュ・エネスコ」というヴァイオリニストの名前を聞いたことがあるかも知れません。ヴァイオリンの巨匠の1人として知られています。

最近、「ジョルジェ・エネスク-写真でたどるその生涯と作品-(ヴィオレル・コズマ著、竹内祥子編訳、ペトレ・ストイヤン監修、ショパン出版)」という本を読みました。ルーマニア人ですので、発音が難しく、本書では「ジョルジェ・エネスク」と記載されています。

エネスクは 1881年 8月 7日 (19日説もあり) にルーマニアのドロホイ県、(現ボトシャニ県) リヴェニ・ヴルナヴに生まれました。父のコスタケ・エネスクはテノールの歌手であり、ヴァイオリンも演奏しましたが、農業をおもな生業としていました。母のマリア・コズモヴィチ・エネスクは、ギターやピアノを演奏していましたが、プロの演奏家ではありませんでした。医学の未熟な時代であり、マリア・コズモヴィチ・エネスクの子供のうち、4人が死産で、7人が 12歳以下で死亡し、末子のジョルジェのみが生き延びることができました。

コスタケ宅は音楽サロンでもあり、子供の教育のために音楽家を雇ったりしました。ヤシからやってきたエドゥアルド・カウデッラは 1886年と 1887年の 2回ジョルジェに会い、ウィーンで学習することを勧めました。それを受け、1888年に 7歳のジョルジェ・エネスクはウィーン学友協会の音楽院を訪れます。しかし、当時、規則で 10歳未満の子供の器楽コースへの入学は認められていませんでした。それにも関わらず、ジョルジェ・エネスクは特例として入学が認められました。そのすぐ前にも特例として認められた人物がおり、それが有名なフリッツ・クライスラーです。

小児期には、小さいサイズのヴァイオリンで練習するものですが、エネスクはやがてフルサイズのヴァイオリンを演奏するようになり、「サン・セラフィーノ、ウィネーゼの製作者、1663年」と署名の入ったヴァイオリンを持つようになりました。エネスクの教師は、ルードヴィヒ・エルンスト (ピアノ)、ロベルト・フックス (和声、対位法、作曲)、アドルフ・プロスニッツ (音楽史)、ヨーゼフ・ヘルメスベルガー二世 (室内楽)、フェステンベルガー (合唱)などでした。

エネスクは 11歳でメンデルスゾーンのヴァイオリン協奏曲ホ短調をソリストとしてウィーンで演奏し、成功を収めました。そこへ、シュヴェリン劇場専属オーケストラが 11歳のエネスクにコンサートマスターとして雇いたいと接触してきたのです。実現はしませんでしたが、彼の音楽家としての資質を証明する逸話です。1893年のウィーン音楽院での卒業演奏会では、彼はパブロ・デ・サラサーテの「カルメン幻想曲」を演奏しました。

1895年になると、ジョルジェはパリを訪れました。パリ音楽院作曲家教授のマスネ宛の紹介状を持参です。パリの当時の音楽水準は低かったらしいのですが、マスネ、フォーレとの接触は大きな刺激になったようです。同音楽院での彼の師は、ヨゼフ・マルシク (ヴァイオリン)、ホセ・ヴィーテ (ヴァイオリン)、ルイ・ディエメ (ピアノ)、アンブロワーズ・トマ (和声)、テオドール・デュボア (和声)、アンドレ・ジェダルジェ (対位法)、マスネ (作曲)、フォーレ (作曲)でした。また、学友にはジャック・ティボー、アルフレッド・コルトー、モーリス・ラヴェル、ロジェ・デュカス、アルトゥール・オネゲルらがいました。また、彼が出入りしたマノラアケ・エプレアヌ公のサロンには、音楽家のグノー、サン=サーンス、マスネ、フォーレ、アントン・ルービンシュタイン、アンリ・ヴュータン、イグナーツ・パンデレフスキ、画家のピエール・ボナール、ジャン・エドゥアール・ヴィヤール、作家のアナトール・フランス、マルセル・プルースト、彫刻家のアリスティード・ブールデルなどの名士が訪れました。パリにいる間に、彼はストラディヴァリを手に入れました。パリでの充実した時代を送った後、彼はルーマニアに帰国しました。

