夏休み
8月6~14日、ラボから夏休みを約一週間貰えるようになり、その間の外来も休診にできました☆
8月6日 秋田で当直
8月7日 郡山で福島の医師達と飲み会
8月8日 実家岡山へ
8月9日 運転免許更新、乗馬、地元の友人達と飲み会
8月10日 乗馬
8月11日 帰京
8月12~14日 橋本七段たちと旅行
8月12日からは、橋本七段たちと東北に金を落としに行く旅行。12日は松島付近の海沿いの旅館で一晩将棋を指し、13日はプロ棋士達 (島九段、森下九段、飯塚七段など) と被災者たちにボランティアで指導対局。夜は国分町で豪遊を予定しています。
2003年から夏休みには毎年ヨーロッパ旅行をしてきたのですが、流石に今年は東北に金を落とす方が優先されるかなと思います。
社団戦2戦目
7月31日に、将棋の社会人団体リーグ戦に行ってきました。この大会は、6月から一ヶ月に一回、数ヶ月かけて行われます。私は将棋 Barチーム (HSY28) からの出場でした。6月は 2局指して 1勝1敗、今回 7月は 1局だけでしたが何とか逆転勝ちし、通算成績で勝ち越すことに成功しました (現在 2勝1敗)。
帰宅してから記憶を辿って棋譜を並べ直してみて、自分らしい将棋だったなと思いました。序中盤で悪手を指して、苦しくなりながらも相手のミスに助けられて、終盤逆転・・・いつものパターンです。しかし、4段以上の強豪がゴロゴロいて、中には元アマチュア名人とか、元奨励会員がいる 3部リーグで指すには、こんな将棋指しているようではダメなんですね。
豊倉康夫
Brain Medical 2011年 3月号の連載「日本の脳研究者たち」に、豊倉康夫先生のことが書かれていました。非常に面白い論文だったので一部紹介しますが、是非原著を読んで頂きたいです。
「豊倉康夫 1923-2003 (岩田誠著, Brain Medical Vol. 23 No.1 2011)」
豊倉先生は親の反対を押し切って東京帝國大學医学部に進んだのですが、九州から上京するとき、1000語ほどのドイツ語単語カードを用意し、覚える毎に汽車の窓から捨てていったといいます。「関門トンネルの中にも、須磨の海岸にも、大阪の街の雑踏の中にも、水車小屋の上にも、白い紙片は少しづつ散って行った。最後のカードは大井川の鉄橋を渡る頃、投げた。それは河の流れに消え、汽車は轟々と音を立てて東京へ急いだ。その先は覚えていない。私は深い眠りに落ちた」
卒業後、豊倉先生は沖中重雄第三内科教授に弟子入りし、沖中内科の第一期生の一人となりました。そして、1964年東京大学神経内科の初代教授に選ばれました。豊倉先生は 41歳で引き受けることに悩み、同級生の萬年甫先生に相談した逸話が残っています。
ちなみに、東京大学神経内科は 1894年に衆議院議員長谷川泰氏による趣意書が出され、かの Charcotの弟子である三浦謹之助を教授として設立する動きがあったものの、その時は実現しなかったのです。
豊倉先生の功績は筋萎縮性側索硬化症 (ALS) の陰性徴候を見出したとか、「神経内科」誌を創刊したとか、SMONを命名し原因を解明したとか、Babinski徴候についての研究成果纏めてを歴史的に残る講演として発表したとか、Parkinsonが Parkinson病を報告した原著を翻訳して出版したとか、枚挙に暇はありません。また、古典的な原典論文を収集し、論文にリストに載せた話はこのブログでも以前触れました。教育者としても優れ、豊倉先生の元からは、30名以上の内科教授、他科を含めると 40名以上の教授が誕生したといいます。
こうした優れた医師の功績を後進の医師達は忘れる訳にはいきませんね。そういった意味でも、この論文は優れた価値があると思います。
最後に、自分の備忘録として、気に入ったいくつかの箇所を引用しておきます。
・豊倉は臨床の場における観察の重要性について「臨床の場では、同じ性質の現象が繰り返し現れてくるが、それを見逃さないように」と教え、さらに次のように付け加えた。「一度見たことにあまり意味をつけるな。ただ良く覚えておけ。二度見たら何かあると思え。それは残念ながら、大体 99.9%は本に書いてあることが多いが、稀には誰も気付いていないこともある!三度見たら只事ではない。それは、常に何物かである!」