ルーマニアに帰国した後も、ヴァイオリニスト、ピアニスト、指揮者として各地を飛び回り演奏活動を行っていたエネスクですが、作曲家としても、歌劇≪オイディプス王≫など数々の名曲を残します。また、教育者としても、1928年にハーバード大学で教鞭を執ったりしました。

エネスクは 1946年に、全体主義政府から逃れるため、アメリカに亡命しました。また、マルカという女性に恋をし、1937年に 56歳で結婚しました。エネスクはかなり入れ込んでいたようで、彼女のことを常に「愛する王女」と呼んでいたそうです。精神疾患に罹患したマルカの看病のために、演奏活動を数年間中止したといいます。1947年にエネスク夫妻はパリに戻りました。彼は1952年 7月 1日に最後の遺言書を書き、そこには「私は自分の財産を後見人である私の妻にすべて委ねます。そして以前私が書いた遺言は無効とします。私は妻を私の後継者としてフランス・アカデミーの委員に任命します。」とあります。

1954年 6月 13日にエネスクは心臓発作を起こし、パリのアタラ・ホテル移されました。ホテルのオーナーのフロレスクは無料で受け入れ、エリザベート王妃は看護婦を雇い、エネスクが亡くなるまで看病させたといいます。作曲家のマルチェル・ミハロヴィッチもエネスクの死ぬ間際、看病に当たった一人です。ミハロヴィッチは「エネスクの意識はずっとはっきりしていたが、寝たきりで左腕は完全に麻痺していた」と言っていたそうです。1955年 5月 4日に、彼は亡くなりました。本書には、病床でのエネスクの写真が掲載されていますが、左腕は写されていません。ルーマニア国立オペラ歌劇場正面の公園にある彼の銅像の写真を見ると、左手はWernicke-Mannの肢位をとっているように見えます。彼は、希望したルーマニアのバカウ州テスカニではなく、パリのペール・ラシェーズ墓地に埋葬されました。

ヴァイオリニストとしてのエネスクの腕前は、今更説明の必要はありません。巨匠としての名声は、完全に確立されています。彼がヴァイオリニストとして如何に素晴らしかったかを示す逸話を「ストリング 2002年 9月号」から紹介します。

奏法を極めて至る音楽観というもの<一>-ヴァイオリニスト・朝枝信彦-

音程というのは、体全体でとる、という話を以前しました。音というものはそういうものだ、という話をしました。

で今回、もっと押し進んで、調性というのは、象徴からくるものである、ということですね。G-dur、D-dur、A-durという風に幸福度が増してくるシャープ系と、憂鬱度が増してくるフラット系、そういうものがありますよね。悲しい、だけど絶望していない、絶望しているけれども力強さのある c-mollとか。音程というのはそこから来るんですね。

だから『音程というのは作るものじゃなくて、来るもの』なんです。だから、象徴、イマジネーション、そういうものがあって、これは万人共通のものですね。そういうところから調性、音程が来る。

僕が初めてミルシュタイン先生にレッスンを受けた時に『君、音全部違っている』と言われたのは、そういう調性感からくる音程を考えていなかったからなんです。

僕は音程を正しく弾いたつもりでも、全然合っていないわけです。例えば、ブラームスの d-mollで、ソット・ヴォーチェで、というところから来る音程で弾いていなかったんですね。だから、君、全部音違っている、と言われてもそれは当然のことでしょう。

ミルシュタイン先生が亡くなる一週間前に、エネスコの CDが届いたことがありました。ヘンデルのニ長調の四番のソナタ。

先生は『きれいだな。お前分かるか』と言うわけ。『エネスコは音を探って弾いている、それが美しい』と言う。『ヴァイオリンをどうやって弾いたらいいか、今よく分かる』って言われるんですよ、八十九歳の先生が。僕みたいな若造にそういうこと言うわけ。泪流すんですよ。『でも、もう歳だからヴァイオリンは弾けない、だけど弾きたい』と言うんですね。『エネスコは偉大だったと。エネスコは美しい』と言うんです。感動しましたね。

ミルシュタイン先生が亡くなってだいぶ経つけれども、非常に懐かしいと同時に、そういうことを言う先生自体が、非常に崇高で美しいと思う。自分の中にもそういうものを求めているということを最近すごく感じるようになりましたね。

歳をとるというのは素晴らしいことですよ。

不幸というか、現代では、レッスンでそういうことを言ってくれる先生というのがほとんどいないですよね。目先の技術が優先されてね。

コンクールで良い賞をとる生徒を育てるのがいい先生とされているから。だけど、本当のものというのは、目に見えないものでしょう。目に見えるもの、計れるものというのは、確かに大事かもしれないけれど、それは一つの手段なんですよね。