・豊倉はラテン語を能くし、しばしばラテン語の成句を引いて、弟子たちを導いたが、臨床観察の重要性についてよく引用したのは、veritas nunquam latet (真理は決して隠れはしない) という言葉であった。豊倉は、恩師沖中重雄が書いた、「書かれた医学は過去のものである。目前に悩む患者の中に明日の医学の教科書の中身がある」をしばしば引用して臨床の大切さは繰り返し説き、沖中が「教科書がある」ではなく、「中身がある」と述べたことの重要性を指摘した。
・1956年の夏、急性扁桃炎で熱を出した豊倉は、ペニシリンの注射を受けた直後、ペニシリンショックのため人事不省に陥ったが、東京大学病院内の出来事であったため、迅速な処置と人工呼吸によって一命を取り留めた。この時の、ショックに陥ってから意識を失うまでの状況と、蘇生が成功して意識が戻り始めた時の状況を、豊倉は詳細に記載、分析し、意識回復期には、しばしば周囲の人からまだ意識が無いと思われていたのに、自らの意識が戻っていて言葉も理解できていることを伝えようにも全くそれができなかったことなど、実際の体験者でなければ解らないことを、明白に示したのである。この体験から、豊倉は、医師や看護師は、「昏睡状態で意識が無いと思われる患者に対しても、大きな声で励ましの声をかけ、手を握り締め、安心感を与えることがいかに大切か」ということを、覚えておかねばならないと繰り返し教えた。
・筆者に教室の主宰者としての心構えを示した。「教室員になにか優れたところ、いいところがあったら、直ちにそれをプラス評価しなさい。しかし、教室に何か欠けるところ、悪いところがあっても、直ぐにあれは駄目な人間だと思ってはいけない。マイナス評価するには 10年待ってからにしなさい」
・豊倉の人柄をよく示すものは、彼が教室員に対して好んで語ったいくつかの言葉である。中でも豊倉が最も好んだ言葉、「百年後のために あせらず 背伸びせず」を自らの手で大書し、東京大学神経内科の医局に掲げた。彼の好んだもうひとつの言葉は、ラテン語の成句「non sibi sed omnibus (自らのためにではなく、すべての人々のために)」であったが、これこそは、豊倉の人生全体を貫いた大きな思想である。
・彼は、自らの死期の近いことを悟った 2003年の初め、自らの手で色紙に、「飲みたまえ 飲みたまえ、 われも飲みたし語りたし」と書き、自分亡き後にはこの色紙を掲げて皆で飲んでほしいと、妻に告げた。その言葉どおり、豊倉を偲んでその葬儀に集まった親族、友人、そして弟子たちは、その色紙の前で、在りし日の豊倉の思い出話に、時間の経つのも忘れるほど語りあった。
SWEDDs
Parkinson病は、中脳黒質のドパミン神経細胞を主体とした変性を生じ、典型的には筋強剛 (rigidity) や静止時振戦 (resting tremor)、運動緩慢 (bradykinesia)、姿勢保持障害 (postural instability) といった Parkinson症状を呈する疾患です。ドパミン神経細胞の脱落が症状の原因となっていますので、ドパミンを内服で補充する治療などが行われ、それなりの治療効果を得ることが出来ます。
Parkinson病の鑑別診断としては、Parkinson症状を来す多岐に渡る疾患、すなわち各種変性疾患、薬剤性 Parkinsonism, 脳血管性 Parkinsonism・・・などが挙げられます。神経内科医は、頭部 MRIや脳血流 SPECT, 心筋 MIBGシンチといった検査を使い、診断を勧めていきます。海外では、放射性物質を使って脳内のドパミン・トランスポーターを調べる “DaT SPECT (dopamine transporter single photon emission computed tomography)” という検査を保険適応で行う国もあるそうですが、残念ながら日本では保険適応ではなく、自費診療であってもごく一部の病院でしか検査できません。この DaT SPECTでParkinson病の患者さんを調べると、ドパミン神経細胞の脱落を反映した所見が得られます。