手段を学習することによって、到達する真の目的というのは、本当は目に見えないものを悟るということなんですね。だから、それ自体は何の価値もないんですよ。

でも、そういうもの、つまり手段を学習することによって、ある時、ふっと、その奥にある、つまり目に見えないものを悟るわけですね。

指揮者としてのエネスクは、1898年に 17歳の時、自作のルーマニア詩曲 Op.1でタクトを振り、1905年以降は海外のオーケストラでも指揮をするようになりました。バロック、古典派、ロマン派、現代曲まで幅広いレパートリーを誇りました。アメリカの音楽学者の中には、指揮者としてのエネスクをレオポルト・ストコフスキー、ディミトリ・ミトロポロス、アルトゥール・トスカニーニと同格に扱う人もいるそうです。ルーマニア以外で彼が指揮したのは、コロンヌ、ラムルー (フランス)、ニューヨーク・フィル、フィラデルフィア交響楽団などです。

ピアニストとしてのエネスクは、1897年に 16歳でヴァイオリニストのエヴァ・ロランの伴奏としてデビューしました。彼はピアニストとして百回以上舞台に立ったと言われています。カーネギーホールを初めとする数々のホールで演奏し、ジャック・ティボーやパブロ・カザルス、ダヴィッド・オイストラフ、カール・フレッシュらの伴奏をつとめました。暗譜を得意とし、オーケストラ曲をピアノで数時間、暗譜で演奏することもあったそうです。バッハ、モーツァルト、ベートーヴェン、ブラームス、フランクのソナタとピアノ協奏曲全曲がレパートリーであり、しかも全て暗譜していたそうです。かのハイフェッツがヴァイオリンのレパートリー 930曲ほとんどをピアノ譜まで暗譜し、ときにピアニストより上手にピアノを演奏した逸話があるのと似ていますね。

教育者としては、弟子を列挙すれば、その凄さがわかるでしょう。弟子には、イェフディ・メニューインアルトゥール・グリュミオーイーダ・ヘンデルクリスチャン・フェラスウート・ウギ、ロベルト・ゾータン、イヴリー・ギトリスローラ・ボベスクらがいます。

本書は、写真が豊富ですので、是非実際に手にとって読んでみて欲しいと思います。

さて、それでは彼のCDを聴きながら、ワインでも飲むこととしましょう。今日聴く CDは、「George Enescu, J.S. Bach / Sonata and partitas for solo violin (PHILIPS 422 298-2)」。1948年の録音です。晩年の録音ですので、技術的には少し衰えが見られますが、それを補って余りある迫力が伝わってきます。ジョルジェ・ネエスクという「人」を感じる演奏です。

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ザハール・ブロンのレッスン

By , 2008年4月5日 10:21 AM

「ザハール・ブロンのレッスン アントニオ・ヴィヴァルディー (AMA VERLAG GmbH 企画制作、ヤマハミュージックメディア販売)」を見ました。

ザハール・ブロンの略歴は下記。

Wikipedia-ザハール・ブロン-

ザハール・ブロン(Zakhar Bron, 1947年 – )は、カザフスタン、ウラリスク出身のヴァイオリン奏者。

オデッサの音楽学校に学んだ後、1960年~1966年、グネーシン音楽院でボリス・ゴールドシュタインに、1966年~1971年、モスクワ音楽院でイーゴリ・オイストラフに師事し、1971年~1974年、同音楽院でオイストラフの助手を務めた後、ノヴォシビルスク音楽院、1989年、リューベック音楽院の教授、以後、ロンドン王立音楽アカデミー、ロッテルダム音楽院、ソフィア王妃音楽大学(マドリード)などでもヴァイオリンを教えた。現在はケルン音楽院、チューリッヒ音楽院教授。

主な門下には、ヴァディム・レーピン、マキシム・ヴェンゲーロフ、樫本大進、庄司紗矢香、川久保賜紀、神尾真由子などがいる。

1971年、エリザベート王妃国際音楽コンクール第12位、1977年、ヴィエニアフスキ国際ヴァイオリン・コンクールに入賞した。

2002年、チャイコフスキー国際コンクール、2004年、ジュネーヴ国際音楽コンクールの審査員も務めた。

収録されている曲は、「ヴァイオリン協奏曲イ短調、作品 3の 6」。ヴァイオリン学習者であれば、ほとんど誰でもさらう、メジャーな曲です。でも、実は Tuttiが結構綺麗な曲でもあります。Tuttiで第 2ヴァイオリンを弾いていると、第 1楽章の冒頭は