近年、こうした診断技術の進歩と共に新しい概念が話題になってきています。それは “Scans without evidence of dopaminergic deficit (SWEDDs)” という概念です。わかりやすく言うと、どうみても Parkinsonなのだけど、”DaT SPECT” の正常だという症例が報告されるようになったのです。これらの患者さん達は、これまで全て Parkinson病と診断されてきましたが、DaT SPECTの結果から想像されるとおり、治療としてドパミンを投与しても効かず、Parkinson病とは別の病気ではないかといわれています。当然「SWEDDsとは何なのだろうか?」という疑問が出てきますが、Parkinson病ではない幾つかの疾患 (本態性振戦、鬱病、脳血管性 Parkinsonism、心因性 Parkinsonism, ドパミン反応性ジストニア、supranigral parkinsonism) の寄せ集めだろうという意見があります。
最近 SWEDDsに関する興味深い論文を読みましたので、紹介します。
Oral Case Presentation
英語での症例発表について、医学書院で勉強になる連載があったので紹介しておきます。
英語で発信!臨床症例提示 -今こそ世界の潮流に乗ろう-
Oral Case Presentation
齋藤中哉(ハワイ大学医学部医学教育部客員教諭)
[第1回]Aim high! You can do it.
[第2回]There’s a first time for everything.
[第3回]Keep up the good work!
[第4回]Practice Makes Perfect!
[第5回]Put first things first!
[第6回] Be proactive, not reactive
[第7回] Take a deep breath and relax.
[第8回] Realize thousands and millions of details.
[第9回] Never give up!
[第10回] Mutual teaching and learning is fun!
この講座は英語でのプレゼンテーションですが、日本語でのプレゼンテーションに置き換えても役立ちそうです。
ヨアヒム
6月 28日は、ヴァイオリンの巨匠ヨアヒム (1831年 6月 28日- 1907年 8月 15日) の誕生日。ベートーヴェンなど様々ヴァイオリン・コンチェルトでヨアヒム作のカデンツァが弾かれますので、名前を聞いたことのある方は多いでしょう。
ヨーゼフ・ヨアヒム -Wikipedia-
ソロバイオリニストとして知られるヨアヒムであるが、ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団に1848年~1850年の2年間在籍し、オーケストラ奏者に加えて、同楽団の首席奏者で構成されるゲヴァントハウス弦楽四重奏団で第二バイオリンも担当するなど幅広く演奏活動を行った。
ソロバイオリニストとしては、ヨハン・ゼバスチャン・バッハからルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンのヴァイオリン協奏曲(この曲がスタンダード曲になるにはヨアヒムの大きな貢献があった)を経て、年下の同時代人たち(その多くは彼の個人的な知人であった)の作品に至る幅広いレパートリーを演奏した。
これらの演奏に加え、アントニン・ドヴォルザーク、ロベルト・シューマン、マックス・ブルッフからヴァイオリン協奏曲の「献呈」も受けている。ただし、ドヴォルザークとシューマンの曲を演奏することはなかった。(ブルッフの協奏曲1番も献呈を受けたが初演は別人が担当)
尚、ヨアヒムはブラームスと特別に密接な協力関係にあり、ブラームスがヴァイオリン協奏曲を作曲した時は、器楽演奏についての技術的な助言を行なっている。この協奏曲は、1879年1月1日、ヨアヒムの独奏バイオリンで初演され、彼に献呈された(ただし公式に演奏したのは6回だけであった)。ブラームスのヴァイオリンとチェロのための二重協奏曲の初演では、独奏ヴァイオリンを演奏し(この曲は離婚問題による仲違いの後、友情修復の為に作曲された)、交響曲第1番のイギリスでの初演を指揮した。