ほぼ同じリズムで純粋に和声を与えているのですが、和声とともに変化する下行系と上行系の音型の違いが曲調に変化を与えます。演奏していて、雰囲気をコントロールしている気分にさせられます。

さて、今回レッスンを受ける演奏者は音の綺麗な、若い女性。正確には弾けているのですが、伝わるものがあまりない演奏でした。私だったらどうアドバイスするか、考えながら聴きました。音のアタックが厳しすぎるのが一番気になった点です。

演奏後、ブロンの指示によって、みるみる曲が色づいてきます。技術的な指導で表現が鮮やかに変わるのが見物です。「伝わるものがない」という批評があったとき、よく精神面に言及されますが、純粋に技術的な要素が占める部分も大きいのだと痛感します。

時々ブロンがお手本として演奏するのですが、これが非常に上手。音に独特の色合いがあります。

一度ブロンの演奏を生で聴いたことがあります。チャイコフスキーコンクールで 2位であった演奏家とのジョイントだったのですが、その演奏家が子供に見えました。そのくらい、ブロンの演奏は素晴らしかったです。

このシリーズはいくつか作品があるみたいなので、早速 Amazonで注文しました。

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佐藤&佐藤

By , 2008年4月1日 8:06 PM

最近「GRIEG Complete sonatas for violin and piano」というCDを買いました。演奏者はヴァイオリン佐藤俊介、ピアノ佐藤卓史です。

グリーグのヴァイオリンソナタ第3番は、私が現在のヴァイオリンの師のコンサートで聴いて感動し、止めていたヴァイオリンをもう一度練習するきっかけになった、思い出の曲です。特に第2楽章の白石光隆氏のピアノが非常に綺麗だったことを覚えています。

ヴァイオリン演奏の佐藤俊介氏は、1984年生まれ。バンドエイドのCMで、手にバンドエイドを巻いてパガニーニの難曲を演奏していた逸話を何かの本で読んだことがあります。日本人なのですが、非常に面白い演奏をします。これまでの日本人にはない感性の持ち主です。

ピアノの佐藤卓史氏は 1983年生まれ。秋田県秋田市生まれ。ベートーヴェン国際やショパン国際ピアノコンクールでディプロマを受賞し、東京芸大を首席で卒業しています。私が好きなグリーグの緩徐楽章も納得いく演奏です。

オーソドックスな演奏ですが、主張するところは主張していて、型を破るところは破っていて、多くの人が楽しめる一枚だと思います。

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舞台裏の神々

By , 2008年3月28日 7:25 AM

今日紹介するのは、「舞台裏の神々 (Rupert Scottle著、喜多尾道冬訳、音楽之友社)」です。余りにも面白くて、最初から最後まで2回読みました。

1回目は新幹線の中で一人でゲタゲタ笑いながら読んでいて、周囲から腫れ物をみるような視線を浴びてしまいました。笑いのツボを突く話が多すぎます。

話の多くは、オーケストラや指揮者のこぼれ話です。それもユーモアたっぷりです。

ウィーン・フィルハーモニーのコンサートマスターだった、ヴィリー・ボスコフスキーのような腕の立つヴァイオリニストですら、シュトラウスの作品の多さにひどくてこずったことがある。あるとき、≪影のない女≫の上演後、彼はいつもとちがって、劇場内のドリンク・コーナーに直行し、大量のワインを一気飲みしたことがある。だれもがおどろいて、そのわけを訊いた。彼はただこう答えた、「これが飲まずにいられるか。今日はじめてこのオペラの音符をぜーんぶ完璧に弾けたんだから!」。

このようなことが、いつもうまくいくと思ったら大間違い。ヨーゼフ・クリップスが、一九七〇年代のはじめに、≪ばらの騎士≫をウィーン国立歌劇場で指揮したときに、こんなことが起こった。第二幕でオクタヴィアンが剣を引き抜いて、オックス男爵に切りかかるシーンがある。ここでズボン役で名高かったアグネス・バルツァが、四小節早く出てしまった。クリップスはまごついて、懸命に追いつこうと努力した。だが奮闘も空しく、全体のアンサンブルを回復できなかった。

共演者の一部は先行するオクタヴィアンについて行き、他の一部は楽譜通りの進行にきちんと従い、残りの大部分は両派のあいだを右往左往するありさまとなった。その結果ほんらいなら愉快なシーンが、不快なひびきに終始することになったのである

その日のオックス役は、リーダーブッシュで、彼はプロンプターに助言を求めた。彼はリーダーブッシュに、楽譜通りにオクタヴィアンの剣に当たって、大声で「やられた!」と叫べばよいと教えた。リーダーブッシュは言われた通りに叫んだ。少なくとも十回も。そんな大げさな叫び声にすっかり度肝を抜かれ、だれもが自分勝手に態勢を立て直そうとした。その混乱のなかで、この高名な指揮者は途方に暮れて腕を空しく漕いでいた。

結局、手のほどこしようのなくなった指揮者は、激しく両手をふり、聴衆にも聞こえるような甲高い声で、「中止、中止!」と叫ぶほかはなかった。そんなどうしようもない混乱のなかでも、クリップスは、オーケストラはもうとっくにアンサンブルを回復し、楽譜通りにきちんと演奏していることに気づくべきではなかったか。ウィーン・フィルハーモニーの楽員たちは、しかるべき時点で自分たちの自主権を思い出し、混乱した事態の回復を自分たちの力で成し遂げたのだ。それに気づいたクリップスは驚愕し、すっかり意気阻喪して、その後指揮活動をやめてしまった。かなり長い謹慎生活ののち、やっと気を取り直して、いつもの実入りのよい仕事に復帰したのである。

ヨーゼフ・クリップスは、本書ではあまり良い印象で書かれてません。 楽団員から好かれていなかったのでしょうか。他に、カール・ベームも、格好のネタとして書かれています。

私の好きなバーンスタインの逸話もあり、人間くささが伝わってきます。

バーンスタインは親密さとやさしさを求めるあまり、常識の限度を超える態度を見せてはばからなかった。彼はだれかれなく情熱的なキス(演出家のジョナサン・ミラーの言葉を借りれば、紙やすりでこすられ、いそぎんちゃくに吸い付かれるようなキス)をふりまく、自分の指揮台にいちばん近い席に座っているというだけで、その楽員にもキスするありさまだった。ウィーン・フィルハーモニーのあるヴィオラ奏者は、このキス責めから逃れようと、二列目にいる仲間に席を替わってもらったほどである。そんなことでかんたんに引き下がるレニーではない。キスの儀式がはじまり、席を譲って前列にやってきた奏者が巧みにそれを避けると、彼は二列目に進み、やっとキスを逃れたと思った当のヴィオラ奏者にブチューとやるのだった。

バーンスタインはとくに親密な演奏に成功したあとは、オーケストラ全体に舌による愛情表現を示そうとし、そのためにひとりひとりの楽員を舞台の袖で待ちかまえていた。もしキスの洗礼を避けたければ、楽員は聴衆にまぎれてホールを出なければならなかった。バーンスタインは自分のまったく知らない人にも、濃厚をキスを見舞うこともまれではなかった。彼はもともと男性的な魅力にあふれていたから、大勢の女性から憧れの目で見られていた。そんなひとりがウィーン・フィルハーモニーのヴィオラ奏者ハインツ・コルの義姉。彼女はマエストロに一度会わせてくれと義弟にしつこく頼んでいた。彼は彼女にいいよと気安く約束したものの、バーンスタインはいつも崇拝者の群れに取り囲まれているので、そうかんたんに思い通りにならなかった。マエストロがちょうどサラダをぱくついていたとき、コルはやっと話しかけるチャンスをつかんだ。指揮者と義姉がたがいに自己紹介したあと、指揮者は舞い上がっている若い女性をすぐさま抱き寄せ、マヨネーズだらけの口で彼女にブチューとキスをして、相手の唇をマヨネーズだらけにしてしまった。それまで遠くから憧れの眼差しで見ていたのが、あっというまに現実の悲惨さを味わわされることになったわけだ。

私が指揮者だったら、相手を選んでキスするかもしれませんが(^^;)、バーンスタインは手当たり次第です。女性のマヨネーズだらけの唇を想像して笑ってしまいました。今度、相手がいれば、真似したいものです。