ヨーゼフ・ヨアヒムはメンデルスゾーンから目をかけられた名演奏家で、更に多くの作曲家と交流があり、教師としても数々の巨匠を育てました。また、小品を並べたサロン風の演奏会が主流であった当時、現在のような演奏会形式を確立するために尽力しました。そのことについて、名著「二十世紀の名ヴァイオリニスト (ヨーアヒム・ハルトナック著、松本道介訳、白水社、原著は 1973年刊行)」に詳しいので引用します (※ただし、ハルトナックの本ではヨアヒムが 3月 28日生まれと誤って記されています)。
つまりわれわれは、次のことをよく心得ていなければならないのだ。われわれが五十年らい知っているような演奏会のやり方は、当時考えられなかったということである。プログラムははるかに盛りだくさんで、またそれに中心がなく、色とりどりであった。ベートーヴェンのヴァイオリン・コンチェルトの一八〇六年の初演のさいには、第一楽章と第二楽章のあいだに軽食をとることができたし、ソリストのフランツ・クレメント自作のソナタを聞くことができたのである。このソナタは、彼が一本の弦のために作曲したもので、演奏にあたって彼は弦が聴衆にも見えるような姿勢で楽器を持ったのであった。一般的にプログラムは寄せ集めであり、そうしたことが重なる場合の常として、その水準はもっともつまらない部分へと向かっていった。その結果は、サロン用の小品が勝利をおさめたのである。
(略)
モーツァルトを演奏する者は会場がからっぽになることを考えにいれなければならなかったし、バッハを演奏するのは愚か者であった。
ヨーゼフ・ヨーアヒムはこの愚か者のひとりであったが、彼こそは本質的な意味でわれわれの今日の演奏会形式の恩人なのであった。そしてわれわれがこんにちモーツァルトのコンチェルトやバッハのソナタを、あるいはまたベートーヴェンのヴァイオリン・コンチェルトあるいはソナタを演奏会場で聞くとき、本来は、一分間、彼のことを思いだすべきなのである。
我々はヨアヒムに感謝しなければいけないんですね。
そんなヨアヒムですが、貴重な録音が残っています。ヨアヒム晩年の演奏で、ボウイングがかなり衰えているのが残念ですが、それでもアゴーギクの付け方とか、伝わるものがあります。100年以上前の巨匠の録音・・・深いです。
・Joseph Joachim plays Brahms Hungarian Dance #1
・Joseph Joachim plays Brahms – Joachim : Hungarian Dance No.2
(参考:過去の当ブログ関連記事)
・ビルロート:近代外科学の父「ビルロート」の家にヨアヒムが呼ばれたこともあったようです。
・F. A. E.のソナタ:ブラームス、ロベルト・シューマン、ディートリヒが、ヨアヒムの到着を待つ間に各楽章を書いたヴァイオリン・ソナタ。
・無伴奏ヴァイオリンのためのソナタ:バッハの無伴奏ソナタにもヨアヒムの録音が残っています。
・ライプツィヒ・ゲヴァントハウス弦楽四重奏団:ヨアヒムも所属していたというライプツィヒ・ゲヴァントハウス弦楽四重奏団の元メンバーが、ヨアヒムの逸話を教えてくださいました。
・ベトコンのカデンツァ:ヨアヒム版を含む、ヴァイオリン協奏曲 (ベートーヴェン) のカデンツァ聴き比べ。
社団戦
6月26日に社団戦に行ってきました。
将棋 Barチームで出場し、チームの結果は1勝3敗、私は 2局指して、1勝1敗でした。
1局目は陽動振り飛車にかき回され、中盤圧倒的不利な状況になり、何とか相手の攻めを切らせかけるところまでいきましたが、終盤力尽きて負け。でも、チームの中では投了が最後になるまで粘りました。(対戦相手のチーム「原宿カサブランカ」の方がブログを書いています )
2局目は、四間飛車に地下鉄飛車で対応。ちょい指しやすいくらいのところから、攻めを失敗し完切れ。粘りに粘って、150手くらいまでいきましたが、相手の玉は完全上部開拓し、入玉確定。指す手がないので、こちらほぼ裸玉にも関わらず飛車交換を挑みました。相手9八に歩、9七にと金、9五に玉、8一に桂がいるところで、こちらが9一飛車と打って、9三歩と”二歩”を誘発し、反則勝ち。粘るといいことあるものです。
3部リーグといえども、元奨励会員がギリギリの勝負をしていたり、非常にレベルが高かったです。将棋 Barで酒を飲みながらまったり指すのが好きな私としては、もっと弱いチームとのんびり楽しみたいですね。