あと、笑えるのが、オーケストラの楽員たちの悪戯です。

ウィーン・フィルハーモニーの楽員たちは、イギリス系のひどくいけ好かない指揮者に対して、ひどく巧妙な復讐を企てたことがあった。ザルツブルク音楽祭で、シューベルトの交響曲第九番≪グレート≫のプローベをしていたときのこと、この指揮者は祝祭大劇場の音響効果を調べるために、指揮台から離れ、その間オーケストラは指揮者なしのまま演奏することになっていた。彼が指揮棒を置くや、オーケストラはもっともすぐれた指揮者に導かれているかのように、すばらしいひびきで演奏しはじめた。この予期せぬ変化がくだんの指揮者の耳に聴きとれなかったはずはない。指揮台にもどった彼は、不安そうに自分の指揮棒を見つめ、それを取り上げるのにしばらく躊躇した。しかし楽員たちは容赦しなかった。彼がふたたび指揮をはじめると、この指揮者ならではの凡庸なひびきになり下がってしまった

この有名な指揮者は、メンデルスゾーンの交響曲≪イタリア≫のような作品を録音するのに、四百箇所にも継ぎはぎを必要とした。ドイツ・グラモフォンの録音技師によると、移行句がほとんどうまくいっていないので、その箇所は編集技術を最高度に駆使してやっと切り抜けることができたという。事情通にとっては不思議でもなんでもないことだが、このイギリス人はテンポ感覚に欠けていたわけだ。彼は最後の楽章で、四時間のテイクのうち三時間もこんなテンポでやってゆくことに費やすものだから、音楽のこまかなニュアンスなど消し飛んでしまわざるを得なかった。オーケストラと録音技師たちの絶えざる抗議に出会って、彼ははじめて自分の誤りを認めた。

それでも彼の録音したCDのほとんど、すぐれた内容を示しているというから、それは編集技術の絶大な威力と言わざるを得ない。ともあれ、ドイツ・グラモフォンが、もうこれ以上彼を起用する気にならなくなったのは当然のなりゆきだ。ドイツ・グラモフォンは、二〇〇一年一月に彼とのレコード録音の契約を打ち切った。彼の言によれば、それを新聞ではじめて知ったということだ。

無能な独裁者よりもさらに困った存在が、音楽の講釈を楽員に延々と垂れることが大好きな指揮者である。そんなひとりがヨーゼフ・クリップスである。彼はプローベを時間通りに終えることはまずなかった。予定された時間にプローベが終わっても、もう一度といってまたやり直す。というのも、「楽員というものはしごけばしごくほどよくなる!」、と頑なに信じているからだが、これほど楽員をばかにした言い草もない。このような無意味な時間の浪費は、楽員の復讐心を掻き立てる。それはある絶好の機会に実行に移された。クリップスは絶対音感に恵まれていないことにひどく悩んでいた。だから楽員たちはいつもそのことを当てこすっては彼にいやがらせをした。ウィーン・フィルハーモニーの楽員たちが、ブルックナーの交響曲第四番をプローベしていたときのこと、半音低く演奏した。それがわかったのは、チェロ奏者たちが三和音に似た主要主題を弾き出し、明るい高音に移ったときだった。

クリップスは泣き声で自分のミスをくどくどと弁解しはじめた。この勝利は正当なものだったが、これがなんども繰り返されることになる。たとえば、シューベルトの≪未完成≫交響曲の第一楽章の出だしは、コントラバスとチェロだけではじまる。この楽器の奏者たちはたがいにこの箇所を半音高く演奏しようと陰謀を企てた。それに気づかないヴァイオリン奏者が、楽譜通りに入ってきたとたん、一瞬ひどい耳障りな音になった。怒ったクリップスはヴァイオリン奏者たちの間違いを注意した。彼らはちゃんと楽譜通りに弾いていますと抗議する。しばらく考えたあと、彼はその張本人たちはだれかに気づいてひどく傷ついた。そして休憩時間に彼らをきびしく叱責した。

指揮者に腹を立てたとき、正面衝突するのではなく、こうした方法を取ることに、文化を感じます。抗議するのも楽しんでいるのですね。私はオーケストラで弾くのが嫌いなので、こうした悪戯をする機会はなさそうですが、一回やってみたい気もします。指揮者にしてみたら、最高にキツイでしょうね。

本書は、最初から最後までこうした逸話で構成されています。読みやすいですし、是非お薦めです。

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